星月夜の森へ

─ 32 ─

 王都ではシェリフロルの花が咲き始め、いつもなら浮かれた空気が流れ始める頃なのに、どこか沈鬱な様相を見せていた。
 それは、戦の噂がそこかしこで真しやかに囁かれているせいだ。
 近く、ルウェルトとグリヴィオラが開戦する、という。
 大国グリヴィオラに牙を剥いた所で勝てるはずも無い。
 その悲惨な末路を、自国に重ね合わせずにはいられないのだ。
 楽天的な性格を自認するナーダですら無謀だと思うし、これを話の種にしたミディールの言い種などとても他所様になど聞かせられない。
 この件の事もあって、王城からの知らせにすぐ対応出来るよう、ナーダは館で待機するようになっていた。ようやくしばらく腰を落ち着けていられるというのに、事情が事情だけに、結局ミディールの婚儀は更に先延ばしになっている。それでもまあ、頻繁に会う機会があるだけマシな状況といえるだろう。
 ナーダが王都に足を運んだのは、なにもそれにあてられての事ではなく、フレイと連絡を取る為だった。未だ王都に帰還したという話は聞かないが、何か伝手がないかと思ったのだ。それほどに、ナーダは由井を持て余していた。
 第二騎士団の宿舎に立ち寄り、懐かしい面々と顔を会わせて、しばし旧交を温めた後、その真の姿を見せるにはまだ早い時間のアトールに足を踏み入れた。
 表からでなく、裏の木戸から入り、これから何かの稽古に出掛けようとしていた禿のひとりに声を掛けて、ファーランを呼んで来てもらうと、アーウェルを連れて来た。銀月楼に来て日が浅いらしく、ナーダのことはまるで知らなかったらしい。
「なんだ、あんたかい。この子が顔色失くして、どうしましょう、なんて言うから、何事かと思ったよ」
 からりと笑うアーウェルは、少女を安心させるように軽く頭を撫でてやると、「ほら、行っといで」とぽんと背中を押してやった。
「また、いい娘が入ったみたいだな」
 ぱたぱたと、先に行った少女たちを追って駆けてゆく背中を見ながら、世辞でもなくナーダが言うと、アーウェルは複雑な苦笑を零した。
「まあねえ。でも最近は上がったりだよ。戦の噂のせいで」
 浮き世を忘れる場所ですら、その陰からは逃れられないものらしい。
「待ってな、ファーランも、もうすぐリシェがいなくなるんでちょっと沈んでてね。ちょうど良い時に来てくれたよ」
 決して嫌みなどではないのだが、ナーダには痛い言葉が潜んでいた。
 面倒を見ていた花影が、自分よりも先に身請けされて行く。
 ファーランはそれを何度見送っているだろう。
 カーラスティン国の中でも、豊かな方に入るエディン領の時期領主とはいえ、ナーダに自由になる金子は僅かだ。一介の上臈ならともかく、傾城を身請けするだけのものを用意することなど出来なかった。無論、領主である父に事情を話せば、なんとかできたかも知れないが、ここ数年の状況はそれを許さなかったし、何よりも、ファーラン自身がそれを佳しとしなかった。
 間もなく、ファーランの年季は明ける。借財の全ても返し終えるだろう。
 それを待つ他ないことは、やはりナーダにしてみれば己の不甲斐なさに居たたまれないものを感じないではいられないのだった。
 程なく、普段着に唇に薄い紅を差しただけのファーランが現れた。
「こんな時にいいの?」
 ふわりと笑む彼女は、いつもそうしてナーダの都合を慮る。
 既に騎士団を離れているとはいえ、領主の息子がこんな場所に来ている状況ではないことを彼女はよく分かっていた。
「隊長に用があったんだが、まだ戻ってないようで、二、三日待ってみるつもりだしな」
 ここで、逢瀬の為だと言えるほどナーダは器用な質ではなかったし、それが真実の一部でしかないことをどちらも知っていたから、この二人の会話は、甘さに縁が無い。
 ほとんど無言のまま、ツェミレ河の河原へと向かうのはいつものこと。
 熾き火を思わせる赤銅色と、夜明けの空色のような珊瑚色の髪が並んで歩いているのは、なかなかに目立つ。何年も前から、そんな風に連れ立って歩く姿を知っているものも多く、ちらと目をやることはあっても声を掛けるような無粋な事は誰もしない。
