星月夜の森へ
─ 42 ─
連れ戻される日が来たのだと思った。
河に挟まれた孤島のような場所からの。
彼は迎えには来ない。
そのことを、由井はよく分かっていた。
懐かしい声に振り返ると、そこにはこの世界では数少ない、見知った少女の姿があった。
泣きそうな顔をして、立ち尽くしている理由が思い当たらない。
ああいった場所から逃げ出した者の末路を思って、悲しんでくれているのだろうか。
実際にどうだか知らないが、由井が知る限りの知識では、足抜けをした女郎が捕まった場合の仕置きは苛酷なものだ。
優しくて親切で、やわらかな口調は大切な家族を思い出させるから、その声で名を呼ばれるのは好きだけれど嫌だった。彼女に何の咎もないのに、いつまでも打ち解けずにいることに、申し訳ない気持ちはあったけれど、殊更に頑な姿勢を貫いていたのは、親しくなって苦しくなることは目に見えていたからだ。
相変わらず、花の似合う愛らしい少女だと思いながら、由井ははらりと地に落ちた布を拾い上げた。
「ユゥイ、このお姉ちゃん、お友達なの?」
上着の裾を引っ張って、カイルは舌足らずに問う。
お友達。
どうだろう。
彼女は自分にとって何であったか、由井には分からない。
「ユ……イ……」
今にも転びそうな心許ない足取りで、リシェは歩み寄り、由井に取りすがった。
その目からぽろぽろと零れる透明な滴を、綺麗だなと由井は思う。
「ねえ、お姉ちゃんはユゥイのお友達なの?」
今度は、リシェのスカートをカイルは引っ張った。
こくこくと頷きながら涙を拭うと、リシェはカイルの頭を撫でて、
「そうよ、ユゥイのお友達なの」
と、にっこり微笑んだ。見る見るうちに真っ赤になったカイルは、リシェのスカートから手を離し、慌てて兄であるフランの後ろに逃げ込んだ。
「……あんた、迎えにきたのか?」
フランの声音は、やや険のあるものだった。表情からして、あからさまにリシェに対して不信感を見せている。
「いえ……偶然よ、夫に付いてきただけなの」
夫。
銀月楼の上臈が? では連れ戻しに来たのではない?
由井は首を傾げた。
人並みに周囲の事に対して耳を傾けていれば、リシェが上臈に上がったのは、身請けをされる前の箔付けの為だと気付いていただろうが、全く無関心だった由井には全く与り知らぬことだった。
「ああ、今日のお客、メイヤー商会の人だっけ」
十二歳にしては大人びた口調は、随分と皮肉めいていた。
「ねえ、どうしてユゥイはこんな怪我をしているの?」
涙を拭いながらリシェは尋ねた。
「知らない。その怪我を負って、ここに運ばれてきたんだし。獣の爪で裂かれたような傷には見えるけど、何があったかは僕らには分からないよ。ユゥイは何も言わないし」
「獣の……爪……」
さっとリシェの顔が蒼褪めた。
──ああ、きっと誤解をしている。
由井は思ったけれど、それをわざわざ説明しようとは思わなかった。
「ユゥイの家、知ってる?」
「いいえ。……身寄りがないらしいと聞いたことはあるけれど」
ふうん、と愛想のない応えの後、難しい顔で何屋から考え込み始めたフランに、
「どうして?」
リシェは、おずおずと問い返した。
「……ユゥイ、怪我が酷くて、ろくに動けないうちから抜け出してばかりいたから、早く家に帰りたいのかな、って」
ふいっと横を向いて、フランは答えた。
いくら攫われたからといって、銀月楼に帰ろうとするはずはないだろう。それに、ここは領主の館だ。不自由などはしていないだろうし、むしろそのあたりの農家で保護されるよりは遥かに手厚い看護も受けているに違いないとリシェは思う。
銀月楼に連れて来られる前、いったいユゥイはどこにいたのだろう?
