星月夜の森へ

─ 38 ─

 久しぶりに宿舎に戻り、ナーダからの伝言を受け取ったフレイは、自室でその文面を読むなり、眉間に深い皺を刻んでいた。
傷付きし黒い鳥を一羽保護するも、処遇にあぐむ。
助力を請う。
 誰かに読まれた場合を考えての事だろうが、それにしても、明らかに何かの隠喩だと分かるあたり、秘密の伝言としては失格だ。
 とはいえ、フレイに険しい表情をさせているのはそれが理由では、もちろん、ない。
 聞けば、この伝言は一昨日託されたものだという。もし、ティレンのところになど最初に足を運ばなければ、そしてあんな頼み事をされなければ、直に受け取れていたはずのものらしい。
 フレイは騎士だ。
 そういう家柄に生まれつき、そのように育てられた。
 周囲には自分勝手で奔放に振る舞っているように思われていても、本質的には誇り高き武人である。名誉を賭けての決闘に臨んだこともあるし、戦にまでは発展せずとも、国境での小競り合いで戦闘も経験している。旅団を狙う盗賊を討伐した時には、容赦なく彼らをその手で斬り捨てた。
 今更、人の命を奪う事におののきはしない。けれど、ティレンの言葉は、自分の日常の半分、殺伐と命をやりとりをするのではなく、穏やかに笑い、楽しみ、心安らぐ場所であると信じていたところが穢されたような、奪われたような、それは強烈な喪失感をもたらしていた。
 もしそれが、一時的な混乱による気の迷いであったなら、どんなによかっただろう。
 が、みっともなく彼の上着を掴んで縋った彼女は、決して取り乱していたわけでもなく、何か決意でもしたかのように細く長い息を吐き終えると、ゆっくりと立ち上がった。侍女のイーラを呼び、軽い夜食の用意をさせ、それを口にしながら、改めて【闇月】の捜索及び殺害を依頼したのだった。

 まだ夜も明けきらぬ早朝に、フレイはティレンの館を辞した。
 いったいいつ休んでいるのか、既に老境の域に入って久しい侍女のイーラは律儀にも彼を見送った。彼女は何も言葉にはしなかったが、孫のように思っているはずのティレンの事は心配でならないに違いない。
 人気のない街を抜け、問屋街に入ると、フレイはその一角にある倉庫の扉を、特徴のあるリズムで軽く叩いた。程なく、それとは異なるリズムで扉が叩き返され、「原石の仕入れだ」とフレイが返すと、扉の脇にある小さな窓が半分ほど開き、続けて細く扉が開いた。
 中へと素早く身を滑り込ませたフレイを迎えたのは、見比べればどこも似ていないのに、特徴を述べるのが酷く難しいという共通点を持った男たち三人だ。
 背格好は中肉中背、その手に鍬があっても算盤があっても、または剣を握っていても不自然ではなさそうだ。農夫のようにも商人のようにも見え、また、ほんの少しの目の動きに武人の鋭さを滲ませる。くすんだ金髪に明るい茶色、鈍い銅色と髪の色もそれぞれだが、不思議と目の色だけは似たような青灰色をしていた。
「聞こうか」
 空いた椅子にどっかりと腰を降ろすと、挨拶もなくフレイは切り出した。
「ルウェルトの皇位継承に干渉したことに関しての抗議に、グリヴィオラはその使者の首を送り返したようです」
「同時に、兵をルウェルトの国境近くにあるタラダインに集結させる命を出しています」
「ルウェルトも国境にほど近いレクサーに。さらに志願兵を募っていますが、状況は厳しいですね。もっとも、あの国は皇王が偶像みたいなものですから、数はそれなりに集まりつつあります」
 タラダインとレクサーは、国境となるグローディ河挟んで目と鼻の先にあるといっていい。どちらも交易の中継都市として発展している。
「グリヴィオラのイェグラン王の愛妾アズフィリアは、大臣や貴族の間でも評判がいいようです。どの有力者の後ろ盾もない為か、正妃にという声もあるそうで」
「気になるのは、イェグラン王が、月を探しているという妙な噂を耳にしました」
 三人が示し合わせたように次々と述べるのを、無表情に聞いていたフレイの眉が寄せられた。
「月? あの空に昇る、あれか?」
「言葉としてはそうです。何を意味しているのかまでは分かりません。噂と言っても流布しているわけではなく、セルディエの酒場で偶然耳にしただけなので」
 グリヴィオラの王都ラリッサと、カーラスティンの王都クレインを繋ぐ街道沿いにある宿場町なら、真偽のほどはともかく様々な噂話は山のように入り込む事だろう。とはいえ、おかしな噂ではある。
「私も同じような話をメレルダーナで聞きました」
「メレルダーナで?」
 カーラスティンで創造神ウェルディーンの聖地のひとつとされる場所がある町の名に、フレイは鋭く反応した。
「イェグラン王が探しているという話ではありませんでしたが、ここ一年ほどの間で、珍しいものを見なかったかと尋ねる者がいたとか。夏の終わりにも似たような事を聖宮の衛目に尋ねられていて、印象に残ったようです」
 それならば、ティレンの手の者ではない。
 フレイの眉間の皺はいよいよ深まった。
 陽菜子がこの世界に降りてほどなく、ティレンはカーラスティンの聖地全てに衛目を派遣し、冬の前には調査を終えているのだ。
 仮に、イェグラン王が月を探しているという噂と、メレルダーナで探しものをしているという話が繋がっているとしたら、彼も【闇月】を探しており、おそらくは手に入れようとしていることになる。
 でも、何故?
 そもそも、【闇月】の存在など、聖宮の者でも【地の星見】しか知らないはずなのだ。少なくともフレイはティレンから聞かされるまで知らなかったし、その名称を耳にした事もなかった。
 グリヴィオラから、かなりの数の斥候が放たれているという情報は、フレイも掴んでいた。国力を頼みに力任せに攻めるのではなく、ルウェルトの皇室内を混乱させたり、カーラスティンの弱みを握っているなど、なかなかどうして、細やかな情報収集をも怠ってないらしい。だから、感心こそすれ、おかしなことだという意識はなかったのだが、それが【闇月】探索の為なのかも知れないと思うと、背中に冷たいものが滑り落ちた。

