星月夜の森へ

─ 36 ─

 長距離の馬車移動と言うのは、想像以上に身体に堪えるものだった。
 グリヴィオラ側からわざわざ用意されたものは、カーラスティン国最高の巫女を迎えるに相応しく、豪奢なだけでなく、出来うる限り快適に過ごせるような気遣いと工夫はなされていたが、車輪から伝わる振動を防ぎきれるものではなかった。
 決して悪路を通っているわけではない。むしろ整備された道を選んでいるのだが、所詮、陽菜子の知る道路というものとは比べようも無い。
「砂利道を自転車で通ったときより、お尻が痛い」
 ぼそりと零した陽菜子の言葉に、ソナは首を傾げる。
 さもあらん、陽菜子はこの世界のものではない言葉で呟いたからだ。余程専門的な話か、相当な早口だったり訛りが酷くない限り、ティレンからもらったペンダントが無くても言葉に不自由する事はなくなっていたが、この世界にないものを説明するのは、難しい。
 既にグリヴィオラ国内には入っており、あと二日ほどで王都に到着するという。
 しばらくは、特に風景が変わることもなく、国境を越えたという感覚はなかったのだが、森を抜けて草原地帯に入ると、風の匂いまでが変化し、陽菜子は思わず馬車の窓から身を乗り出した。
「ヒナコ様っ!」
 そこから飛び降りて逃げ出すとでも勘違いしたのか、大慌てでソナが取りすがった。
 それでなくても、グリヴィオラから派遣されて来た王付きの一個中隊という一団は、慇懃だが、それは王に命じられているからであって、態度や表情の端々に、陽菜子を軽んじているのが透けて見えていた。親しみの欠片もない上に、馬車の周りを囲む騎士たちの配列も、護衛というより護送と言う気がするほどだ。
 が、険しい表情をむける騎士たちに、陽菜子は微笑みを返し,ソナの方へ振り返る。
「大丈夫よ。ほら、風がすごく気持ちいい」
 その屈託のない笑みに促されるように、ずっと思い詰めるように俯き加減だったソナも、窓の外に目を向けた。
 そこは、まるでソナの知らない世界だった。
 彼方まで広がる草原の緑が、遥か遠くの地平で空の青と交わっている風景に思わず目を奪われる。陽菜子同様、思わず窓に身を乗り出しそうになるのをどうにか留めて、少しだけ顔を出してみた。
 頬を撫でる風の感触、草いきれの香りに、異国へ来たのだと実感が湧き上がる。頬をなぶる風も、なるほど、どこか重い感じのする森の中の空気と違って、からりとかわいて軽やかだ。それは冷たい水を浴びせられたような恐怖を、彼女に呼び覚まさせた。服の下、胸元あたりにあるペンダントの石を無意識に探る。
 ──これはね、霊験あらたかなお守りなんですよ。
 まるで罪人ででもあるかのように、宰相の従えて来た男たちに腕を取られ、そのまま連れ去られようとしていた陽菜子に、ソナは当たり前のように同道した。宰相側からは許可する言葉も無い代わりに拒絶も無かった。むしろそれは当然の事であったのか、宰相の館では陽菜子の隣室にソナの部屋は用意された。
 恐怖が無いわけではない。夜、ふと震えが止まらなくなって寝付けなかったりすることもある。けれど、ほとんど軟禁に近い生活を強いられている間、ティレンの訪問すら無かったのは、おそらく宰相が禁じたのだろうと察するのは容易い。そんな状況で、陽菜子をひとりぼっちにすることなどソナには考える事もできなかった。
 宰相の館で過ごしたのは、十日ほどであったろうか。
 その間、何度かラエルの訪問があった。宰相と言えど、王太子の訪問までも拒む事は出来なかったらしい。
 それを陽菜子が喜んだかどうかはともかくとして、閉塞した環境と状況での訪問者は、ソナとしては歓迎すべきものだった。陽菜子が実は非常にやせ我慢が得意なことに、とうに気付いていたので。

 宰相の館に押し籠められて翌々日の午後、それは軽いノックと共にやって来た。
 お忍びなのか、従者はネイアスひとりで、少し離れたところで、王城でもたまに見かける近衛兵が二人控えていた。
「変わりないようでなによりだ」