 河原ではベルファーラの花がぽつりぽつりと咲いていた。
 まだ風は冷たいが、そこだけぽかりと温もりが溜まっているようにも見える。
 ファーランは、袂からナーダからもらった魔除けを取り出した。
「ねえ、これ、何かいわくでもあるの?」
 目の前にかざして、ゆらゆらと揺らしながら問う声音はやわらかい。
「なんだかね、聖宮の方から、これを寄越せって言って来ているんですって」
「聖宮が?」
 ぎょっとした顔で振り向いたナーダに、ファーランはふふっと微笑う。
「でもね、ヴィリスがまるで親の敵みたいに追っ払ってくれてるの。よっぽど嫌いなのね」
 言葉を交わした事は数えるほどもないが、あの傾城なら、それはもう見事な啖呵を切ってみせるのを想像するのは容易い。ナーダも思わず笑いそうになる。
「悪かったな、そんなもの土産なんかにして」
「これ、とても気に入ってるのよ。こんな綺麗な黒髪の魔除けなんて、滅多に手に入らないもの」  ほとんどは、染料で染められたもので、時間が経てば色褪せて艶も失ってしまうが、これは、未だに深い闇色を湛えたままだ。
 すっと笑みを沈ませて、ファーランは指先に引っ掛けて揺らしていたそれを手のひらに載せた。
「……まだ、見付からないのよ」
 それが誰の事かは、言わずもがなだ。
 が、銀月楼から、上臈が獣に攫われたという話は、大掛かりな捜索がなされた割には、意外に巷には流布していなかった。噂好きの王都の住人の口の端に上らぬのだから、アトールの情報管理の徹底ぶりは凄まじい。ここに遊びに来て腹上死した異国の王が、自国の寝室で涙に暮れる王妃に看取られて亡くなったことになっていた、という話もあるくらいだ。
 アトール内での出来事を外では話すことは無粋だとされ、ことに事故や事件に関しては御法度であるという不文律があるにせよ、わずかに王都に魔獣が出たという噂がちらほら流れたくらいのもので、今では戦の不安にかき消され、口にするものもいない。
 白銀の獣と黒髪の少女。
 それだけ目立つ特徴を備えていれば、直ぐに見付かるだろうと誰もが楽観視していただろうに、未だにアトールには、確かな情報はほとんどもたらされていなかった。
「リシェがね、それを気にしていて。晴れやかな顔で、発って欲しいのだけれど……」
「……確か、攫われた上臈ってのは、黒髪なんだよな」
「ええ。ずっと被り物をしていたから、あたしも全然知らなかったわ」
「どんな娘だった?」
「そうねえ……、とにかく何も喋らない子で、陰で酷い意地悪もされてたみたいだけど、何も言わないし。でも、すごく強情だと思うわ。あのヴィリスと無言でやり合うんだもの。そこが気に入ったのかしらね、ヴィリスもなんだかんだ言って可愛がってたのよ」
 やっぱり、あれは攫われた上臈だったか。
 あの後──腕の中の抵抗がようやく止んだかとほっとした時には、ナーダは自分のものでない血で、その身を染めていた。
 騎士団に在籍していた頃、国境での小競り合いや盗賊の討伐などで、戦いというものを経験したことはあった。人を斬った事もある。
 それでも、これほどまでに重い感情に支配された場で戦った事などなかった。
 確実に殺されると思った。
 爪と、前肢に赤いものを滲ませた獣の全身から発せられていたものは、獲物を横取りされた怒りなどでなく。
 だから、ミディールの言葉が脅しになったのだろう。
 ──このままでは、この子は死ぬぞ。
 もちろん、嘘ではなかったにせよ、自分たちが助かる為に言った一言には違いなかった。
「ナーダ?」
 不意に難しい顔をして黙り込んでしまったのを不審に思ったのだろう、心配そうな声がナーダを呼んだ。その理由を在らぬ方向に見出させてしまったのだろうかと、安心させるように笑みを向ける。他人が見たら、顔を引き攣らせているようにしか見えないそれに、ファーランは花のような笑顔を向けた。

2008.09.18


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