互いの過去に付いて尋ねないのは、ああいった場所に暮らす者の暗黙の決まり事だ。それでも花影や禿同士の間では、多少の事情は噂で流れるものなのに、由井に関しては無責任な憶測しか誰も口にしなかった。楼主の手許には、出身地や家族について、アトールへ身を堕とした事情だけでなく、親しかった者に付いてなどが詳細に記されたものがあるというが、果たして由井に関しては、ほとんど白紙なのではないかと思われるほどに。
黒髪や顔立ちだけでなく、最初の頃は言葉も生活習慣に関してもほとんど理解していなかったから、異国人だろうというのは分かっていた。でも、それだけだ。
「お姉ちゃん、ユゥイを連れてっちゃうの?」 フランの足にしがみつきながら、カイルはリシェを見上げる。寂しそうな顔に、ユゥイが少なくともこの子たちには大事にされていることを感じ取って、リシェはゆっくりと首を横に振った。
ここに由井がいるかもしれないことを、ファーランは知っていて楼主に伝えていないなら、自分もまた知らぬ振りをすべきだと、そうしたいと思う。
「ユゥイは、ここにいる方が幸せよ、きっと」
だから、それは心からの言葉だった。
まさか由井の心を凍らせているとも知らず。
一方、応接室では、ミディールが苦虫を噛み潰したような顔をナーダに向けていた。
「……成り行きだ」
ふん、と鼻を鳴らしてナーダは視線を外した。
「ですが、」
「いずれは分かる事だろう」
まるで興味なさそうに聞き流している様子ではあっても、目の前の男は、抜かりなく状況を分析しているのだろうと思うと、溜め息も深くなる。
「先日、怪我人をひとり保護してね。おそらく銀月楼から攫われたという上臈だろうと見当はつけていたんだが、王都まで連れて行けるまでに回復してからと思っていたら、こんな時期になってしまった」
どうして自分がこんな言い訳がましい事を口にせねばならないのかと思いながらも、ナーダはハルウェルにことのあらましを説明した。ある程度、情報は与えておいた方が無駄な詮索をされずに済む。
「銀月楼に連絡をする前に、ちょっと確かめなくてはならないこともあってな」
「おかげで、リシェは今、懐かしい再会をしているわけですね」
それは全く嫌みなどではなく、珍しく、心から微笑を浮かべているようだった。
「攫われた上臈が、妻と仲が良かったらしいことは聞いていましたし、その事は今も気にしているようでしたから、この偶然には感謝しておりますよ」
そういって、ハルウェルはナーダたちに向かって軽く頭を下げた。
そして、その再会を祝ってか、ナーダはハルウェル夫妻に客間を用意し、二人はその心遣いに甘えることにした。 数日の滞在を勧められたが、ハルウェルにそれだけの時間的余裕などなかった。あれば、とっくに蜜月旅行に出掛けている。が、鷹揚にも、彼は妻にしばらく旧友の側にいてやってはどうかと提案した。逡巡する妻を安心させるように笑顔で頷いてやると、目尻に涙を滲ませてリシェはそれを受け入れた。新婚早々、何故、もう忘れても良い場所の事に関わらせねばならないのかという気持ちはあれど、このまま王都に帰っても彼の知らぬ場でその花の顔に暗い影を落とすのだろうと思うと、そう言わずにはいられなかったのだった。
とはいえ。
その夜から、リシェと同室の部屋で休むことになった由井の方は、大変に困惑していた。
「積もる話もあるだろうけど、あまり夜更かしして、身体に無理を掛けないようにね」
などと、リシェの夫だという男にいわれても、積もる話がどこにあるというのか。
でも、リシェの方はそうでもないのか、嬉しげに頬を染めて夫に礼を述べ、由井と寝台を並べたのだった。
灯りを落としていても、カーテンを開けていると、月明かりで部屋の中は存外に明るい。 まだ癒えたというには程遠い肩を庇う由井の様子に、リシェは痛ましげに形の良い眉を顰めた。
「……痛む?」
大きな声では傷に響くとでも思ったのか、吐息を零すような、掠れるぎりぎりの小声で尋ねられ、由井は首を横に振る。痛くないわけではないし、不自由ではあるが、痛いと首肯したところで、それに意味があるとも思えなかった。
「でも、ナーダ様のところで保護されてて、ほんと、良かった。ずっと心配してたのよ」
心配?
