星月夜の森へ

─ 40 ─

 グリヴィオラの王都ラリッサに程近いグラーニャは、その日、朝から落ち着かない空気に、誰もが浮き足立っていた。
 王が隣国カーラスティンより招いた最高位の巫女が、
 こちらに宿泊されることになった。
 粗相の無きよう、十分なもてなしをするように。
 数日前、やけに仰々しい格好の使者によって読み上げられた文書の内容は、実に簡潔なものだったが、これはかつてない名誉だと、ぽっくりいってしまわないかと周囲が心配するほどの張り切りようで、老齢の町長は奔走していた。
 とはいえ、いくら王都に近くとも小さな町の事、宿屋は一軒しかなく、出来る事は限られていた。というのは、王都から歩いて半日余りという中途半端な距離のせいもあって、宿場町として発展したのは、隣町のオバレオの方だからだ。
 実際、どうしてそんな大切な客人が、オバレオではなくグラーニャに泊まる事になったのか、疑問に思う向きはあったのだが、詮索するような時間も暇もなかった。もっともその余裕があったら、単にその巫女が蔑ろにされただけのことだと知って落胆する羽目になっただろう。
 結局、その日の夕方を前に、町長は遂に昏倒する事態となった。
 先触れもなく現れた、数騎の近衛と、噂に名高い愛妾を連れた王の姿は、老人には相当な衝撃を興奮をもたらしたためだ。
 迅速に医者の手配がなされた後、町長に代わってその息子が、後の一切を取り仕切った。
 満足させることが出来るかどうかはともかく、集められるだけの食材は集めてあったし、身の回りのものや寝具なども出来うるだけ上質な物を用意されていた。所詮小さな町だ。程度が知れている事は承知の上だろうと息子の方は開き直っていたこともあって、むしろ町長が采配するよりも手際が良かった。
 軽い食事を採った後、早々に王たちは町の外へと出掛けて行き、そして、そのまま戻っては来なかった。当然、巫女一行の来訪もないままだ。
 相応の報酬は支払われた事でもあるし、それを知らずに二日間昏倒していた町長は、多分、幸せ者である。

