星月夜の森へ

─ 41 ─

 それは、春も盛りの日の事。
 カーラスティンの王都クレインの一角で、ささやかな結婚式が挙げられた。
 誰もがその花嫁の愛らしさに、花婿たる薬種商メイヤー商会の跡取り息子を羨んだ。

 この春、ハルウェル・メイヤーは妻を迎えた。
 歳の差は八つ。
 相手は父親が見付けて来た。
 もともとは、馴染みの傾城に付いていた花影であった彼女をひどく気に入り、その頃からの画策ではあったのだろう。
 彼は代々続く薬種問屋の跡取り息子だ。
 何も分かっていなかった頃は、それなりに反抗してみせたりもしたが、店を継ぐことを自ら望んでいる今、父親の持って来た話を蹴って機嫌を損ねる気にはならなかった。そもそも、父親が選んだということは、商売上でも有利に働く者に違いないのだから。
 大店の女将に、身請けした上臈を迎える事は珍しいことではない。傾城とまではいかなくても、格子や籠女といった格上の上臈であれば、上流階級の娘と同等の教養は身に付けているものだし、人の心を読む事や駆け引きに長けている。蝶よ花よと育てられた小娘などより、よほど役に立つというものだ。しかも、銀月楼の上臈ともなれば社会的地位を誇示することにも繋がる。
 が、これから上臈に上がるという花影に過ぎないと知らされた時には、さすがに父親が耄碌したのかと首を傾げた。
 急いで嫁を迎えねばならない歳でもなし、蕾のままの娘を娶りたいと望むほど初心な歳でもない。すれっからした相手というのもぞっとしない話だが、あまりに世間知らずでも困る。
 が、父親に付き合って、何度か顔を会わすうちに、それが杞憂である事を知った。
 歳若いだけに、足りぬところはあるにせよ、立ち振る舞いの上品さや知識の豊富さだけでなく、それ以上に、周囲の様子に目を配り、機転を利かせる事に長けていたのだ。
 酒ひとつ注ぐにも、絶妙な間を読み取る。
 目配せひとつで、こちらが要求することを察し、必要なときは静かに場を外す。
 アトールというところは、何も享楽に耽る為だけの場ではない。
 時には重要な商談の場に選ばれることもある。
 なるほど、父が目を掛けるはずだ。
 改めてその慧眼に、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
 それに。
 どうせまだ子供だと、ほんの気紛れに表通りで売っていた飴細工の花を贈ったときの嬉しそうな顔と言ったら。
 こんな世界でありながら、いや、むしろこんな閉ざされた世界であるが故に、無垢なままに育った部分があるのかもしれない。
 以来、小さな髪飾りや、少女たちが好みそうな香り袋、可愛らしい沓、そんなものに 目が行くようになった。これなら、あの娘はあの笑顔をまた見せてくれるだろうか、そんなことを思うようになったのだった。
 彼女がどう思っていたかは分からない。
 それでも話はとんとん拍子に進み、ある程度画策された事であるにせよ、咲き初めた花を摘んだ相手に、そのまま身請けされる事が決まった彼女のことは、今後アトールではひとつのお伽話となって語られてゆくに違いない。その立役者になったことは、まんざら悪い気分ではなかった。