何を?
そう問い返す事が愚かしい事くらいは、由井にも分かっていた。
傍目には、恐ろしい獣に自身が攫われたように見えていただろうということくらいは想像がついたし、そうでなくても、挨拶もなしに姿を消せば、リシェのように優しい人間なら心配するだろうということが、心を掠めたことはある。
「……銀月楼に戻るつもりはある?」
それには素直に首を横に振った。
戻るなら。
戻るなら、許されるなら、あの温もりの中が良い。
だけど。
由井は目を閉じた。
眠りは救いだ。何も考えなくて済む。
「ユゥイ、もう寝ちゃった?」
そんな声が聞こえたが、由井は身じろぎもせず、黙っていた。
昼間に、フランとカイルがリシェを交えて騒いでいたことで、いくらか気持ちが高ぶりでもしたのか、身体も精神も疲労を訴え、意識はもう眠りの底へ沈もうとしている。
起きた時、するりと剥がれ落ちるように忘れてしまう夢なら、見るくらい許されるだろう。
フェンの懐で見ていたように、ただ幸福なばかりであった頃の夢を。
「ユゥイ?」
呼び掛ける声が遠い。
そのまま眠りの水に由井は呑まれ、返らぬ応えに、リシェは諦めたように微かな溜め息を零すと、カーテンを引き、部屋を闇に閉ざしたのだった。
雨が窓を激しく叩く音で、リシェは目覚めた。いくらカーテンを閉めているとはいえ朝にしては部屋の中は暗い。
けれど、たっぷりと眠った感覚から、もう夜明けは迎えているはずだと分かる。伸び上がって、カーテンを開けると、光をも遮る重くたれ込めた雲から雨は打ち付けるように降り注ぎ、濡れた窓ガラスの向こうには酷く歪んだ風景が広がっていた。
「ユゥイ、起きてる? まるで嵐みたいよ」
そう言いながら振り返ったリシェは、ひっと小さな声を上げた。
昨夜は確かに隣の寝台で眠っていたはずの由井の姿が、どこにもなかった。
河に挟まれた孤島のような場所からの。
彼は迎えには来ない。
そのことを、由井はよく分かっていた。
懐かしい声に振り返ると、そこにはこの世界では数少ない、見知った少女の姿があった。
泣きそうな顔をして、立ち尽くしている理由が思い当たらない。
ああいった場所から逃げ出した者の末路を思って、悲しんでくれているのだろうか。
実際にどうだか知らないが、由井が知る限りの知識では、足抜けをした女郎が捕まった場合の仕置きは苛酷なものだ。
優しくて親切で、やわらかな口調は大切な家族を思い出させるから、その声で名を呼ばれるのは好きだけれど嫌だった。彼女に何の咎もないのに、いつまでも打ち解けずにいることに、申し訳ない気持ちはあったけれど、殊更に頑な姿勢を貫いていたのは、親しくなって苦しくなることは目に見えていたからだ。
相変わらず、花の似合う愛らしい少女だと思いながら、由井ははらりと地に落ちた布を拾い上げた。
「ユゥイ、このお姉ちゃん、お友達なの?」
上着の裾を引っ張って、カイルは舌足らずに問う。
お友達。
どうだろう。
彼女は自分にとって何であったか、由井には分からない。
「ユ……イ……」
今にも転びそうな心許ない足取りで、リシェは歩み寄り、由井に取りすがった。
その目からぽろぽろと零れる透明な滴を、綺麗だなと由井は思う。
「ねえ、お姉ちゃんはユゥイのお友達なの?」
今度は、リシェのスカートをカイルは引っ張った。
こくこくと頷きながら涙を拭うと、リシェはカイルの頭を撫でて、
「そうよ、ユゥイのお友達なの」
と、にっこり微笑んだ。見る見るうちに真っ赤になったカイルは、リシェのスカートから手を離し、慌てて兄であるフランの後ろに逃げ込んだ。
「……あんた、迎えにきたのか?」
フランの声音は、やや険のあるものだった。表情からして、あからさまにリシェに対して不信感を見せている。
「いえ……偶然よ、夫に付いてきただけなの」
夫。
銀月楼の上臈が? では連れ戻しに来たのではない?
