星月夜の森へ

─ 31 ─

 その日は午後から激しい雨が降り、施療院の訪問を取りやめた為、ぽっかりと時間が空いていた。
 まるで春の嵐といった風情で、庭の樹々も枝をしならせ、空気までもがざわめいている。
 以前、同じような天候の日に、陽菜子がどうしてもと言い張って施療院へ赴いたことがあったのだが、哀れな濡れ鼠になってしまった陽菜子の姿を見た面々に、それはもう、揃いも揃って、こんな日にどうして外出などするのかと説教尽くしの目に遭って以来、さすがに相手に心配を掛けそうな日は大人しく外出を控えることにしている。
「ヒナコ様、美味しいお菓子をいただいたのですが、ご一緒にいかがですか」
 久しぶりにティレンにお茶に誘われて、いそいそと応じた陽菜子に供されたのは、ポムパトランという、いわゆるドライフルーツとナッツを練り込んだパウンドケーキだった。好物に目を輝かせる陽菜子を満足そうに見つめる裏側に抱える重い気持ちなど、もちろんティレンはおくびにも見せない。
 身分と言うよりは、立場を重んじるらしいティレンが、いつもは同席を是としないソナも、お茶とお菓子をそれぞれに配り終えると、ティレンに勧められて陽菜子の隣の席に着いた。
「あれ、このお茶……」
 花の香りと、ほのかな甘さ。
「確か、ヒナコ様のお気に入りだとソナから聞きましたので」
 ポムパトランを頬張っている時にいきなり自分の名が出て来て、咽せながらもソナは隣でこくこくと頷く。
 でも、すごく高級品だって言ってたのに。
 まさに箱入り娘状態ではあっても、少しずつ、陽菜子もこの世界の価値観みたいなものは覚えつつある。聖宮での暮らしは、贅沢をしているという感はないが、それは陽菜子の感覚であり、市井の者に比べれは、衣食住、すべてに置いて恵まれていると言う事くらい分かっていた。それでさえ、このお茶は高くてなかなか手に入らないというのは、相当なものなのだ。
「ありがと。このお茶、大好き」
 ちゃんと嬉しそうに見えただろうか。
 その気持ちに嘘はないけれども、陽菜子は笑顔の片隅でそんなことを思う。
 ここで、変に遠慮したり申し訳ないと言う顔をするよりは、素直に好意を受け取って、嬉しい気持ちをおもてに出す方が、皆に喜ばれる。
 ごめんなさい、よりも、ありがとう。
 陽菜子がこの世界に来て、最初に学んだ事はそれかも知れない。
 雨音は続いていた。
 咲き初めたシェリフロルの花が散ってしまわないか、気になった。
 窓ガラス越しに見える風景は、少し歪んでいる。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「春先のこんな雨を、冬将軍の置き土産、なんて言いますけれど、それでシェリフロルの花は散ったりしませんから」
「ほんとに、桜みたい」
「サクラ?」
「うん。春になると、こうして咲いて、最期はね、風に乗って花びらが雪みたいに散るの。家の近くの公園で、よくお花見したなあ」
「ヒナコ様、その花見というものに、出掛けませんか」
「雨なのに?」
「いえ、今すぐではありません。王都から少し離れたところに、シェリフロルだけでなく、春の花々が咲き誇る美しい土地があるのです」