 たった二日で目に見えて分かる変化があったら大ごとではないかと、ソナはむっとした気持ちを隠すように目を伏せて、訪れた王太子を迎えた。だから、側に控えているネイアスが、酷く沈鬱な表情をしていたことなど、まるで気付いていなかったし、その後の不穏なやりとりのこともあって、彼に意識を向ける事も出来なかった。
 陽菜子もソナ以上に固い表情をしていた。先日のことを思えば、無理もない。
「ありがとうございます」
 陽菜子にしては珍しく、ほとんど表情をなくしたままでそう言うと、ゆったりとした所作で軽く膝を折り、軽く手を組んで頭を垂れた。宰相が手配した礼儀作法の講師に仕込まれた最上級の作法に、ラエルは何故か不快そうな顔をした。
「……何の真似だ」
「このようにせよと教えられたので。カーラスティン国の恥になるなと」
 これならば、あからさまに怯えられていた頃の方がマシだなとラエルに思わせるほど、陽菜子の物言いはよそよそしかった。
 この国の礼儀作法はまるで知らなくても、もともと陽菜子の立ち振る舞いに粗野なところなどなかったから、既に形は様になっていたけれども、ラエルにしてみれば、そんな事にこだわるような姿は望ましいものに思えなかったのだ。かといって、そんなものなどどうでも良いとは言えない。
 しかめ面のまま、相対しているうちにお茶が運ばれて来たが、手をつけられる事もないまま冷めてゆき、やがてラエルは席を立った。
「何か不自由はないか」
 部屋から出て行くという段になって、向けられた一言に、
「いいえ。良くしていただいていますから」
 あまりに陽菜子らしくない、素っ気ない言いようは失礼極まりなく、もう二度と王太子は訪れないだろうという二人の予測に反して、その翌々日にラエルは再び尋ねて来たのだった。
 変化と言えば、持っている姿は非常に似つかわしいにも関わらず、これまでの経緯を思うとなんとなくちぐはぐに感じないでもない花束が、その腕に抱えられていた。
「少しでも慰めになればよいのだが」
 白に内側から紅色の滲ませる花びらを幾重にも重ねたその花は、品種改良が繰り返されているせいか、温室で大切に守られてようやく蕾をつけることができる。ほとんどが王族の為に栽培されており、貴族ですら滅多な事で手に入れられない事など、陽菜子もソナも知らない。
 言葉と作法ばかりで謝意は示したものの、陽菜子は硬い表情のまま、受け取った花束をソナに渡した。
 この館の侍従長から花瓶を借り受けた際、「さすがは【金の小鳥】。この花を王太子から贈られるとは」という呟きに、どうやらこの花束には、それなりの意味が込められているらしい事を悟ったものの、王太子が帰った後、陽菜子は香りがきついからと言って、下げさせてしまった。
 またその三日後、ラエルは香ばしい焼き菓子を手土産に訪れた。
 それは、その日の茶菓子として供されたが、結局二人とも手を付けずじまいだった。
 帰り際に「何か欲しいものはないか」というラエルの問いに、陽菜子はただ首を振った。
 そして、いよいよ明日はグリヴィオラへ経つと言うその日。
 ラエルが持って来たのは、木製の小さな鞄だった。簡素な造りではあるが、熟練した職人の手からなるそれには【金の小鳥】を示す紋章が箔押しされていた。
「これを作らせていたんだが、間に合って良かった」
 留め具を外して開けてみると、綴られた厚手の紙の束と、薄い木の板を挟んで賽の目に区切られた琺瑯の皿が目に入った。それぞれの升は固められた色とりどりの顔料で埋められており、見ているだけでも楽しいくらいだ。小さなインク壷が三つ、細長い木炭や海綿、折り畳まれた革袋が、うまい具合に収められており、太さや形状の違う数本の筆とペンが、蓋の裏に収納されていた。
 おそらくはティレンにでも聞いたに違いないが、陽菜子が身近なものを時々描いていた事を知っていたのは自分だけであったと思っていたソナは、いったいいつの間に? と内心で首を傾げながら、最近、陽菜子の勉強用にと用意されるものの中に、紙が増えていたことに思い当たった。
