星月夜の森へ

─ 33 ─

 浅く椅子に腰掛け、相対する二人は、いとこ同士ではあったけれども、とても良く似ていた。
 顔かたちだけ見れば、血縁関係にあるのだろうと推測される程度なのだが、醸し出す雰囲気やふとした瞬間の表情などは、まるで同一人物であるかのようだ。
 けれど、とある瞬間には、まるで相対するような真逆のそれを見せる。
 鏡映なのか光影なのか。
 灯りは落とされ、下弦の月から零れる光に僅かに照らされるだけの室内で、さらりと背に黒髪を流した女が、つと片方の手のひらを天に向けて宙に掲げた。誘われるように部屋の至るところに光の粒子が現れ始ると、砂粒より小さなそれらは、緩やかな螺旋を描きながら一点を中心にして巡り始め、やがて、ひとつの球体を形作った。
「これの結晶をせっかく渡してやったのに」
 手のひらの上に浮かび上がったのは、紛れもなく天球石だった。
「役立てるも立てないも、彼ら次第だよ」
 穏やかに応える男の、うなじで結わかれた髪もまた黒い。
「でも、フィリアは放っておけない」
「ああ」
「あの子は、いつもそう」
「あの子は、自由になりたいだけさ」
「そうね。でも、あんなことは一度でたくさんよ」
「そうだな」
 男が天球石に手をかざすと、夜明けの空色をした星がふたつ、明瞭な輝きをもって現れた。そして、自らの内に光を持たぬ星の姿を浮かび上がらせる。
「これで、彼らも気付くだろう」
「誤解しなければ良いのだけれど」
「それもまた彼ら次第だ」
 うっそりと笑う男も、目を伏せて口許だけで笑む女も、まるで遠い時間を生きてきた老人のような疲れと諦念を湛えていた。
 音も無く弾けて、天球石は消えた。
 立ち上がった二人は、慣れた様子で使い込まれた革の鞄を背負うと、椅子の背に掛けてあった外套を纏った。足許も旅用のブーツで固められている。
 まだ、曙光が射すには早い時間ではあったが、既に東の稜線には東雲の淡い光が滲み始め、晴天を約束していた。
「旅立ちには良い日ね」
 女の言葉に、男は頷いた。

