星月夜の森へ

─ 29 ─

 ──あんまり、あの子を嫌わないでやって。
 王城で見かけるときは、いつも能天気な笑顔を浮かべていて、ぴーちくぱーちくうるさいということはなかったが、風情はまさに小鳥。護られた籠の中で、それと気付かず暢気に生きているような。
 嫌うも何も、【金の小鳥】なぞ、ろくなもんじゃない。
 それは、幼少時から繰り返し祖母に聞かされた擦り込みに近い物ではあったが。
 そもそも、どうしてそんな存在が必要なのか、ラエルには分からない。賢王と讃えられることはないだろうが、父アルカスにせよ祖父オーセベルにせよ、平和な時代に堅実な治世を布いた王であるという記録くらいは残るだろう。そこに、【金の小鳥】が入る余地などない。
 けれど、それは決まり事ととして、【金の小鳥】が亡くなれば、聖宮は新たな【金の小鳥】を天から降ろすと称して、誰かしら連れて来るのだ。記録によれば、上は二十五歳くらいから下は十五歳くらいの間の女性が多い。その中でも特に陽菜子は歳若かった。
 最初の頃は、不安そうにおどおどとしていた陽菜子だが、やがて無邪気な笑顔が零れるようになり、あどけない様子と相俟って、誰もが陽菜子を可愛がるようになった。王城でも、陽菜子を見かけて笑顔を向けない者と言えば、ラエルくらいのものだろう。
 そうでもしなければ。
 いつの間にか、誰もが、【金の小鳥】は愛される為にそこにいると信じ始めている。
 もちろん、新たな【金の小鳥】が降りて来てからというもの、全てが良い方に転じた。街へ降りても、その笑顔は分け隔てなく、そして惜しみなく与え、いつの間にか、かの施療院を不思議な安らぎに満ちた場所へと変えた。
 もし、その陰で密やかに涙を零していることなど知らなければ、幸運に後押しされた道化だと、ラエルも断じてしまえたに違いない。
 いずれ即位した暁には、まず【金の小鳥】などというふざけた茶番を終わらせてやろうと思っていた。
 それは、幼い頃から自分を可愛がってくれた祖母を苦しめた、アンジェへの意趣返しでもあり、そんなものに頼らずとも国を治めてみせようという、若さ故に持てる、王となるべき者としての気概でもあった。
 そう、サリューに言われなくても、あれはまるで小鳥のような少女だと──
「王太子殿下」
 真剣な──これまでもティレンがそうでなかったことなどないのだが、何か思い詰めたような、いわゆる、仮面を被った状態のそれとは違う、真摯な面持ちで、彼女は呼びかけた。
「なんだ」
 怪訝さを隠すように不機嫌さを装って、ラエルは返した。
「まだ、【金の小鳥】は聖宮が作り上げた虚像だとお思いですか」
「その話を蒸し返すのか」
 不愉快とばかりに眉をひそめるラエルに、ティレンは反感など見せず、穏やかに言葉を継ぐ。
「グリヴィオラの王は、ヒナコ様をどうされるのでしょう?」
「最悪、戦の前線に送るだろう。兵士の士気を鼓舞するのに役立つかどうかは分からんが、ルウェルトの、というよりは、サリューに対する牽制としては充分だろう」
 それが、どうしたと言わんばかりに、ラエルはコツ、と指先で卓上を突いた。
 サリューと陽菜子が、ささやかな友誼を交わしていたなど知りはしないだろうが、もともと姻戚関係にある国であり、さらにそこから姫を娶るかもしれないのだ。敵陣の中に、その国にとって幸運の象徴、皆に愛されてやまない【金の小鳥】がいては、思い切った攻撃など出来ようはずもない。
「我が国への嫌がらせとしても、ですね」
「同感だ」
 これでは、更に重ねて姻戚関係を結ぼうと提案したカーラスティン側の裏切り以外の何ものでもない。大国の脅威に常に晒されている国同士として、状況は理解されるだろうが、それ故に、これまで友好関係を結び、共に協力して来たはずではないのかと、ルウェルト側の感情を酷く害することは必至だ。
「神官長は、【金の小鳥】は存在していれば良い、国の軋轢を生まぬ為なら、グルヴィオラに送ることも止む無しとうそぶきました。……聖宮に世界の調停者を気取る権利も力もないというのに。【地の星見】たる私がすべきことは、日々、星の動きを見つめ、【金の小鳥】を護ること。
