星月夜の森へ

─ 39 ─

 シェリフロルの花が終わる頃、王都は嵐に見舞われた。
 長閑な陽気に誘われて開け放っていた窓を、どの家もぴっちりと閉ざして、激しい風雨が過ぎ去るのを待っている。橋を流さんばかりの勢いで水量と激しさを増したツェミレ河に抱かれたアトールもまた、例外ではなかった。

「ねえ、ヴィリスが何処にいるか知らないかい?」
 楼主の妻であり銀月楼の奥を取り仕切る束頭でもあるアーウェルが、朝の湯浴みを終えたばかりのファーランを捕まえて、思案顔を向けた。
 髪に白いものが混じり始めてはいるものの、そんじょそこらの上臈よりも華やかな雰囲気と美貌を持っているのは相変わらずだ。これで、あの楼主の押し掛け女房だというのだから、蓼喰う虫も好きずきとはこういう事なのかと不思議な気もするが、どこかとぼけた雰囲気すらある、この銀月楼の楼主の外見に騙されてはいけない事は、ファーランも身に滲みていることだ。
「部屋にいないんですか?」
「居そうなところは一通り見て来てもらったんだけどねえ……」
 たまに、誰にも告げずにふらりと出掛けてしまうことのあるヴィリスだが、この天気ではそれもないだろう。
「ユゥイがいなくなって随分経つし、そろそろ花影の一人や二人、世話してもいいだろって話をしたいだけなんだけどね。どうせ今日は門も開かないだろうし」
 年に数えるほどもないことだが、あまりに荒天の日は門を開けない。
 修復を繰り返して来た橋が、いつ流されるかわからないという恐れを誰もが抱いているという理由もあるが、こんな日にまで訪れる客の数など知れているし、料理の材料などの仕入れが滞り、十分なもてなしの準備が出来なければ、アトールとしては開ける意味がないのである。
 まったく、どこにいっちまったんだろうねえと、満々だった小言を言う気も削がれて、アーウェルは奥に戻って行った。
 濡れ髪を拭いながら、ふと心当たりを思いついたが、ファーランは黙って自室に戻った。もし、あの場所にいるなら、おそらくは誰にも声を掛けられたくないということをよく知っていたので。

 果たして、彼女はそこに居た。
 銀月楼の最上階から、さらに普段はしまわれている階段を降ろして登る事が出来る屋根裏部屋から出られる露台に。
 以前は洗濯物を干すのに利用されていた場ではあるが、上がり下りが面倒なことと、そこから身を投げた上臈が居たと言う噂が真しやかに伝わって、今では出入りする者はほとんどいない。
 荒れ狂う風に身体を攫われない為に、その手はしっかりと手すりを掴んでいたけれども、天を臨む目にはその激しい風雨を構う様子はまるでなかった。全身は濡れそぼり、べったりと髪が顔に張り付いていたが、払う事もせずに、彼女はひたすらに風の中に身を置いていた。
 もともと、彼女の身体に流れる血は「風聴き」と呼ばれた一族の者だ。
 風が運ぶ世界の響きをその身に感じる事は、やはりこの上なく心地良く、心が満たされる。ただ、その能力故に追われたことで、一族は感覚を閉ざし、流浪の生活に終止符を打つ事を覚えたが、時は既に遅かった。今ではその血脈を受け継ぐ者は両の手の数ほどもいないだろう。もしかすると、ヴィリスが最後のひとりかも知れない。
 そのヴィリスもまた、普段は感覚を閉ざしている。上客でもある宰相補佐スクルドに請われた時や、ほんの気紛れに風を聴くことはあっても、それは細く窓を開けた程度のことだ。
 だが、今は感覚を全て解き放っていた。
 指先から髪の一本一本に至るまで、身体の全てで風を受け止めて、響き渡る旋律の中に身を委ねていたのだった。