 閑話休題。

 突然の王の出迎えによって、半ば強引に夜の街道を進むことになった陽菜子は、ほの暗い馬車の中、不安な面持ちで身を震わせるソナの手を握っていた。
 窓の外を見れば、以前は寄り添うように並んでいた月は、いつのまにかその身ふたつ分ほどの間を隔ててている。
「ソナ、まるで海みたいよ」
 目の届く限り広がる草原が、月光を弾いて風に揺れるさまに、陽菜子は囁いた。
「あ……」
 渡りゆく風に、銀の光を宿した葉が連なって,波のようにさざめく。
 さわさわと成る葉の音さえも、静かな波の音に似ていた。
 海を見た事がないソナには、見た事のない不思議な光景に息を飲むばかりではあったのだが。
「仲がいいのね」
 やわらかな声が、静かな空気に石を投げた。
 決して揶揄しているわけでもないし、嫌みがあるわけでもない。穏やかで、親しみを込めた微笑を湛えた彼女は、それでも尚、二人に緊張を強いていた。
 頼りない灯りのもと、闇色の巻き毛が彼女の胸元で揺れている。
 つい先刻まで、グリヴィオラ王イェグランの馬に同乗していた彼女は、何を思ったか、ひらりと降りると、誰が止める間もなくこの馬車に乗り込んで来た。
「アズフィリアと申します。どうぞよしなに」
 端的に言えば、人質同然の陽菜子に向けるには不適当なほどに、親しげでざっくばらんな様子ではあったけれども、突然の事に二人は何も返せぬまま今に至る。
「うらやましいわ。後宮は侍女がたくさんいて、とても良くしてくれるけれど、誰もお友達にはなってくれないのよ」
 アズフィリアの容姿は、歳の頃からいえば、ちょうど陽菜子の姉くらいに見えた。でも仕草にどことなく幼さが見え、親近感が湧かなくもない。だからといって、そう気軽に会話を成立させられるはずもなく、陽菜子はただ、アズフィリアの無邪気な笑顔を見るばかりだった。
 夕暮れ時の薄闇に、ほの暗く浮かび上がって見えた王の姿。
 あれが誰かなど教えられなくても、『王』なのだとひと目で分かった。顔までははっきりと見えない距離にも関わらず、強い気のようなものに威圧され、その存在感たるや、カーラスティンの老王などと比べ物にならない。その腕に護られるようにイェグランの馬に同乗していた彼女の姿もまた、それに霞むことのない華やかさを見せ、宰相たちから話を聞いていなければ、王妃だと信じただろう。
 まるで、そこだけが一枚の絵画のように際立っていて、目を奪われずにはいられないほどだった。
 けれど、こうして間近で見てみれば、美しさよりも可愛らしさの方が先立ち、天真爛漫な雰囲気も相俟って、気後れさせる要因など皆無に近いのだった。
「あなたに早く会ってみたくて、イェグランには無理を言って連れて来てもらいましたの」
 屈託のない笑みに誘われて、陽菜子もぎこちないながら、どうにか笑みを返すことができた。
 けれど。
「不運な事だったわね、こんな世界に堕とされた上に、庇護の手すら失うことになって」
 そんな事を言われて、陽菜子の表情は固まった。
 いっそ、最高位の巫女などとは名ばかりの存在だとせせら嗤われた方が、ましだったかもしれない。
 ──こんな世界に堕とされた上に……
 何故知ってるの?
 ソナの手を握る、陽菜子自身の手が震えていた。
 当然の事だが、陽菜子をこの世界に呼び寄せた聖宮の星見たちは、もちろん陽菜子が別の世界の住人であった事を疑うことはない。けれど、言葉や上っ面ではそれを受け入れているようで、例えばカーラスティンの王などは、陽菜子の語ることをよく出来たお伽話だと思って楽しんでいた節があることを、陽菜子とて気付いていた。ソナですら、どこか信じきれてはいないだろうと思う。
 実のところ、陽菜子自身だって、いつ目覚まし時計の音が鳴って、当たり前の朝を迎えるのかと思っている部分がなくはないのだ。また姉に「陽菜子はほんとうにぐずねえ」などとまた言われるのかと、夢の中でまでうんざりしている自分に呆れて嗤った事すらある。
 それなのに、アズフィリアは信じているとか疑っているとか、そういう意識すら無く、その事実を認識していることに、陽菜子は驚きよりも恐ろしさに似た感情に満たされたのだった。
 それを察してか、アズフィリアは震える陽菜子の手に、自分の手をそっと重ねた。
「ねえ、今、酷い目に遭っていると思って当然だと思うけれど、そうでもないのよ。だって、あの国に居たら、あなた、一生帰れないのだもの」
 びくり、と陽菜子の肩が揺れた。
「間違っていると思わない? あなたを慣れ親しんだ世界から、家族から、友達から引き離して、そして……この世界が安定するなんて法則は」
 それは、何度もティレンから語られた事だ。
 酷いことをしているのは分かっているけれども、どうか、この国の、この世界の為に、と。
 それはもう、呪文のように繰り返され、陽菜子は不思議とも思わずそれを受け入れてしまっていた。
 ──なのに、今更それを否定されるなんて。
 すっかり冷たくなった陽菜子の手をとって、アズフィリアはそっと囁きかける。
「ねえ。帰りたくない?」
「……え?」
「あなたのお家へ。家族のもとへ」
 そんなこと。
 どうして。
 今更。
 だって。
 あたしは。
 ぐるぐると混乱した思いだけが、陽菜子の胸の内に渦巻く。
 やがて、陽菜子たちを乗せた馬車とその一行は、グリヴィオラの王都ラリッサへと入り、ほどなくその城下の門を潜った。
 とうに夜半を過ぎ、灯りの落ちた街は静まり返っていた。
 隣国から、最高位の巫女を迎えるには、あまりに相応しからぬ寒々しさだった。
 ぎぎぎ……と、ひと際高い音を立てて、城門が上がる。
 木と曲線を多用した、暖かみのあるカーラスティンの王城とは対照的に、内側からの灯りに浮かび上がるのは、玲瓏とした白亜の城。
 それは幻のように荘厳で、ここが大国グリヴィオラなのだという事実を突き付け、ようやく陽菜子をアズフィリアの言葉から解放した。
 盛大に松明が燃やされ、近衛や近従たちが一同に並び立って、王の帰還を出迎える様子は壮観だ。
 その中で馬車の揺れが止まり、扉が開けられた。
「ようこそいらっしゃいました、【金の小鳥】殿」
 と恭しく礼をとって出迎えたのは、夜中だというのにきっちりと正装をした壮年の騎士だった。その身なりからも、かなり高位の者だと分かる。
 どうしてよいか分からず、狼狽える陽菜子に、
「もし帰りたいとお思いなら、いつでもおっしゃって」
 と,アズフィリアはそっと耳打ちすると、先に足取りも軽く馬車を降りた。そしてくるりと振り返ると、まるで周囲に聞かせるように言った。
「ヒナコ様、お友達になってくださると嬉しいわ。また明日にでもお会い致しましょう」
 まるで友達にでも向けるような、屈託のない笑みを向けた後、
「クウィルズ卿、ヒナコ様の事、どうぞよしなにね」
 と、気遣いを示すと、クウィルズは深々とアズフィリアに頭を垂れた。彼女の扱いは愛妾の域を超えているらしい事を感じ取って、陽菜子は改めて空恐ろしくなっていた。
「分かっております」
 その力強い答えと表情に満足したのか、アズフィリアはにこりとクウィルズにも微笑みかけると、そのままイェグランの許へと行ってしまった。
「長い道中、お疲れでございましょう。まずはゆるりとお休みいただけるよう、出来る限りの手配はさせていただきました。どうぞ、こちらへ」
 クウィルズは、陽菜子にそっと手を伸べた。
 他に術はない。
 陽菜子はその手をとり、馬車を降りると、その足でグリヴィオラの地を踏みしめたのだった。


2008.10.15


inserted by FC2 system