由井は首を傾げた。
人並みに周囲の事に対して耳を傾けていれば、リシェが上臈に上がったのは、身請けをされる前の箔付けの為だと気付いていただろうが、全く無関心だった由井には全く与り知らぬことだった。
「ああ、今日のお客、メイヤー商会の人だっけ」
十二歳にしては大人びた口調は、随分と皮肉めいていた。
「ねえ、どうしてユゥイはこんな怪我をしているの?」
涙を拭いながらリシェは尋ねた。
「知らない。その怪我を負って、ここに運ばれてきたんだし。獣の爪で裂かれたような傷には見えるけど、何があったかは僕らには分からないよ。ユゥイは何も言わないし」
「獣の……爪……」
さっとリシェの顔が蒼褪めた。
──ああ、きっと誤解をしている。
由井は思ったけれど、それをわざわざ説明しようとは思わなかった。
「ユゥイの家、知ってる?」
「いいえ。……身寄りがないらしいと聞いたことはあるけれど」
ふうん、と愛想のない応えの後、難しい顔で何屋から考え込み始めたフランに、
「どうして?」
リシェは、おずおずと問い返した。
「……ユゥイ、怪我が酷くて、ろくに動けないうちから抜け出してばかりいたから、早く家に帰りたいのかな、って」
ふいっと横を向いて、フランは答えた。
いくら攫われたからといって、銀月楼に帰ろうとするはずはないだろう。それに、ここは領主の館だ。不自由などはしていないだろうし、むしろそのあたりの農家で保護されるよりは遥かに手厚い看護も受けているに違いないとリシェは思う。
銀月楼に連れて来られる前、いったいユゥイはどこにいたのだろう?
互いの過去に付いて尋ねないのは、ああいった場所に暮らす者の暗黙の決まり事だ。それでも花影や禿同士の間では、多少の事情は噂で流れるものなのに、由井に関しては無責任な憶測しか誰も口にしなかった。楼主の手許には、出身地や家族について、アトールへ身を堕とした事情だけでなく、親しかった者に付いてなどが詳細に記されたものがあるというが、果たして由井に関しては、ほとんど白紙なのではないかと思われるほどに。
黒髪や顔立ちだけでなく、最初の頃は言葉も生活習慣に関してもほとんど理解していなかったから、異国人だろうというのは分かっていた。でも、それだけだ。
「お姉ちゃん、ユゥイを連れてっちゃうの?」 フランの足にしがみつきながら、カイルはリシェを見上げる。寂しそうな顔に、ユゥイが少なくともこの子たちには大事にされていることを感じ取って、リシェはゆっくりと首を横に振った。
ここに由井がいるかもしれないことを、ファーランは知っていて楼主に伝えていないなら、自分もまた知らぬ振りをすべきだと、そうしたいと思う。
「ユゥイは、ここにいる方が幸せよ、きっと」
だから、それは心からの言葉だった。
まさか由井の心を凍らせているとも知らず。
一方、応接室では、ミディールが苦虫を噛み潰したような顔をナーダに向けていた。
「……成り行きだ」
ふん、と鼻を鳴らしてナーダは視線を外した。
「ですが、」
「いずれは分かる事だろう」
まるで興味なさそうに聞き流している様子ではあっても、目の前の男は、抜かりなく状況を分析しているのだろうと思うと、溜め息も深くなる。
「先日、怪我人をひとり保護してね。おそらく銀月楼から攫われたという上臈だろうと見当はつけていたんだが、王都まで連れて行けるまでに回復してからと思っていたら、こんな時期になってしまった」
どうして自分がこんな言い訳がましい事を口にせねばならないのかと思いながらも、ナーダはハルウェルにことのあらましを説明した。ある程度、情報は与えておいた方が無駄な詮索をされずに済む。
「銀月楼に連絡をする前に、ちょっと確かめなくてはならないこともあってな」
「おかげで、リシェは今、懐かしい再会をしているわけですね」
それは全く嫌みなどではなく、珍しく、心から微笑を浮かべているようだった。