 そんなわけで、新婚早々ゆっくりと蜜月旅行にも行けない忙しさの中、彼は王都からさほど遠くないエディン領への商談へ、彼女を伴っていた。
 行程は片道二日程度。
 薬草の栽培が盛んで、今後の勉学も兼ねて、などと言い訳をしていたが。
 いくら銀月楼のとはいえ、上臈であった娘が妻の座に付くというのを,不快とまでは行かずとも、いろいろ感じるところはあったらしい使用人たちが、彼女を主人と認めるのに対して時間はかからなかった。だから、留守を任せても良かったのだが、彼の方が離れ難かったというのが本当のところだった。
 無事にその年の契約を交わした後、彼は妻を薬草園へと誘った。
 一見、花畑のような光景に目を見張る妻の様子は、いたく彼を満足させた。
 薬草園ときいて、おそらくは何かおどろおどろしい想像でも抱いていたのだろう。
 が、そこに広がるのは、慎ましやかで可愛らしい花の群生。
 光を透かしそうな緑から、深く青みがかった緑まで、様々な葉の色の中に、やわらなかな色彩が滲んでいた。
 それまで、どこか物思わしげだった表情が、純粋な驚きに払拭され、やがてほころぶような笑顔に満ちてゆき、ずっと彼の半歩後ろに付き従うように歩いていた彼女が、まるで花々に手招かれるようにして初めて彼の前に歩を進める。
 風に独特の香りが混じる。それも、けっして苦い薬を思い出させるようなものではなく、ほのかに甘く清廉なものだ。
 その中を、それがどのような形で使われているのかを説明しながらゆっくりと歩いていると、それぞれに個性的な花々に溜め息を零しながら、ふと彼を見上げる妻の表情はすっかり心酔しているのが見て取れて、彼女を妻に迎えたことに、心底幸福をかみしめたのだった。
 十分に薬草園を堪能したあと、薬草園の管理人の家に寄ると、これまた良い香りのお茶でもてなされた。口に広がる甘みは、薬草園の主人が、養蜂家の弟から手に入れたという蜂蜜がもたらしている。
 銀月楼ですら蜂蜜は滅多に口に入らない高級品でもあった。
 薬草園の主人に勧められて、また別の香茶を口にしながら、蕩けるような笑みを浮かべる妻に、彼はしみじみと愛しさというものを感じていた。