◇ ◆ ◇

 誰かに呼ばれたかのように振り向いたアズフィリアに、イェグランは怪訝そうな目を向けた。その視線の先には、ただ夜の闇が広がるばかりだ。
「どうかしたのか」
「いえ……」
 そういいながらも、虚空の彼方を酷く気にしているのは明らかだ。どこか不安げで、その割には迎えに来た母親の気配を察した子供のような顔をしていた。それで、なんとなく理由を察した彼は、それ以上アズフィリアの不審な様子を追求するのをやめ、代わりにその小柄な身体を腕の中に抱き込んだ。身体を伸ばして寝転ぶこともできる長椅子で、膝に載せられる格好はいつものこと。アズフィリアもその肩にことりと頭を載せた。
 春の女神の歌声が響き渡り、冬将軍が去ったとはいえ、夜も更けてくれば人肌も恋しくなろうというものだ。
「それにしても、ルウェルトも愚かなことだ。まさか隣国に逃げ隠れていた皇子が、牙を剥くとは思わなかった」
 とはいえ、甘さとは程遠いことを口にしながら、くつくつのイェグランは喉の奥で笑う。
「大国におもねること無く、自国の誇りを掛けて頭を上げるものに、そんなことをおっしゃるものではありません」
「まあ、あの莫迦皇子を傀儡にしてルウェルトを手に入れるよりも、面白い展開にはなったな」
「何も戦になどしなくてもよいでしょう」
「その方が面白いだろう?」
 まるで、暗に、お前を楽しませる為だと言わんばかりの口調に、アズフィリアは眉をひそめる。
「それに、皇子を匿っていたカーラスティンも、ちょっと脅したら、簡単に折れたぞ」
「お人の悪い……」
 嘆息して、目を閉じる。
 ただ、世界をこの目で見てみたいだけなのに。
 それが、イェグランと交わした約束だった。
 初めて出会ったのは数年前のこと。
 本来なら、足を踏み入れたが最後、生きて出ることなど叶わないヴィスタリア一族の領域に迷い込み、空腹の余りに倒れていた彼をアズフィリアが見付けたのだ。いくら放浪中とはいえ、皇子としては情けない有様ではあったが、その程度で崩れる矜持などイェグランは持ち合わせていなかった。一族には内緒で食料を届けて彼の回復を助けた彼女に、必ず礼はすると言い残して旅立ったイェグランは、翌年、見事な細工が施された星光石のネックレスと耳飾りを携えて、再びその地を訪れたのだった。
 それをアズフィリアは受け取らなかった。イェグランも無理には押し付けなかった。
 更に翌年、ウェラーサ染めの糸で織られた見事な反物と、サルーファの名工の手による刺繍が施された帯を贈る為にやって来たが、それもアズフィリアは笑って固辞した。
 その翌年、彼がその地へ向かった時、その手には旅の必需品以外の何も持っていなかった。
 代わりに、彼はアズフィリアにその手を差し出したのだ。
 ヴィスタリア領から出ることを許されていない彼女に、自由をやろうと言って。
 それすらも、アズフィリアは直ぐに受け取ることはなかった。一族が外に出ることを禁じられている理由だけでなく、一族の追っ手から決して逃れられないことが彼女に、躊躇わせていた。別れの日、もし、もう二度と彼はこの地を踏まないだろうと悟らなければ、その手を取ることはなかったに違いない。
 そうして彼女が辿り着いた先が、この豪奢な檻だった。
 けれど、この居心地の良い鳥籠にいられる時間がさほどないことは、彼女自身、よく分かっていた。

◇ ◆ ◇

 陽菜子が、ほとんど拉致同然の状況で宰相の館に連れて行かれて以降、何度申し入れても、ティレンは面会を許されなかった。準備が整い次第、グリヴィオラへ出立するとのことで、それがいつになるかさえ知らされないまま、数日が過ぎていた。
 ラエルが面会に赴き、陽菜子の様子や、知りえた状況などを伝えて来ることだけが、ティレンに知り得る全てだった。
 その冬は、彼女にとって全ての歯車が噛み合わない状況ではあった。
 フレイの置き土産をもとに、いろいろと探りは入れてみたものの、これまで度々食事なども共にして来た伯父とは、多忙を理由に会うことすら出来ず、アトールの壁はどうしようもなく厚い。場所柄、女性の出入りには厳しい監視の目があり、いくら身なりを変えようと、ティレンがアトールで何かを探ることなど不可能だったし、聖宮内で探索を任せられるに足る者を見出すには至らなかった。
 彼がいれば。
 何度思っただろう。彼女の幼馴染みほど、アトール内を探ってもらうのに適任者はいなかったのだ。
 が、彼は任務で国を離れている。
 そして、天球石に現れた妖星について、ひたすら過去の記録を掘り起こすことで、手一杯な状態でもあった。ようやく知り得たのは、晴れた日の空のように色を変えてゆくと星が、不可思議な力を秘める一族を示しているらしいということだ。
 思い当たるとすれば、ヴィスタリアと呼ばれる伝説の一族。
 髪に闇を湛え、紫の瞳で未来を見通すのだという。
 これが、グリヴィオラ王の愛妾を示しているのかと知れたところで、意味するところまで読み取れるわけではない。ただ、このルウェルトとグリヴィオラの緊張を呼んでいる要因になっているのだろうと想像出来るくらいのことで、ティレンにすべき事も出来うる事も無い。
 新たな星の出現を認めたのは、無力感に支配されたまま、天球石を見つめていたときの事だった。
 愛おしむように見つめていた金色の星の近く、闇の中から生まれでるように、ふたつの星は輝き始めた。夜が明けてゆく空のように、深い青から次第に明るい色へと変移してゆく様は、かの妖星とたがうところはなく、同時に、そのふたつの星は、その傍らにある星をも映し出した。闇に沈むそれこそが、彼女の探し求めていたものだった。
 やはり……!
 ようやく、ティレンは【闇月】が、こちら側に堕ちた確信を得たのだった。

