星月夜の森へ

─ 30 ─

 森の外れにある急な斜面は日当りがよく、冷たい風も遮られていて、そこは由井の気に入りの場所となっていた。ちょうど良い具合に熟れた甘い果実も生っている。それを幾つかもいでいると、するりと足音もなく白銀の獣が現れた。
 またここにいたのかと言いたげな眼を向けられて、
「これねえ、秋津の家でもよく食べてた。でも、やっぱり蜜柑はこたつで食べるのがいちばん」
 由井は屈託のない笑みを向ける。
 この森へ帰って来ても、しばらくの間はそんな無邪気な顔を見せることはなかった。
 カーラスティン及び近隣諸国で使われている言葉ではなく、以前のようにど由井の母国語らしい、つまりフェンには理解の出来ない言語を口にするようになって、徐々に表情にやわらかさを取り戻して行った。以前、由井が世話になった家のある村からは、離れた場所にねぐらを移したのも良かったのだろう。そして、前よりも甘えるようになった。単に寒さを凌ぎたかっただけかも知れないが、眠る時以外にも、まるで庇護を求めるかのように身を擦り寄せることがある。
 もっとも、それはフェンが獣の姿である時に限られていて、一度、悪戯心で由井が眠っているうちにそっと変化(へんげ)していたことがあった。目覚めたときの由井の動転の有様は、さすがに悪戯では済まないほどで、後味の悪さばかりが残ってしまった。もっとも、由井でなくとも、目が覚めたら覚えのない男の腕の中にいたとなれば、普通の少女は悲鳴のひとつやふたつ上げて然るべきだろうが。
 そう、まだ由井にとってフェンが人の姿をとるのは,慣れないものなのだ。未だに人に強い警戒心を見せるのを慮ってのことと、フェン自身のものぐさが重なり合った結果、食料の調達にかの村とは森を隔てた人里へ降りる時以外、フェンは常に獣の姿なのである。
 このままではいけないのだと、由井を庇護してゆくなら、フェン自身も生き方を変えねばならない。由井に、このまま森の生活を強いるのは、彼の本意ではなかった。
 ここ数年、世界に満ちる気は酷く不安定で、もし去年であれば、由井がこの森で冬を越すことはまず不可能だったろう。村では凍死者が出たほどの強い寒気が長いこと居座って、寒さなどほとんど気にしたことなどないフェンですら暖かな日向を探したくらいだ。何よりも、森の獲物もやせ細ってしまい、旨味のなさには辟易させられた。
 それが、どういうわけだか初夏の頃、不意に気は安定を見せ、全てがあるべき所に戻ったかのように、歪みを見せていた世界は揺るぎない結晶の姿を取り戻していた。
 どうせまた、人の世界で何かあったのだろうと思ったのは、心のほんの片隅でだけ。大方を締めていたのは。やっとマシなエサにありつけるということだった。肥えた獲物をいかに捕らえようかと思いを馳せていたら、痩せこけた人の子を拾ったというわけだが。
「ここは、あったかいねえ」
 日だまりに横たわるフェンにもたれかかって、由井は蜜柑の皮をむく。確か村人にはクオーネと呼ばれていたな、とはフェンは思ったが、まあ、由井が蜜柑と呼ぶならそれで良いかと、ゆったりと尻尾を揺らした。
 甘い香りが満ちる。
 やがて、由井はフェンの脇あたりに顔を埋めて寝息を立て始め、フェンもまた目を閉じた。
 森を貫き、村へと続く小川の水は徐々に温み始めている。
 ペルファーラの蕾もほころび始めるのも間近だ。崖の向こうに見える山並みがシェリフロルの花に彩られる頃には、言伝鳥(ことづてどり)に託した伝言への返事も返って来るだろう。
 目覚めを誘う春の女神の歌声が、あらゆる生命の耳に届く日はすぐそこまで来ている。

◇ ◆ ◇

 流浪の一年だったなと、馬上のナーダは回想する。
