星月夜の森へ

─ 34 ─


 その扉の鍵を、その手で掛ける日が来る事など、サリューは想像した事も無かった。
 いつか自分がその扉の向こうで、静かに終わりの日々を待つことになることなら、いくらでも想像したことはあったのだが。
 謀反を企てた皇族を幽閉する為だけに作られた、皇宮の奥津城。
 まさに、生きながらに死者の列に加えられる場所だ。
「マナーク、済まない」
 数刻前まで、半狂乱になって騒ぎ立てていたのは第三側室のシスリーで、あまりの狂態に眠り香を嗅がせて意識を失わされていた。対照的に、その子であり次期皇王になるはずだったマナークは、この状況を受け入れ、静かな目をしている。
「いや、こうなって、少しほっとしている」
 マナークは軽く首を振った。
 これまで、こうして正面を向いて話をした事などなかったから気付けなかったが、母親が違うとはいえ、彼と自分はよく似ているとサリューは思った。第一側室の子であるキノアに比べると、二人は細面の父親の面差しを受け継いでいるのだった。
 そのきょうだいを、奥津城に追いやる事は、サリューの本意では決してなかった。
「まさか彼がグリヴィオラに連なる者だとはね」
 目を細めて自嘲する彼は、頼りにしていた男の正体に相当の傷心をしていた。
 最初は、高価というばかりでなく、気の利いた贈り物を定期的にしてくる辺境貴族という認識でしかなかった。それが、気が付けばすっかりこの親子の心に根を降ろしてしまっていたのだ。
 若い頃は旅に明け暮れたという彼の話は、マナークをすっかり魅了し、やがてはシスリーをも虜にした。
 有力貴族を買収する為の資金を、湯水の如く提供し、為損じたとはいえ第二皇子のサリューを亡き者にする手はずを整えたのも彼だ。
 ──皇王ヒューベリが最も愛する方の息子であるあなたこそが、次期皇王に相応しい。
 そんな言葉を、どうしてああも容易く信じ込み、阻むものを敵だと思い込めたのか、マナークは夢から覚めたような、明瞭な意識の中で不思議に思う。あれほどの潤沢な資金を、たかが辺境貴族に用意出来た事を疑いを抱きもせず、ばらまかれる金に群がる貴族におだてられ、すっかりその気になっていた事も、今更ながらに恥ずかしい。 
「皇妃さまが決断してくださったことに感謝するよ」
 マナークは薄く微笑った。