 やがて、放心したような、虚ろな面持ちで階下に降りて来たヴィリスを、ファーランは厚手の大きな布を持って迎え、遠慮なく頭からごしごしと拭うと、身請けされてアトールを後にしたリシェに代わって、新たに世話をすることにした花影の少女に用意させておいた風呂に放り込んだ。
 廊下に水を引き摺ったあとを見て、下働きの少女に余計な仕事を増やして……とやや眉を顰めながらも、てきばきと指示をして、ヴィリスが風呂から上がって来るのを待った。
「世話、かけたね」
 そう言ってファーランの部屋を訪れたヴィリスには、先刻までの虚ろさはもう無かった。
「長い付き合いだもの」
 二人は互いに少女時代を知っている。さほどそんな様子は見せないが、親しい相手ではあるのだ。
 座卓の上に用意されていた杯をついっと向けられて、ヴィリスはそれを受け取りファーランの向かいに腰を降ろした。
 まだ窓の外は荒れている。
 堅牢な造りの銀月楼の中ですら、不安な気持ちになるほど甲高く風は哭き、雨が屋根や壁をを容赦無く叩く音が、静かな部屋の空虚を埋めていた。
 昼間だというのに、薄暗い部屋の中で灯された蝋燭が、隙間から入り込む風に揺れて、二人の影が勝手に動いている。
 膝を崩した気楽な姿勢で、互いに、デカンタに満たされたハクロワ酒をカムレン果汁で割ったもので杯を重ねていった。
 何ひとつ身を飾るものがなくても、素顔に質素な衣一枚という姿でさえ、二人が並ぶ姿は艶やかだが、傾城としての仮面を外しているときの二人は、多少薹が立ってはいるとはいえ,普通の町娘にしか見えない。匂い立つ色香の代わりに、清潔な青い草の香りがするのは、ファーランが気を利かせてヴィリスのお気に入りの香草を風呂に入れておいたからだけではなく、それもまた彼女たちが商売上、身に付けたものでしかないということなのだろう。
「そろそろ、年季、明けるんだろう?」
「ええ」
「行くのかい、あのぼんくらのところへ」
「相変わらず口が悪いわねえ」
 仮にも恋人をぼんくら呼ばわりされても、ファーランはほんの少し苦笑しただけだった。慣れているのだ。それに、ヴィリスは口では酷い言い種でこき下ろしながらも、案外にナーダの事を気に入っているらしい事をファーランは知っていた。
「……莫迦な遠慮とか、してんじゃないよ」
「遠慮とかじゃあ、ないのよ?」
 ファーランは自分が何を考えているのかお見通しなのかと、微笑を浮かべたまま軽く首を振った。
 杯に満たしたものを彼女らしくなく、一気に煽ると、
「ねえ、あなたは何を聴いていたの?」
 と、真っ直ぐにヴィリスを見つめた。
 やわらなか笑みを湛えている彼女が、実は自分よりも強情で融通が利かない事を、ヴィリスもよく知っている。口の端に自嘲を浮かべて、軽く方を竦めると、デカンタの横にあった瓶から、リゴル酒を杯に注いだ。
 己が【風聴き】であることを話したのは、ファーランを含めて片手の指の数にも満たない。それはとりもなおさず、信頼出来る人間の数でもあり、その中に入る予定の新米上臈は、獣に攫われたきりだ。
 楼主夫婦は烈火の如く怒り、ありとあらゆる手を使って探索させているが、成果は捗々しくない。ヴィリス自身は、いっそ見付からぬ方が良いと思っている。ユゥイを買う為に賄ったものは少なくないが、あの男が置いて行った宝石の原石は、結構な値で売られて、その半分ほどは楼主の計らいでヴィリスの懐に入った。それに、もともとはただの自己満足だ。同じ額で手に入れた宝飾品や衣装を失くしたのとは意味が違う。
「……世界が震える音を、ね」
 ことりと杯を座卓の上に置いて、ヴィリスはそれを指先で弄ぶ。
「あたしは身体で感じる旋律から何かを読み取る術に長けてなくてね。むしろ、この力を封じる事ばかり教えられて来たからさ。それで良いと思っていたし、今も別にそれが悪いことだとは思ってないんだ」
 ファーランが、そっとヴィリスの杯を下げて、かわりに湯呑みを差し出した。中身はカムレンの果汁に蜂蜜を加えお湯で割ったものだ。それを苦笑とともに受け取って、ヴィリスは言葉を継ぐ。
「あの子の事は、何か感じるところはあったけれど、ただの興味本位と言うか自己満足と言うかね。あの不思議な感じのするものを、側に置いておきたかっただけなんだよ。何かから助けてやろうとかさ、そんな気なんか毛頭なくて。
 でも、今、響いて来るものの中にあの子に通づるものがあるんだよ」
 これから何が起ころうとしているのか、分からないことがこんなに怖いと思ったことはない、と、ヴィリスは湯呑みに口を付けた。
「あの子が何処にいるのか、分からないの?」
「残念だけどね。でも、幸せにやってるんじゃないかと思うよ。あの獣はあの子を取り戻しに来ただけのようだから」
 空になった湯呑みに、デカンタの中身を注いで、くすりとヴィリスは笑ったが、対照的にファーランは表情を曇らせた。それに目敏く気付いて、怪訝な視線を向けると、最初から隠すつもりもなかったファーランは、ゆっくりと言葉を選びながら、自分が知り得た事から推察したことを、ヴィリスに語ったのだった。
「つまり、あのぼんくらが、もしかするとあの子の行方を知っているか手がかりを持っているかも知れない、と?」
「ええ。なんだか変に気に掛けているように見えて。この魔除けのこともあるから、気にしているだけなのかも知れないけれど」
 贈り物を見せびらかすような趣味のないこともあって、ファーランがそんなものを持っていた事をヴィリスが知ったのは、ユゥイが居なくなる少し前くらいの事だ。もしもっと前に知っていたとして、それとユゥイを結びつけて考えることが出来たかと言えば、それは怪しい。
「ヴィリス、あなたはいつまでここにいるつもりなの?」
 不意に、ファーランは真顔で問いかけた。
 決して咎めているのではない。
 ここ数年、アトール随一の傾城の座にいるヴィリスではあるが、そろそろ引き時でもある。充分な蓄財もあり、とうに自由を選べる身なのだ。
 もちろんここを出て行くだけでなく、その財で、どこかの楼閣の株を買い、楼主となる者もいるし、奥を取り仕切る束頭の道を選ぶ者もいる。でも、ファーランには、ヴィリスがこのツェミレ河の流れによって外界から途絶された狭い世界にいることが、酷く不自然に思えてならない。
「……本当は、風の運ぶ旋律から言葉を紡ぐことを怖がっているだけなのね」
 ふうわりとファーランは微笑む。
 つんと顎を上げて、ヴィリスは横を向いた。
 拗ねたように湯呑みに口を付けながら、どこか安堵した表情を滲ませて、彼女は呟く。
「来るべき時は来るもんだね……」

2008.10.12


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