 聖宮は、もともと【金の小鳥】を戴いて、権威を持つような機関などではないのです。【金の小鳥】は信仰などではありません。誰にも知られず、ひっそりと存在していたても構わない。でも、それでは無理矢理にこの世界に堕とされた【金の小鳥】が哀れです。この世界に確かに必要なのだと実感して、少しでも存在意義を見出すことが易いように、こうして王室と近しくしているのです」
 突然、何を話し始めたのかと、ラエルは訝しむ。
 過日の、世迷い言を繰り返すつもりなら、もう、これ以上、話し合いの場を持つのは時間の無駄でしかない。
「もし、ヒナコ様の身に何かあれば、カーラスティン国も、ひいては世界までも道連れになると思し召しください。これは脅しなどではなく、記録にも残っております。それまでもお疑いならば、もう私には説得する術はございません」
 すでに、聖宮では、ほとんどその存在意義を知るものは失われていたのだ。
 安定と平和、そして幸運と恵みを象徴する【金の小鳥】を戴いて、国を治める為に王室と並び立ち、正しき道へ導くもの。
 この件のおかげで、聖宮がそんな傲慢さに犯されていたことを、そして、膨大な資料と記録を読み解くうちに、聖宮が成立した理由を知った。本来の姿を、目的を忘れた戒めの為に、神から与えられた機会なのだ──と思い込もうとするには、状況はあまりに悪い。手詰まりなのは、ティレンとて同じだった。
 ならば、王太子をも巻き込んでしまえ。
 もし、王室を説得出来ないならば、暴挙を憂いた神が隠してしまったかのように、陽菜子を一時的にどこかへ逃がすべきかとティレンは考えていた。それは、あまりに危険な賭けにも思えて、意識の隅にずっと追いやっていたのだが。
 あれほど【金の小鳥】に対して、嫌悪にさえ似た不信を見せていながら、ルサリアことサリューが去った後、陽菜子の様子を見に来ているというだけでなく、この王太子の様子を見て、非現実的な手段ではないと確信を得つつあった。
「【金の小鳥】が不在の時代に、国が危機に陥ったなどというのは、数百年も昔の話だ。聖宮で都合良く捏造していないとは言えまい」
 この王太子はいったいどこまで頑なで疑り深いのか。
 怒りを覚えつつも、ティレンは感情を抑えて、相手の瞳に潜むものを慎重に探る。
 試しているのか。
 それとも。
「この六年の間に起きたことをお忘れですか」
 殊更、重々しくティレンは言葉を口にした。
「それは、お前たちがその期間、わざと【金の小鳥】を選定せずに利用したのではないのか」
「お疑いはもっともなことですが、アンジェ様が──」
 そこまで言って、ティレンは、はたと言葉を閉じた。
 気が焦るあまり、うっかりと失言をしたとばかりに。
 これは、何の罠だ?
 ラエルは疑う。
 彼女に先手を取られるわけにはいかない。
 アンジェが亡くなった時のことを、ラエルは記憶の底から引っ張り上げる。
 あれは、ラエルが、まだ一介の文官でしかなかったスクルド・トリンに付いて政務の基礎を学び始めた頃のことだ。そろそろ七十に手が届こうという高齢の為もあってか、風邪をこじらせて床に伏せていたアンジェが、亡くなったという知らせが入ったのは。
 これで、やっとお祖母様のお気持ちも安らかになる。
 幼心にそう思った記憶は、まだ鮮やかだ。
 普段は、優しく気品に溢れたひとであったのに、アンジェのことを話し始めると、興奮が抑えられなくなるのか、やがて全てをかなぐり捨てたように醜悪な顔で罵りの言葉を延々と吐き続ける。その様をみることは、とても悲しいことだったからだ。
 アンジェの死を知って、祖母のユフィリアがどんな表情をしたのか、ラエルは知らない。まるで狂気に取り付かれたように、ひとしきり甲高い声で笑ったあと、まるで糸の切れた人形のように倒れたというユフィリアは、その後、王の座を息子アルカスに譲ったオーセベルと共に、療養の為に離宮でしばらく過ごした後、静かに息を引き取った。
 柩に横たわるユフィリアは穏やかな顔をして、ああ、お祖母様は安らかに逝かれたのだと当時は暢気に思ったものだが、あれは死化粧師の手によるものであって、果たして本当はどんな顔をしていたかなど、分かりはしないのだということに気付き、愕然とする。
 いったい、何があった?