 領内をくまなく巡り、他の土地も視察し、今年は豊作だということは確認出来たし、村の様子などきっちり掴めたことも、大した収穫ではあった。が、さすがに一週間と館に腰を落ち着けることも出来ずに、あっちへこっちへとやられ、ファーランと会い損ねかけたときには、さすがに内心で父を罵らずにはいられなかった。
 既に旅装束はすっかり身体に馴染んでいる。時には野宿を強いられるのにも慣れた。王城に参上したり、貴族同士の集まりなんぞに行かされるよりは、遥かにましというものだが、こんな生活に慣れてしまうのもどうかと思う。
 ちらと、轡を並べるミディールに目をやる。
 相変わらず、薄い笑みを佩いた顔はどこか飄々としていて、掴みどころがない。
 婚約者と仲睦まじいことが救いだが、彼の婚儀は延び延びになってしまっていた。式を挙げる少し前にナーダの父が倒れて以来、ナーダに付き従っているせいもあって、なかなか落ち着くことができないのだ。それについて彼がどう思っているのかは不明だが、謝罪した所で白々しい応えが帰って来るのは分かり切っているので、ナーダは何も言わないことにしている。
 確か、この森を通り抜けたのは、初夏の頃だ。父親の病状は一進一退を繰り返し、未だ床を離れることは出来ないが、領内を治める為の指示だけは精力的に出している。要するに、相変わらずナーダはこき使われているのだった。
 その上、もと上官だったフレイにもなし崩しに頼まれごとをされていた。特に面倒なものではない。かの魔除けを手に入れた村で、それに関する情報を出来るだけ集めてこいというだけのことではあるが。
 しかしながら、肝心のフレイは冬将軍の足音を聞く頃、任務で何処かへ旅立ち、以来、音信不通だった。
 今年の収穫と、備蓄の確認のついでに立ち寄った村長の家で、さも得意げにそれを見せびらかした息子の自尊心をくすぐってやり、どうやって手に入れたのかなどを話させようとしたが、あっけなくそれは失敗に終わった。どうやらこのどら息子、ナーダに魔除けを押し付けて遁走した青年らと徒党を組んで、良からぬことを陰でしくさっていたことを追求されると誤解したらしい。何やら言い訳めいたことを口走ると、彼もまた、脱兎の如く逃げ出したのだった。
 要約すれば、珍しい格好の黒髪の人間を見かけて、つい出来心でその黒髪を一房切り取った。連れ帰ろうとしたら、逃げられたということで、新たに分かったことなどなかったのである。まさか、既にフレイが彼を締め上げて、情報は搾り取っていたことなど、彼らが知る由もない。
「……もう少し、駆け引きというものを身につけられた方が良いですね」
 にこり。
 隣でミディールがそう言う。
「そういうのは、お前の領分だ」
 ナーダは憮然とした顔で断じる。
「この程度のことなら、お一人でもこなしていただかなくては。今後が思いやられますよ」
 ああいう手合いと口をきくのが嫌で、俺にまかせたくせに。
 むっとして、そう言い返したい気持ちははち切れんばかりだが、主従関係にあるとはいえ口で叶う相手ではないことは、幼少のみぎりからよくよく思い知らされている。
 虫も殺さぬ顔をして、攻めに転じたミディールはナーダも及ばぬほど苛烈だ。親の威光をかさにきて威張り腐っているような息子という存在を心の底から侮蔑している彼は、村長の息子を精神的に叩きのめしてやりたいという欲望をうずうずさせていた。がそうするわけにはいかないという事情で慇懃に振る舞わねばならないのが我慢ならなかったらしい。
 結果、何をどうしようと、低姿勢とは程遠いナーダに話しかけられただけで相手は竦み上がり、無様な仕儀と相成ったのである。
 その後、井戸端会議に花を咲かせているご婦人方から、胡散臭さ一歩手前の愛想の良い笑みを湛えたミディールが、異国人を保護した一家があったことを聞き出した。が、残念ながら彼らは、異国人を迎えに来た人間からもらった謝礼金を元手に商売を始めるべく、ムレットという町に移り、程なく亡くなったのだという。