「攫われた上臈が、妻と仲が良かったらしいことは聞いていましたし、その事は今も気にしているようでしたから、この偶然には感謝しておりますよ」
そういって、ハルウェルはナーダたちに向かって軽く頭を下げた。
そして、その再会を祝ってか、ナーダはハルウェル夫妻に客間を用意し、二人はその心遣いに甘えることにした。 数日の滞在を勧められたが、ハルウェルにそれだけの時間的余裕などなかった。あれば、とっくに蜜月旅行に出掛けている。が、鷹揚にも、彼は妻にしばらく旧友の側にいてやってはどうかと提案した。逡巡する妻を安心させるように笑顔で頷いてやると、目尻に涙を滲ませてリシェはそれを受け入れた。新婚早々、何故、もう忘れても良い場所の事に関わらせねばならないのかという気持ちはあれど、このまま王都に帰っても彼の知らぬ場でその花の顔に暗い影を落とすのだろうと思うと、そう言わずにはいられなかったのだった。
とはいえ。
その夜から、リシェと同室の部屋で休むことになった由井の方は、大変に困惑していた。
「積もる話もあるだろうけど、あまり夜更かしして、身体に無理を掛けないようにね」
などと、リシェの夫だという男にいわれても、積もる話がどこにあるというのか。
でも、リシェの方はそうでもないのか、嬉しげに頬を染めて夫に礼を述べ、由井と寝台を並べたのだった。
灯りを落としていても、カーテンを開けていると、月明かりで部屋の中は存外に明るい。 まだ癒えたというには程遠い肩を庇う由井の様子に、リシェは痛ましげに形の良い眉を顰めた。
「……痛む?」
大きな声では傷に響くとでも思ったのか、吐息を零すような、掠れるぎりぎりの小声で尋ねられ、由井は首を横に振る。痛くないわけではないし、不自由ではあるが、痛いと首肯したところで、それに意味があるとも思えなかった。
「でも、ナーダ様のところで保護されてて、ほんと、良かった。ずっと心配してたのよ」
心配?
何を?
そう問い返す事が愚かしい事くらいは、由井にも分かっていた。
傍目には、恐ろしい獣に自身が攫われたように見えていただろうということくらいは想像がついたし、そうでなくても、挨拶もなしに姿を消せば、リシェのように優しい人間なら心配するだろうということが、心を掠めたことはある。
「……銀月楼に戻るつもりはある?」
それには素直に首を横に振った。
戻るなら。
戻るなら、許されるなら、あの温もりの中が良い。
だけど。
由井は目を閉じた。
眠りは救いだ。何も考えなくて済む。
「ユゥイ、もう寝ちゃった?」
そんな声が聞こえたが、由井は身じろぎもせず、黙っていた。
昼間に、フランとカイルがリシェを交えて騒いでいたことで、いくらか気持ちが高ぶりでもしたのか、身体も精神も疲労を訴え、意識はもう眠りの底へ沈もうとしている。
起きた時、するりと剥がれ落ちるように忘れてしまう夢なら、見るくらい許されるだろう。
フェンの懐で見ていたように、ただ幸福なばかりであった頃の夢を。
「ユゥイ?」
呼び掛ける声が遠い。
そのまま眠りの水に由井は呑まれ、返らぬ応えに、リシェは諦めたように微かな溜め息を零すと、カーテンを引き、部屋を闇に閉ざしたのだった。
雨が窓を激しく叩く音で、リシェは目覚めた。いくらカーテンを閉めているとはいえ朝にしては部屋の中は暗い。
けれど、たっぷりと眠った感覚から、もう夜明けは迎えているはずだと分かる。伸び上がって、カーテンを開けると、光をも遮る重くたれ込めた雲から雨は打ち付けるように降り注ぎ、濡れた窓ガラスの向こうには酷く歪んだ風景が広がっていた。
「ユゥイ、起きてる? まるで嵐みたいよ」
そう言いながら振り返ったリシェは、ひっと小さな声を上げた。
昨夜は確かに隣の寝台で眠っていたはずの由井の姿が、どこにもなかった。
2008.10.26
Copyright (c) 2008- Sorazoko All Rights Reserved.