 ソナが陽菜子の落書きにしては堪能なそれを目にしたのは偶然のことだ。気付かれたくないのか、まるで隠すように引き出しの奥にそれらはしまわれていて、ゼカレーシグ先生に提出する宿題の傍らに、描きかけのそれを一枚、出しっ放しのまま陽菜子がうたた寝をしていなければ、今でも気付いていたかどうかあやしい。
「グリヴィオラまでの道すがら、退屈しのぎにはなるだろう」
 素っ気ないラエルとは対照的に、初めて陽菜子の表情が揺らいでいた。
 ぶわりと目の端に浮かんだ涙は、どれほど固く唇を噛んでも堪えきれずに溢れ、それを、当たり前のような顔をしたラエルに拭われて、陽菜子は肩を強張らせる。
「恥じることはない」
 相変わらず、深い青を湛えた瞳は怖い。
 それでも、そっと髪を撫でる手は優しく気遣いに満ちている事に気付いてしまうと、幼子のように涙が止められなくなっていた。
 その様子を見ながら、何故かソナはほっとしていた。
 まるで、どうってことないとばかりに普段と変わらぬ顔しか見せていなかった陽菜子に、ようやく感情を吐露する場を、泣く機会を与えてくれたのだと、素直に王太子に感謝したい気持ちだった。
 そのソナの肩を叩いたのは、もちろんネイアスだ。目線だけで席を外そうと言われて、その後に続いた。廊下に控えていた近衛兵に、視線だけで何か伝える様子は、やはりこの人は貴族なのだと、変なところで感心してしまう。
 陽菜子をひとりにして大丈夫だろうかと何度も振り返るソナを、ネイアスは小さな子を促すかのように、軽く後頭部を叩いてすたすたと歩き出す。とはいえ、所詮、宰相の館から出ることは陽菜子だけでなくソナも許されていないとなれば、行くところなど限られていた。
 丹精されている証だろう、ぐるりと廻廊に囲まれた庭園には、やわらかな色をした春の花が咲きそろい、休息を取ったり客をもてなす場にもなるため、動物の姿を彫り込んだ木製の長椅子が、いくつか置かれている。白い小さな花が零れんばかりに咲き誇る茂みのそばを選んで、ネイアスはまるで淑女を導くような所作でソナに手を差し出した。
「……あの?」
 それは,貴族が平民に対して行なうものでは決してなく、ソナが戸惑うのも無理はない。それでも、なんとなくその手に自分の手を伸べてしまったのは、いつもの笑顔に気圧されてというよりは、拒絶を許さぬ何かに操られたようなものだった。
 二人して長椅子に腰を降ろしてみると、ちょうど回廊からは植え込みで隠されるようになっていたが、また揶揄って遊ばれるのかとびくびくしているソナには気付きようもない。
「さすが宰相自慢の庭園ですね」
「……はい」
 ──春の女神の祝福を独り占めした場所。 
 それが、この庭園に贈られた言葉でもある。
 この時期は、それを目的に訪れる客が絶えないほどなのだが、さすがに【金の小鳥】を預かっている為か、今年は誰の訪問をも断っていた。
「ヒナコ様はこれをご覧に?」
「……はい」
「それは良かった。あまり慰めにもなりませんが、宰相が自らヒナコ様の御身を預かりたいと王に申し出られたのは、多分、これが少しでも慰めになればと思われたからだと思いますよ」
「……そうですか」
「まあ、まるで罪人のように連れてこられて、そんなことを言われても信じられないとは思いますけれどもね」
 あれほど陽菜子を可愛がっているかのように見えた王は、グリヴィオラとの折衝に使う道具として看做して、すっかり態度を変えてしまっていた。その上、王城の地下に軟禁するよう口にしたことを、口にするつもりはネイアスにはない。
「あなたも、何もそこまで献身的にヒナコ様に尽くさなくてもよいでしょうに」
 その言葉に、ソナの眉がきっと釣り上がった。
「ああ、そんな顔をしないでください。ただ、あなたの身が心配なだけなのですから。危険と分かっていて、それでも自ら主に付いて行くなど従者の鑑、本来なら褒めるべきであることは分かっているんですよ」
 あっさりといなされてしまい、ソナは毒気を抜かれてしまった。
 だいたい。
 何、それ。