「行きたい!」
「そこで、しばらく過ごしましょう。ソナと私と三人で。生活は少し不自由になるかも知れませんが、」
「待って、待って!」
 かちゃん、と茶器が音を立てた。
「でも、あたし、グリヴィオラに行くんでしょう?」
 びくりとティレンの肩が揺れた。
 どこのおしゃべり雀が喋ったのだ?
 もちろん、ソナが話すわけがない。
 万が一、そんな話が外に漏れていたとしても、陽菜子を不安がらせるような話を好んでする者はこの聖宮にはいないはずだ。いまや、聖宮で彼女を愛していない者など──
 ……神官長か。
 忌々しい、あの古狸が。
 陽菜子を逃がすための準備に追われて、ここしばらく聖宮を留守がちにしていたことが裏目に出たようだった。
「グリヴィオラに……行かなくちゃいけないんでしょう?」
 既に覚悟を決めた目で、陽菜子は真っ直ぐにティレンを見て、もう一度言った。
「いいえ」
 ティレンはきっぱりと否定する。
「でも、王様が」
「王など、関係ございません。無理矢理にヒナコ様をこの世界に留めている私どもが言える事ではありませんが、【金の小鳥】たるあなたに、命令出来る者など、この世にはおりません」
 なんという詭弁だろう。
 自分の口から吐き出しておきながら、ティレンは嫌悪を感じる。
「じゃあ、あたしが家に帰りたいって言ったら、帰してくれる?」
 まるで、それは不意打ちで。
 甘えたな様子ではなく、至極真剣な面持ちで、陽菜子は言う。
 これまで、そう言いたげな気配は何度もあったが、彼女は決してそれを口にしなかったというのに。
 勝手な事情で有無を言わさず堕とされた世界で、今度は国同士の争いにまで巻き込まれようとしていれば、見捨てられたとしても仕方がない。
 けれど、失うわけにはいかない。
 この世界という鳥籠から、解き放ってやる事などできないのだ。
「それは──」
 出来ません。
 ティレンは言葉を飲み込む。
 こんな事態になってしまった以上、もし、【闇月】を捕らえる事が出来たなら、陽菜子を安全な世界へ帰してやるべきなのだろう。しかし、再びこの世界に堕とせる可能性は、限りなく低い。よしんば再び堕とせたとしても、長い不在は否めず、それに世界が耐えうるかどうかは分からない。結局、【金の小鳥】がこの世界に在らねば、何の意味も無いのだ。
「ねえ。あたし、グリヴィオラに行くよ?」
「ヒナコ様!」
 ソナが悲鳴のような声を上げた。
「危険な場所にヒナコ様をお連れする事など出来ません!」
「だって、グリヴィオラの言う事聞かないと、カーラスティンは大変なことになるんでしょう?」
「ですから、そんなことにヒナコ様は関わる必要などないのです! ヒナコ様には、何としても安全な場所で生きていただかねばなりません」
「【金の小鳥】だもんね?」
 どういう意味で、陽菜子がそう言ったのかティレンには分からなかった。
 陽菜子という少女個人に、身内のような愛情を持っているのだと説いたところで、この場にそれはあまりに嘘くさい。
 それに、この聖宮で、陽菜子の事を【金の小鳥】だからと可愛がっている者などいないことを信じてもらうには、あまりにその立場は重すぎるのだった。