「なんでも、獣に襲われたんだって」
「酒場からの帰り道に、旦那と息子がね。朝、血まみれで見付かったそうだよ」
「奥さんも、後追うみたいに病でねえ」
 くわばらくわばら、と彼女らは他者の不幸を語った。
「それにしても、あの異国人の知り合いかい?」
 不意の問いを、ミディールは曖昧な笑みで誤摩化してしまうと、問うた方もさして深い意味は無かったらしく、
「これでかれこれ三人目だよ、このことを聞かれるのは」
 と、ひとりが言うと、
「そうそう、しかも良い男ばっかり!」
 からからと、ご婦人方は明るい笑い声を立てた。
 ひとりは銀髪の青年で、貴族の子息が身をやつしているようにも見えたという。もうひとりは、短く刈られた亜麻色の髪をした、見るからに武人と分かる立派な体躯をした男だと聞いて、既にフレイがここを訪れていることを二人は知るに至った。
「それにしても、フレイ様も何をお考えなんでしょうね」
「何が」
「たかが、黒髪の魔除けひとつに、自らこんなところにまで足を伸ばされるなんて、相当な事情でもおありなのかと」
「……アトールから黒髪の上臈が獣に攫われたことに関わってるかもな」
 王都に物騒な獣が現れたということもあって、一時は大騒ぎとなり、街道には一斉に検問が設置され、捜索隊までも組織されたが、なんの手がかりも得られぬままに終わった。アトールでは、今も捜索を続けているが、杳としてその行方は分からぬままだという。
「異国人を保護した一家、その一家を襲った獣、黒髪の上臈、その上臈を攫った獣。なんでしょうねえ」
 何かたっぷりと意味を含ませて、ミディールは呟く。
「ほぼ伝説の存在である黒髪の人間。そうそう、グリヴィオラ王の愛妾も黒髪だそうですね」
「その愛妾がアトールにいて、獣に攫われたって?」
「それはないでしょう。時期も合いませんし」
 ミディールは軽く肩を竦めた。
 だったら紛らわしい話し方をするなよ、と内心で突っ込みながら、ナーダもこの居心地の悪い符合の合致に考えを廻らせる。
 おそらく、一家に保護されていた異国人は、どういう経緯かはともかく珍しい容姿に目を留めた女衒に買われ、アトールに連れて行かれたのだろう。しかし、いちいち獣が関わって来るのは何故かが分からない。鋭い牙と爪を持つ大型の獣の存在は知られているが、滅多なことで人の目につく所になど現れないし、そのテリトリーを侵すようなことさえしなければ、襲うこともないはずだ。
「この辺りに泉があると聞いています。そろそろ馬を休ませましょう」
 使われなくなって久しい、朽ちた小屋を目印に、そこから小径とも呼べぬ草むらを通り抜けると、不意に岩場が現れ、白い石灰岩に囲まれた場所に、こんこんと水が湧いていた。
 荷物を降ろし、轡を外してやると、馬たちは大人しく水を飲み、草を食む。
 自分たちはその降ろした荷物の中から、携帯用の食料を取り出した。既に太陽は中天から下ろうと言うのに、朝食を食べたきりで、すっかり空腹だったのだ。
 村長から是非にと持たされた弁当を、二人の青年は広げいた。朝、焼いたばかりのパンに、厚く切ったチーズとハムが挟んであり、干した果物まで添えてある。水筒には水ではなく果実酒が満たされていた。今期の収穫の豊かさが反映されていて、至れり尽くせりである。
「そういえば、この森には魔獣が住んでいるという噂がありましたね」
 不意にミディールは、冗談めかして、そんなことを口にした。
「ああ、だから近隣の住民も不用意に森へは入らないらしいな」
「でも、誰も姿を見た者はいません。ただ、恐ろしい気配がするのだというばかりで」
「ムレットを通る街道に巣食っていた盗賊も根城を変えたという話だし、何かはいるんだろ」
「……一連に関わっている獣の正体が、それかもしれませんね」