 薬草園を後にして、旅の締め括りに彼らが向かったのは、エディン領の領主の館だった。
「今、領主様は病床にあるとの事だから、心ばかりの見舞いの品をと思ってね」
 夫の言葉に、妻は──リシェは、僅かに身を強張らせた。
 ──もしかすると、ナーダがユゥイの行方を知っているかもしれないわ。
 それは、アトールを後にする間際、姉のように母のように可愛がり世話をしてくれたファーランが、さりげなさを装って口にしたことだった。
 エディン領に赴く事を聞かされてから、気にはなっていたのだ。
 動揺を気取られないよう湛えていた笑顔のぎこちなさを、とうに夫に見抜かれていた事など気付かぬまま、リシェは久しぶりにナーダこと、エディン領次期領主ノルディウス・エディンと対面したのだった。
「ハルウェル・メイヤーが結婚したというのは聞いていたが……」
 しみじみと呟くナーダを「失礼ですよ」と後ろから小突いたのは、ミディールだ。
 メイヤー商会とエディン領の付き合いは長い。安定した質と量の薬草を栽培し卸せるようになったのは、メイヤー商会の助力が少なからずあったからということもあって、随分と丁重に応接室へと通された。
「容態は落ち着いているんだが……」
 昼間でも眠っている事が多くなったと、見舞いの品を受け取り、礼を述べたナーダは表情を曇らせたのは僅かの間で、すぐに、
「改めておめでとう、リシェ」
 と、親しげな笑みを向けた。
 二人の繋がりに付いて、今ひとつ分からないハルウェルは、あからさまに不快そうな顔で二人を眺めやる。アトールの不文律として、他の客やアトールにおいて関わっている者の事は話さないというものがあって、どう説明していいのか困惑するリシェの代わりに、
「ああ、知らなかったのか。ファーランはいずれ妻に迎えるつもりだからな。リシェの事も知ってるさ」
 と、ナーダがあっさりと言ってのけた。無論、後ろに控えていたミディールが意味ありげな溜め息を吐いた事など、意に介する事もなく。
 昨年の豊作によって、活気を取り戻した市場のことや、目下の懸念材料であるグリヴィオラとルウェルトの動静についてなど、ナーダとハルウェルが話していることを、リシェはじっと聞き入っていた。
 ひょろりとした頼りない見かけで太平楽な大店の跡取り息子、という漠然と抱いていたイメージとは裏切るように、夫となったハルウェルは、温和で楽天的にも見える裏に、博識と情報量に裏打ちされた鋭さを見せる。
 この話をもらった時は、何か良からぬ裏でもあるのではないかと疑ったものだ。だが、楼主もファーランも、ハルウェルの人となりに付いては安心して良いと請け負ってくれた。
 客としてよりも、薬種商として頻繁にアトールを訪れ、その度に手渡される贈り物は、リシェが畏まってしまうような大仰なものではなく、思わず微笑みが零れてしまうような、ささやかで可愛らしいものだったから、安気に受け取ることが出来た。
 そして、それは確実にリシェの心を解かしたのだった。
 他の花影には、そんな子供騙しなものを贈るなんて莫迦にされてるよ、などと意地悪に言われたが、決してそんな風には思えなかったのだ。もっと見栄えがして豪華なものを送る事など造作もないはずなのに、わざわざ、大店の跡取りが露天商や小さな店に足を向けて、選んでくれていることがリシェには何よりも嬉しかったから。
「待って! 今日は陽射しが強いから駄目だよ!」
 不意に聞こえてきた子供の声に、リシェは窓の方へ目を向けた。
「ああ、料理長の子供たちです。お騒がせして申し訳ございません」
 そう言って、すっと窓から見える風景を遮るように身体をずらしたミディールの顔に、少しばかり苛立ちが透けて見えた。
「いえ、どうぞお気遣いなく」
 にこりと返す笑みに、リシェは怪訝な気持ちを隠す。
 ミディールが気にしているのがハルウェルではなく、自分というのが解せない。
「ここの庭には、見事なシェリフロルの樹があるんだよ」
 自分たちの話に退屈していると思ったのか、ハルウェルはそうリシェに囁くと、
「ナーダ殿、妻に庭を見せていただいてもいいだろうか?」
 と気安く尋ねた。
「ああ、もう花は散りかけているが、なんだったかな、黄色い花やらいろいろまだ咲いているぞ」
 事も無げに承諾したナーダを、睨むようにちらと目線を送るミディールに、リシェは益々怪訝な気持ちを募らせた。
 夫のせっかくの気遣いではあるけれど、そのまま二人の話を聞いていたい気持ちもある事だし、でもミディールが何を気にしているのかを知りたい。
 どう返事をしようかと想いあぐねている矢先に。
「ねえ、駄目だったら! ユゥイ!」
 外から聞こえてきた、先ほどとは違う子供の舌ったらずの言葉に、思わず立ち上がっていた。
 ちっ、と微かな舌打ちを落としたミディールの目元には、明らかな険が滲む。
「ちょうど良い、フランとカイルに庭を案内させようか」
「リシェ、是非そうさせてもらいなさい」
 ナーダの言葉に乗って、ハルウェルも目を細めて優しく促した。リシェの様子の変化に気付いてはいるだろうが、どこまで知っての事かは分からない。
「はい。ナーダ様、お言葉に甘えて、お庭に出て参ります」
 優雅に腰を折り、壁際に控えていた使用人のひとりに案内されて、リシェは部屋を後にする。
 出来ることなら走って庭へ出たかった。
 じりじりとした気持ちを抑えながら、気を聞かせた使用人からつば広の帽子を借りると、後は大丈夫だからと、ひとりで足を踏み入れた庭は野趣に溢れていた。貴族が好む観賞用の花々ではなく、繊細でありながら力強さに満ちた花々は、どこか薬草園のものと似ていた。
 一歩踏み出す毎に、足が速まってしまうのが止められない。
 いつの間にか、スカートの裾を乱すほどに小走りになっていた。
「ほらあ、ちゃんと日除けの布は被らないと、また倒れちゃうよ」
 そんな声が耳に届く。
 小さな黄色の花が群れて咲く樹の茂みを抜けると、見事なシェリフロルの古木があり、その樹下で、線が細く少年とも少女とも付かない人影の頭に、背の高い方の子供が伸び上がって布を被せていた。顔こそ見えなかったが、風に揺れて零れたのは紛れもない黒髪。
 思わずリシェはその名を呼んでいた。
 ひと呼吸おいて、その人影はゆっくりと振り返る。と同時にひと際強い風が吹き抜け、薄紅の花びらを舞い上がらせ、せっかくの日除けの布をはらりと落とした。
 こんなことになっているなんて。
 露になったその顔は、半分ほどが生成りの包帯に覆われており、駆け寄ろうとしたリシェの足を竦ませた。

2008.10.24


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