「で、面倒事を俺の所に持って来たわけか」
 王太子の前で膝を折って以来、ティレンはしばしば離宮を訪れていた。聖宮の者があまりに頻繁に出入りするのを見られては、何か勘繰られることもあろうかと、時には貴族の使いのような格好をしたりと、警戒はしていた。
「致し方ございません。私には、ヒナコ様を説得する事が出来ませんでした」
「どうして、安全な場所へ逃げるっていうのを、拒否するんだ、あの小娘は」
「ご自分は【金の小鳥】だから、との一点張りで」
「……薬でも盛って、密かに連れ出せ」
「本気でおっしゃってますか」
「……最後の手段としてはな」
 特に、ティレンの腰が低くなることも、ラエルが無駄に高圧的になる事も無く、やりとりの不穏さは以前と変わりない。
「明日にでも、ここに連れて来い。それで説得出来なければ、強硬手段をとる事になるだろうが、それは了承してもらえような?」

 そんなわけで、翌日は午後からの礼儀作法の授業を中止して、陽菜子はラエルの住まう離宮へと連れて行かれることになったのだった。
 ラエルがいるというだけで、陽菜子が竦むのはほぼ条件反射になっている。
「ようこそ、【金の小鳥】。今日はお呼びだてして申し訳ない」
 優しげな笑みとともに、やわらかな所作で居間に通され、座り心地の良い椅子に導かれても尚。
 あの群青色の瞳が怖い。
 ラエルは、ティレンからの助言をもとに、陽菜子の好きな菓子を卓上に揃えて、香りの良いお茶を用意して、少しでも容易く丸め込む為の舞台を用意していたのだが、それを目に入れる余裕すら、陽菜子にはないようだった。
「ソナと言ったな。お前もこちらの席に着くが良い。【金の小鳥】が心細そうだ」
 軽く横から突いたら、そのままぽっきり折れてしまいそうなほどガチガチになりながら、ソナは示された席に腰を降ろした。
「さて、単刀直入に話をさせてもらおうか」
 お茶にも菓子にも手を付けようとせず、がちがちになった少女二人を前に、ラエルはやや面倒くさげに言った。
「あなたには、メリアーダへ行っていただく」
「メリアーダ……?」
 おずおずと陽菜子は問い返した。
「風光明媚な良い所だ。そこでしばらく過ごしてもらおう」
「だって、あたし、グリヴィオラに行かなくちゃ……」
「それがどういう事か分かっていて、そう言うのか?」
 すっとラエルの目が細められ、瞳の青さが深みを増した。
「グリヴィオラに行くという事は、サリューと敵対するということになる。それでも良いか?」
「……ルサリアと?」
 どうやら、詳しい状況は一切聞かされず、【金の小鳥】なのだから、ということで言い含められたらしい。
わざとらしく、深々とラエルは溜め息を吐いた。
「ルウェルト皇国は今、時期皇王の座を巡って混乱している。一度は皇位継承権を放棄したサリューが、第三皇子を更迭し、そしてグリヴィオラに宣戦布告をした」
「まさか!」
「俺もそう思ったが、どうやら事実だ。そして、グリヴィオラ王イェグランは、我が国とルウェルトの繋がりを知っていて、わざわざ【金の小鳥】を貸せと言っている。お前がいては、サリューは兵を引くしかないんだ」
「どうして?」
「分からないか? 我が国とルウェルトは古くから親交が深い。お前は仮にも【金の小鳥】の名を戴くカーラスティン最高の巫女だ。そんな者が敵軍の前線にいると分かっていて、攻撃出来るわけがないだろう」
「サリューはそんなくらいの覚悟で、戦争なんか起こそうとしてるの?」
「そんな事は俺が知りたいくらいだ」
 どうしてこんなに鈍くてどんくさいくせに、そういう痛いところを突くのか。
 そんなところに頭が回るなら、肝心なことに気を回して欲しいものだと思う。
「お前、もしかして分かってないのか? グリヴィオラへ行くという事は、戦の最前線に連れて行かれるんだぞ? 物見遊山に行くのと勘違いしてないか?」
「……あたし、そこまでばかじゃない」
「どうだかな」
「だって!」
 陽菜子は、膝の上で固く拳を握りしめ、それに気付いたソナが、そっと自分の手をそれに重ねた。
「だって、【金の小鳥】は、この国を護る為にいるんでしょう? だから皆、あたしを大事にしてくれて、親切にしてくれてるのに、逃げ出すなんて出来ないよ」
「お前はばかか? だからって、わざわざ危険な所へ行かなくていいと言っているのに」
「でも、あたしが逃げちゃったら、聖宮の人たちは酷い目に遭わされるんでしょう? それに、グリヴィオラって国に逆らったら、大変なことになるって!」
「お前ひとりごときにこの国が背負えるか。自惚れるのも大概にするがいい」
「分かってるわよ、あたしに何にも出来ない事なんか! だから、せめて邪魔にならないようにしたっていいじゃないの! どうせあたしの事なんか嫌いなくせに!」
 ぼたぼたと、陽菜子の目から大粒の涙が零れた。
 ……なんと言った?
 ラエルは絶句する。
 確かに、陽菜子に対して好意的な態度を取って来たとは言い難い。だが、こんなところで感情的に叫ばれるほど酷かった覚えなどない。
 それに、こんな感情のぶつけられ方を他者からされたのも初めてで、たじろいでいたのだろう。
「心配しなくても、【金の小鳥】としてぼろが出ないように大人しくしてるわよ」
「なかなか良い心掛けございますな」
 子供じみた涙声の陽菜子に答えたのは、ラエルではなかった。
 それどころか、不意にその場に現れた者に対して、咄嗟に反応する事が出来ず、どういう事なのか事態を把握し損ねた。
 数名の手の者を従えて、そこに立っていたのは、自分と同じく、【金の小鳥】をグリヴィオラに送る事に反対しているとばかり思っていた宰相だった。
「【金の小鳥】はしばらく私がお預かりする事になりました。聖宮にはいらっしゃらなかったので、こちらにまで馳せ参じた次第です」
 そうして、宰相は優雅に腰を折ってみせた。
「……ハーン宰相、それは誰の」
「もちろん、王、直々のご命令です」
 もう、ラエルに打つ手は残されていなかった。

2008.09.15


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