星月夜の森へ

─ 37 ─

 朝から、しとしとと音もなく雨が降り続いていた。
 ようやく温かくなって来たというのに、まるで季節が逆戻りしたように空気は冷え、まだ午前中だというのに黄昏時と紛うほどに外は暗い。
 カーラスティンの王都クレインで小さな細工物の店を営むジェイドは、その陰鬱な陽気をさらに倍増させるような、何とも重苦しい溜め息を何度も聞いていた。
 余談ではあるが、小さなというのは店の間口の事であって、彼の商売の規模をさしてはいない。店には王都で暮らす娘たちが、身を飾る為に散財する程度のものを並べているが、商いの相手は中流貴族相手が中心だ。名の売れた細工師の品に比べれば格段に安い値であるにもかかわらず、使われている素材の良さと意匠の妙、仕上げの美しさはひけをとることがないので、重宝されているのだ。
 いずれにせよ、繊細で丁寧な仕事は評判を呼び、どちらの固定客も増えつつあった。
 見た目は剣士か騎士かという立派な体躯と風貌をしているのに、人好きのする笑みが絶えることはなく、ごつい指先から生み出されるのは、驚くほど精緻で優美な細工物だ。年の半分ほどは、材料を集めたり、新しい意匠の着想を得る為にと旅に出ては、地方や異国が持つ独特の感覚や素材を取り入れてくるので、それを楽しみに待つ客は多い。
 仕事の様子は、裏小路に面した小さな窓から覗く事ができ、細工に掛かっているときの真剣な表情を、こっそりと窺いに来る娘も少なからずいる。見目は申し分なく、商いは順調で、性格も善良となれば、嫁をもらってもおかしくない歳の青年がひとりでいるというのは、どうも周囲が姦しく、いらぬ注目を向けられがちだ。
 だから、この春、見慣れぬ男がここに転がり込んでいる事は、存外に広まっていた。故郷の友人が自分を頼ってやってきたのだとジェイドは説明していたものの、その男があまりに無愛想な上、仕事に出るでもなく店を手伝うでもない様子に、周囲の評判は芳しくない。

 彼にとっては意外なことに、自分の幼馴染みが新米の上臈をひとり連れ去った一件は、城下ではほとんど人の口に上る事はなかった。
 アトールとは、いったい、どれほどの力を持った町なのだ?
 あれほどの騒ぎが、噂にもならないということに空恐ろしさを感じずにはいられない。だから、『ほとぼりが冷めた頃、相談があるから尋ねたい。連絡を乞う』という暢気な伝言を、言伝鳥から届けられた時には、頭を抱えた。
 ほとぼりなんて、年単位でなければ冷めるわけがない。
 まさか、あの子まで連れてのこのこと、ここまで来るのではあるまいな?
 ここへ辿り着いた途端、冬の眠りに入ってしまった伝言鳥の目覚めを待って、『春の終わりにこちらから出向く』と伝言を託したのだが、その数日後、随分と虚ろで暗い目をした彼がドアの外に立っていたのだった。可哀想に、伝言鳥は届ける相手を捜して、しばらく森を彷徨っていたことだろう。
 あの夜、囮になって人目を惹き付ける役割を終えた後、物陰で人の姿に身を変え、服を着込んだジェイドはざわめくアトールの人々の中に紛れ込んだ。その後も気を抜く事なく、研ぎ澄ました感覚で、周囲の気配を探り続けながら自宅へと戻った。
 少なくとも自分に足がつくことはないと思う。
 知り合いとすれ違った覚えはないが、客の中には、アトールの上臈も何人かいるので、彼がそこにいてもおかしく思う人間もいないはずだ。
 だが、こいつは?
 一族の習性として、無意識に自身の気配は消しているためか、彼らは人の姿をしている時、整った容姿をしているにもかかわらずあまり目立たない。だが、銀月楼の楼主たちには顔を覚えられてしまっていると思って間違いないだろう。
 それが、一番厄介だ。
 森の中でなら危険に敏い彼も、人の世に出た途端、いっそ天晴れなほど鈍い。一通りのことは学んでいるのだが、彼の両親は、獣の姿で暮らすのを好み、我が子に人としての名をつける事すらしなかった。そのせいか、彼は人に紛れて生活をしたことがほとんどない。
 もともと、一族の本来の姿が人だったのか獣だったのか、はっきりしていない。長ならば知っているのかもしれないが、この事に触れてはならないような雰囲気が出来てしまって久しい。一族の中には、人里で暮らすうちにそのまま家族を得てしまう者もいる。禁じられてはいないが歓迎される事は決してない。また、一族でない者は郷へ同道する事は絶対に許されないため、そのまま郷と縁が切れてしまう事が多かった。
 彼もまた、そういう者になるのだろうと、ジェイドは漠然と思っていたのだが、事態は想像以上に面倒くさく厄介なことになりつつあるようだった。