 あなたの身が心配、って。
 ぐるぐると,その言葉がソナの中で渦巻いて心の中を侵食してゆく。
「ですから、これはあなたのためというよりは、私の自己満足みたいなものなんですけどね」
 そういって、ネイアスは上着の隠しから取り出したものをソナの首に掛けた。
 銀鎖の先に揺れるのは、親指の先ほどの涙型をしており、丁寧に研磨されているのは見て取れるが、ただつやつやと黒いばかりの石だった。
 夜の闇を結晶にしたら、こんなふうになるかもしれないと思える、不思議な美しさはあるものの、歳若い少女を素直に喜ばせる、素直な綺麗さとか可愛らしさとは無縁なそれに、ソナはただただ絶句した。
 いっそこと、誰もが憧れるような星光石や緋焔石、碧水石だとかであれば、宝石の知識などなくても、見るからに美しく、ソナも咄嗟に、何らかの反応を返せたのかも知れない。
 そして、身体の内側から微かに響いて来た、微かな音を聴くことに意識が引き込まれるように向けられしまっていた。
「これはね、霊験あらたかなおまもりなんですよ」
 そういわれてソナは得心がいく。たしかに身を飾るものというよりは、魔除けに近いような雰囲気だ。
「今、何か音が聞こえていませんか?」
「あ、はい」
「その石が護ると決めた相手とは共鳴をするのだそうですよ」
 改めて、微かな音に耳を傾けると、それはいっそうはっきりと澄み切った音として身体の中で響き始め、いつしかその心地良さに、ソナはすっかり身を委ねていた。身体の感覚が解放されて、まるで空を漂っているかのような気持ちに、すぐ側にネイアスがいる事も、そこが宰相の館の庭園であることも、これからグリヴィオラという異国へ赴くことも、何もかも忘れてしまっていたのだった。
 我に返ったのは、ふと額のあたりに慣れない温かさを感じたからだった。
 いつになく近い場所で、ネイアスは満足げに微笑っている。
「……あなたに差し上げることにして良かった」
 そう言って、おもむろに立ち上がり、
「さて、そろそろ戻りましょう。お二人がまた、互いを誤解するようなやりとりを始める前に」
 と、ソナが付いてゆくのに充分な、ゆったりとした歩調で歩き始めた。
 案の定、というべきなのか、部屋へ戻ってみると、ラエルも陽菜子も、相手を探るような目をして、互いに黙り込んでいた。それ以上、ネイアスとソナが遅く戻っていたら、時間を持て余して余計なことを口にしたに違いない。

 なんとなく、ソナはそのペンダントを服の内側に入れてしまっていた。それは、漠然とした照れくささからではあったけれど、ある意味賢明な判断でもあった。銀の鎖程度が見えていたところで、それは侍女の装飾品としては当たり前のものであっても、その先に揺れている石は、さすがに分を越えており、下手な詮索を引き起こしかねなかったのである。
 馬車の中で、すっかり心地の良い音色の中にいる時、陽菜子がそっとラエルから贈られた鞄を開いている事にソナは気付いてはいなかった。そこにしまわれている紙の束に、木炭でスケッチが残されている事も。
 やがて夢から醒ますように、ソナの意識が石との共鳴から解放したのは、すっかり傾い太陽の放つ橙色の光だった。金色に輝く雲を纏って地の彼方に設えたしとねへと潜り込もうとする間際、その輝きは、西の地平ばかりでなく、先ほどまで春の瑞々しい碧に揺れていた草原を黄金に染め上げていた。
 それは、ほんの僅かの時間で。
 これもまた夢のようなひと時であったのだ。
 けれども、陽菜子の護衛隊隊長の無粋とも言える訪問は、一気に二人を現実に引き戻した。
「窓越しに失礼する。先ほど伝令があり、我がグリヴィオラ国王イェグラン陛下が、わざわざあなたを迎える為に、この先の町にまで来ておられる。その心づもりをしておかれるがよろしかろう」
 夕闇が押し迫るその向こう、数騎の影が認められたのは、それから程なくの事だった。

2008.10.02


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