「いずれにせよ、不確定な話だ」
 随分と適当にナーダは話を締め括った。
 滅多なことはないと知りつつも、そのあたりの茂みから、ぬっと魔獣が顔を覗かせるかもしれないという想像は、あまりに不吉だ。思わず腰の剣に目をやってしまう。これで獣に敵うという気はしないが、ないよりはマシというものだろう。
 しばらく、沈黙が落ちた。
 それは、やがて意図的に引き延ばされた。
 二人は互いに目配せを交わす。
 馬たちも気付いて入るようだが、危険は感じていないのか、落ち着いてはいる。
 隠れる場所はない。二人はそれでも気配を殺して剣の束に手を掛け、意識をその音に集中させた。
 灌木の茂みをかき分けるような音が間近にまで迫り、現れたのは、拍子抜けするほどみすぼらしい子供だった。子供というにはやや大きいが、がりがりにやせ細り、二人を目にした瞬間に身体を強張らせて、あからさまに怯える様子は、寄る辺ない子供そのものに見える。
 二人は、困惑していた。
 初めて見る黒い髪。
 たかが、髪の色と言い捨てるには、あまりに奇異だった。
 けれど、この子供がアトールから攫われた上臈だと断ずるには、あまりにも──貧弱に過ぎた。いくら花影から上がったばかりにしても、銀月楼の上臈というなら、幼さを残すにしても色香の欠片くらいあっても良さそうなものだ。
「……お前、何者だ。村の子供か」
剣に手を掛けたまま、ナーダは問うた。
「ナーダ様」
 あまりに険しい表情のナーダを宥めるように、ミディールはその名を呼んだ。
 目の前にいる子供は、逃げることも叶わないほど完全に竦み上がっている。
 ふ、っと肩の力を抜いて、ナーダはミディールの方に視線を寄越した。その意味を正確に理解して、ミディールも頷く。
「あなたを傷つけるつもりはありません」
 そう言って、ミディールは剣を下に置いた。
「話を、しましょう。ほら、お腹は空いていませんか?」
 そっと手を差し伸べてみても、子供はますます顔色を無くしてゆく。
「どうか怖がらないでください。私はミディールといいます。あなたは?」
 ミディールが、子供の方へ一歩踏み出すと、同じだけ子供は後ずさった。
 どうしたものかな。
 女子供にはすこぶる評判の良い笑みを顔に貼り付けて、ミディールはぐるぐると考えていた。
 懐柔するにしても、時間がかかるのはご免被りたい。かといって、無理矢理取っ捕まえるという方法では、後から話をするのが難しくなる。せめて、ナーダがもう少し剣呑な空気を和らげてくれれば……と振り向いたその時だった。
「ミディ、離れろっ!」
 ナーダが剣を抜いていた。
 その視線の先を辿れば、この森が魔の森と呼ばれるのも無理からぬ事だと納得せざる得ない、禍々しい獣がいた。
 白銀の毛皮を纏う獣は、見た目だけなら神々しいほどの美しさだ。
 だが、むき出された牙、力を漲らせた身体から立ち上る気も青紫の瞳も敵意に満ち、飛びかかる隙を見計らっている。
 肌が痺れるほどの張り詰めた空気の中で、低い唸り声が響いた。
 目の前のやせ細った子供が、その獣の方に走り出そうとしたのは、恐怖の余りの混乱だと、ミディールは思った。だから、とっさに駆け寄り、その腕を掴んで引き寄せようとした。
 ナーダには、禍々しい獣が二人に向かって襲い掛かろうとしているようにしか見えなかった。
 その一瞬、剣と牙が交わった。
 互いに距離を置き、対峙するその場を、耳が痛くなるほどの静寂が支配する。
 赤い滴が飛び散った事よりも、「フェン……」という小さなつぶやきで、ナーダもミディールも我に返った。
 由井は、片手で自分の顔半分を覆い、もう一方の手を、虚空に伸ばしていた。
   
2008.09.14


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