「……いい加減にしないか?」
 タガネを打つ手を止めると、ジェイドは珍しく怒気を込めて、部屋の隅でぼんやりとしている幼馴染みに言った。
 大概、溜め息が鬱陶しくなっていたのだ。
 リズム良く響いていた音が止まると、部屋の中は異様なまでに静かになる。
 やや顔を上げ、じとりとジェイドを見る彼の目は、言外に「邪魔なら出て行くが」と答えているのを見て、ジェイドの方が溜め息を吐きたい気分になった。
「邪魔にするつもりはないよ。ただ、ここは人目につき易い。しばらくトルンにある作業場に行っていたほうがいい」
 トルンとは、王都の外にある村の名だ。彼はその村にある作業場に週に一度はここに通って、地金をなまし、基本的な形を作り上げていた。町中の店にある工房は狭くて、いろいろと使い勝手が悪いのと、強い火を起こしたり思い切り槌を振るったりすることが憚られるからだ。かといって、トルンで店を開いても実入りが期待出来ないし、仕入れ人を通して商う事を彼は避けていた。身の安全を考えるならば、駆け引きの上手い連中との付き合いは、避けるに越したことはない。
「おそらく、あの子はここには戻ってこないよ」
 いったい何があったのか、彼は一言も話さない
 だが、何があったにせよ、楼閣から逃げた上臈が自ら戻って来るなど、まずありえないだろう。
 腕に、治りかけの傷痕があったのが気にはなったが、わざわざ問うてやる気にはならない。自分でも意地が悪いとは思うが、ここまで来たのなら、みっともなく愚痴をこぼすでもなんでもいいから、自ら話せ、と彼は思う。それを拒む友でないことを、彼は知っているはずなのだから。
「……銀月楼の、ファーランという上臈を知っているか」
「ファーラン? 銀月楼の?」
 わざわざ尋ねられるまでもないような名に、逆にジェイドは問い返してしまった。  艶やかな大輪の花の如きヴィリスの影に隠れてはいるものの、可憐で清楚な花に例えられる彼女の名を知らない男などほとんどいないだろう。
「ああ」
「知ってるけど、彼女がどうかしたのか?」
「あの女が持っている黒髪の魔除けに、あの男の匂いがついていた」
 唐突に言われても、ジェイドには要領を得ない話だった。
「さらはあの男のところにいる」
「分かっているなら迎えに行けば良いだろう」
 なるほど、のこのこと王都に現れたのは危機感の無さからではなくて、僅かでも手がかりがあったからなのかと、呆れたようにそう言ったジェイドを、彼はあからさまに眉を顰めて睨め付けた。
 出来るものなら、とうにそうしている。
 そう瞳は語る。
 が。
 ぷつりと頭の何処かで何かが切れた音を聞かなかったことにして、ジェイドは彼の方へ向き直った。
「ひとつ教えておいてやる。言葉にしないで相手に思っている事を分かってもらおうと思うな。特に、この姿をしている時は」
 殊更冷静に言われて、ばつが悪いのか、拗ねたような顔を背ける彼に、ジェイドは小さく溜め息を零した。  花嫁を攫ったは良いが、この口べたさで逃げられたのではあるまいな?
 まさか,彼がほぼ獣の姿であの子と一緒に過ごしていたとは思いもよらず、ジェイドは苦悩を覚える。
 この性格では、人の社会で生きて行くのは相当に難しい。
 なのに、何故、あの子を選ぼうとする?
 何も、長の娘を娶って婿に納まれば良いとまでは思わないが、出来れば一族の娘と 当たり前のように血を繋げて欲しいというのが、彼の本音だ。
 これを機会に、あの子との関わりなど、断ってしまうべきなのだ。
 友としては、いっそそのくらいの忠告をしようかと頭を巡らせていると、 「人は、脆すぎて怖いな」
「は?」
 唐突な言葉が投げられた。いったい何の事かとやや間抜けた表情のジェイドの方を見る事もなく、
「ほんのすこし、爪の先が掠っただけなんだ」
 と、彼は己の両手を見つめている。
 横から割り込んで来た剣を交わそうと、わずかに気を逸らしたばかりに、あんな傷を──
 かたかたと小刻みに、幼馴染みの身体が震えているのに気付いて、ジェイドはいったい何が起きたのか、酷く不安になった。
「……酷い出血だった。『この子は死ぬぞ』と言われた。あいつらに奪われたくなかったのに、託すしかなかった」
 説明不足も甚だしいが、どういった状況だったのかは、なんとなく想像は付いた。けれど、次に彼の口からこぼれ落ちたのは、思いもよらない言葉だった。
「多分、お前は誤解している。俺は、さらを奪い返しに行こうなんて思っていない」
 驚きのあまり半ば固まっているジェイドを見て、彼は口許を歪めると、何もかもを拒むように首をゆるゆると横に振る。
「あんな怖い思いは、もう御免だ」
 膝の上に肘を付いた両手を固く握り合わせて、彼は深々と項垂れた。
 どういう事なのか、ジェイドにはさっぱり分からない。
 僅かな手がかりを追って、ここへ来たのではないのか?
 さっきまで、あの子の事になど、もう関わらねば良いと思っていたのに、この姿を見ていると、それが最善ではないことを嫌でも悟らされる。
「……フェン」
 初めてジェイドは、彼を人の名で呼び掛けてみた。無論、一族としての名でならば、何度でも呼んだことがある。ただ、それは人の言葉では発音出来るものではない。にも関わらず、彼は人としての名を持っていなかった、必要がなかったのだ──あの子が、そう呼ぶまでは。
「何だ、ジェイド?」
 当然のように、彼は答える。
 ジェイドは、幼馴染みがフェンとしての生き方を初めていることを、その時知った。

2008.10.06


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