◇ ◆ ◇

 身を包む擦り切れた外套、艶を失った髪は無造作に肩にまで伸び、既に無精髭も馴染んだ様子は、まるで無頼の輩だ。そんな男がぬっと玄関先に立っていたら、年季の入った侍女でも悲鳴を上げた所で恥にはなるまい。
 が、懸命にも彼女は、寸でのところでそれを飲み込んで、礼儀正しく、そのならず者にしか見えない男を迎え入れた。
「……ここはあなたの自宅ではないはずですが?」
 ちゃっかりと風呂にまで入り、すっかり身ぎれいな格好でくつろぐフレイの姿を居間に見て、憔悴して帰宅したティレンは頭を抱えた。もし、あの無頼な姿を目にしていたら、間違いなくその場で叩き出していたことだろう。
 思わず、イーラ──古参の侍女の名だ──をティレンは睨むが、イーラはまるで動ずること無く、主人たる彼女の脱いだ外套を受け取り、暖かなお茶を流れるような所作で供する。
「土産のひとつもなくて悪いんだけどな」
 にやりと笑むフレイに悪びれた様子は無い。
「もう宰相に報告は済んでいるのでしょうね?」
 冷たい目で見下ろされても、どこ吹く風とばかりに軽く肩をすくめると、不意にフレイは真顔になった。
「ルウェルトとグリヴィオラが一触即発の状態ってのはともかく、いつの間にカーラスティンはグリヴィオラに与することになったんだ?」
「知りませんよ」
 ティレンの言葉はにべも無い。
 いつになくひやりとした響きに、フレイはふと違和感を覚えた。いつも、愛想がいいとはとてもいえない口調で丁寧な言葉を操る幼馴染みではあるが、体温が失われたことなど無いというのに。
「さすがに、グリヴィオラも援軍の要請こそしなかったみたいだが、代わりに【金の小鳥】を借り受けるって、向こうでも噂になってる。本当なのか?」
「ええ、事実ですよ。今、ヒナコ様は宰相の屋敷で仕度を整えておられます」
「はあ?」
「王のご命令だそうで。王太子殿下の離宮で歓談されている最中に、それはもう、丁重なお迎えだったそうですよ。護士たちの話によれば」
 健気にもソナが同道を望み、許されたのが救いですけどね。
 そう言い終えて、口許を歪めたのは、どうやら笑ったらしい。
 子供の頃から、斜に構えたところはあったけれど、フレイに理解出来ないような捩じれた表情などしたことはなかった。
「いったい、何がどうなってる?」
「さあ」
「状況が分からないんじゃ、俺はどうしていいか分からん」
 不貞腐れるようにフレイは頭を振る。
 グリヴィオラが動きを見せるかも知れないという宰相補佐の言葉をもとに、フレイがグリヴィオラに潜行して程なく、ルウェルトがグリヴィオラと緊張状態に入った事は、直ぐに巷にも流れた。その時点で帰国すべきだったのかも知れない。命令は冬の終わりまで潜んで情報を集めよということであったが、得られたものなど皆無に等しい。
 時期を失したことも災いして、街道が一時封鎖され足止めを喰らったのも痛かった。それが解かれて、ようやく帰国を果たしてみれば、【金の小鳥】が貸し出されるらしいという噂を耳にし、いても立ってもいられなくなって、ここへ帰って来たのだ。
「だったら」
 ティレンは思い詰めた顔でフレイの傍らに膝をつき、その上着の裾を握りしめて懇願した。
「どうか【闇月】を、銀月楼から攫われたという黒髪の上臈を探し出して、殺してください」

2008.09.21


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