 彼らから得た情報を頭の中で整理する為に、二階にある専用の小部屋に設えられたベッドでごろりと横になったフレイは、何もないはずの天井を睨みつけていた。。
 ──決して失わぬ為にも、【闇月】と【金の小鳥】を接触させるわけにはいかないのです。
 ティレンの言葉が甦る。
 あの小柄な少女にどれほどの力があるのか、フレイには実感する事はできない。ただ、先の【金の小鳥】が失われてから続く不安定さが、確かに陽菜子が現れて後は解消されているのは、偶然だろうとなんだろうと認めざるを得なかった。
 ただ存在するだけで、世界を安定に導くものが、【金の小鳥】なのだとティレンは語る。
 ──いつの間にか、王は【金の小鳥】の意味をたがえてしまわれた。  いつか聖宮をも疎んじて廃そうとするかもしれないと、自嘲的に顔を歪ませたティレンが、まるで疲れ果てた老婆のような顔をしていたのを思い出すと、さすがに辛い。無下に彼女の頼みを拒絶出来ないのはそれもある。
 もし、また失われたら、長期に渡る気候の変動、天災、流行病などが重なり、今度こそ、この世界は滅びに近付くだろうとまで言われて、さすがに眉唾ものの話だと流してしまいたかったが、つい最近まで、その危機を密やかに感じるほどの荒れを、世界は見せていたのだった。
 どれほど人の命を手に掛けようと、その一つ一つ軽んじているつもりはない。
 だからこそ、この国の命運に関わるならば、ティレンの頼みをのむ事もやぶさかではないのだ。
 けれど。
 宰相の意図は?
 だいたい王は何を考えている?
 己の忠誠を捧げるべき相手に抱いてしまった疑問は、もともとはあった小さな傷を容赦なく広げ、信頼という形なきものに大きな亀裂を生じさせてゆく。
 それは、ある意味、初めてフレイに生き方の選択を強いることでもあった。
 その翌日、宿舎に戻ったフレイに渡されたのは、更に追い打ちを掛けるが如くの伝言がナーダから届いており、そして、彼の帰還を待ち構えていたのだろう、直ぐに宰相の許へ参上せよとの命が伝えられたのだった。

2008.10.11


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