 帰国したサリューがまずしたことは、父である皇王の見舞いと、皇位継承権放棄の表明だった。もちろん下準備としては、母方の係累を説き伏せ、未だ次期皇王の座にこだわる母を宥め押さえ付けてもらう事も忘れなかった。
 カーラスティン王室の姫から婚姻を結ぶ申し出を受けていながら、何故、と訝しむ者も多い中、彼が命をも晒す継承権争いに飽いたからだと明言すると、不穏な噂も鳴りを潜めた。
 そして、ラエルの好意を無駄にしない為にも、まず自分の置かれている状況を把握すべく、情報網を作り上げることに力を注いだ。無論、これまでだってやっていなかったわけではないが、随分と粗く、また自分に都合の良いものを取捨選択してしまっていた事は否めない。
 さすがに母エラーラの実家の方も、サリューが命の危機に晒され、隣国にまで逃げねばならない事態にまで陥ったこともあって、ありとあらゆる伝手を使って情報網を張り巡らせた。協力する貴族の中には、カーラスティン王室の後ろ盾を得たと知り、何を期待しているのか過去の態度をがらりと変えた者もいる。
 その過程で、偶然に拾い上げたのが、第三側室シスリーから貴族への金の流れだった。それが、あまりに大き過ぎる。
 不信に思って探らせている最中に、皇王ヒューベリは最期に次期皇王はマナークにするようにと言い残して亡くなった。
 葬儀を終えたのと前後して、辺境貴族を名乗る者から都合された事になっているが、金の出所はグリヴィオラであることを突き止めた。くだんの辺境貴族の周辺を見張らせ、手に入れたのは、グリヴィオラ王の印が押された密書だった。
 これまで、ルウェルトは何度もグリヴィオラの脅威に晒されて来た。
 まず、国土の面積、人口が格段に違う。土地そのものの豊かさであれは引けはとらないのだが国力に差があるのは否定し難い。特に軍の規模など、三分の一にも満たないだろう。国民の気質も陽気で好戦的なグリヴィオラに比べると、争いを好まず、何事も丸く治めようとするルウェルトは不利としか言いようが無い。だからこそ、これまでグリヴィオラには毎年、献上品を贈り、友好的な関係を崩さないように努めて来たのだ。これまで、皇室に連なる者を正妃としてではなく妾妃として求められれば、姫に涙を飲み込ませて贈ってもいた。その一方で、万が一の時、共に手を携える為に、カーラスティンとの友好も深めていた。
 その三国の関係は、それで危ういながらも安定していたのだ。
 でなければ、暢気に皇位を争ってなどいられない。
 が、そこにグリヴィオラの介入があるのだとすれば、放っておくことなどできなかった。
 これまで、側室同士が互いに険悪な関係であった為に、ろくに言葉を交わした事も無い兄弟のもとを尋ねる気になったのは、手に負えるほどの小さな事態ではないと判断したからだ。もはや皇位を継承しない身であれば、さしてこだわることなどない。
 母方の血を色濃く受け継いだらしい、第一側室の子キノアは、サリューよりたった一つ年長であるだけとは思えぬほど、大人びた風貌を持っていた。身の丈もサリューより頭半分ほど高い。
「何の用だ」と、最初はどんな計略に巻き込むつもりかと疑われ、ろくに話も出来なかったが、足繁く通い、根気よく事態の説明を繰り返すうちに、キノアにも思い当たる節があったのが、徐々に情報の交換が成り立つようになった。
 見るからに峻厳な外見の印象で、取っ付きこそ良くないのだが、話してみれば、良い聞き手であり、また機知に富んだ話し手でもあった。打ち解けてくれば、冗談をも交えて弾む会話に、もっと早くにこんな機会を持っていればとサリューは思う。
 他者から聞かされる言葉でしか知り得なかった兄弟たちの姿を、もっと早くに知っていたなら。
 滅多に笑う事も無い偏屈な性格で、融通も利かない、子供の頃から非常に扱いにくい皇子であるというのが、サリューが散々聞かされて来たキノアという人物像だったのだ。
 実際の彼はよく笑うし、サリューの話を聞いては忌憚の無い意見を述べ、また自分に対する言葉も素直に受け取る。
 そうでなかったら、事態はもっと混迷したに違いない。
 互いに協力して得た数々の証拠を手に、二人が最終的に頼ったのは亡きヒューベリの正妃エイリィだった。
 彼女以外に、マナークの皇位継承を覆す事が出来る者などいなかったのだ。

「僕のせいで、すっかり悪者になってしまったね」
 ふと、マナークが呟くように言った。
 それは巷の流言に大してのことだろう。
 カーラスティンの後ろ盾を嵩にきたサリューが、ありもしないことをでっち上げて皇位を簒奪しようとしている、という。
 それは、正妃エイリィがうるさ方の貴族たちを全て黙らせて、次期皇王にキノアではなくサリューを指名しただけでなく、隣国と通じたマナークとその母である第三側室シスリーに奥津城籠めの処分を言い渡したからでもある。
 更に、その場でキノアもにやりと人の悪い笑みを浮かべて、自分はいずれ将軍職に就くのだと言い放ったのだからたまらない。彼の生母たる第一側室リリアが、白目を剥いて卒倒した事は、しばらくは笑い話の種になるのだろう。
 一方、処分の重さに、金切り声で罵倒の言葉を並べ立てるシスリーの息が切れ、静まり返った中で放たれた、「他に言う事は?」というエイリィの一言が、全てを決定し、終わらせたのだった。
「グリヴィオラとは……難しいと思うが、出来るだけ穏当にいくことを祈っているよ」
 まんまと騙され操られた第三側室とその皇子の愚かさを認めながらも、悪辣な介入をした事に、サリューはグリヴィオラに対して抗議の文書を持たせた使者を送っていた。いくら小国とはいえ、蔑ろにされる訳にはいかない。
「……ありがとう」
 なんと答えるべきか迷った末に、サリューはそれ以上の言葉を見付ける事が出来なかった。
「さ、お別れだ」
 促したのはマナークの方だった。
 生活をするに、不自由をする事は無いはずだ。それでも、もう二度と表舞台に出て来る事は出来ない。
 左右から、ゆっくりと扉が閉じられてゆく。
 ──しばしのお別れだ。
 サリューはこっそりと胸の内で呟き、自らの手で掛けた鍵の下りる音を聞いた。

 その後、マナークの祈り虚しく、グリヴィオラに送った使者の首が、返答として送り返されて来た事をサリューは知ることになる。

2008.09.23


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