 心臓が割れ鐘のように激しく打っていた。
 つっと、冷たい汗が滑り落ちる。
 ゆっくりと瞬きをひとつすると、真っ直ぐ目の前にいるティレンを見据えて、
「……先代の【金の小鳥】が、先の王妃に殺されたとでもいうつもりか?」
 氷のような冷たさで、ラエルは先んじてそれを口にした。
「ご存じでしたか」
 せっかくの切り札が無駄になってしまったのを惜しむかの如く、ティレンは軽く首を竦めた。
「凶兆は、出ておりました。それを防げなかったのは、聖宮の最大の手落ちと言えましょう。故に、当時の【地の星見】たちは、自ら命を絶ちました。ですから、まだ歳若い私などが、【地の星見】の大役を仰せつかることになったのです」
 ティレンの言葉など、ラエルはろくに聞くことが出来なかった。
 頭の中で、がんがんと何かが打ち鳴らされている。それが心臓の脈動などと信じられないような激しさで。
 あの、優しかった祖母が、【金の小鳥】を殺した?
 自分で口にしておきながら、ラエルは平静を保つことが出来なくなっていた。
「この六年間の災禍を、【地の星見】の命如きで購えるものではありませんが……だからこそ、今度こそ、ヒナコ様をうしなうような愚を犯すわけにはいかないのです」
 そこまで言ってから、ティレンは初めてラエルの様子がおかしいことに気が付いた。
 まるで血の気を失って、卓上で組まれた手は、関節が真っ白になるほど強く力が込められている。確かに視線は自分の方に向けられているのに、見ているものは、過去の情景か幻か。
 まだ十七の、間もなく十八になろうという少年。
 その歳にしては体格もよく、既に堂々たる風格をも身に付け始めていて忘れてしまいがちだが、さしたる責任を負わされることもなく、もっと自分の為だけに気持ちも時間も費やしているべき歳なのだ。フレイなど、今でこそ大層な肩書きを持っているが、呆れるほど奔放に遊んでいたではないか。
 さも、そんなことを知っているとばかりの顔で言われて、ティレンは見逃してしまったが、そこには不安がたゆたっていたに違いない。なのに、切り札を持っていることを匂わせるだけのつもりが、残酷にもラエルの言葉をあっさり肯定して、無神経に話を進めようとしていたのだった。
 しくじった。
 それでもティレンは、王太子に済まないことをしたというよりも、自分が拙い手を打ってしまったことを悔いる気持ちの方が強かった。それは、これまで王太子とはそうやってでしか相対してこなかったからでもあり、現実としての余裕の無さでもある。
「……王太子」
 いったい、どうしたらいい。
 迷いながら、呼びかける。
 今、頼れる、もしくは利用出来る伝手はここにしかない。
 王が決めたことに対して、意見出来るだけの力を、ティレンの父にしろ伯父にしろ持ってはいない。
「王太子、どうか」
 でも、何を言えば良い?
 彼女が仕掛けたことは、確実に彼のやわらかな部分を踏みにじったのに。
 では、諦めるか?
 陽菜子を連れて、どこへ逃げれば良い?
 さすがにティレンも動揺して、思考は空回りするばかりで、意識は散漫に宙へ散った。
 それを引き戻したのは、青ざめたラエルの静かな声だった。
「済まない。少し、混乱している」
 そこにあるのは、初めて見る、神経質で不安定な揺らぎだった。
「真偽のほどは分からないが、要するに、天寿を全うする前に【金の小鳥】が亡くなった為に、次の【金の小鳥】が降りて来るまでに時間が掛かったというのだな?」
 その、痛ましいほどの強さはどこから来るのかと、ティレンは息を飲み、こくりと頷いた。
「もし、この若さでヒナコが死んだとしたら、次の【金の小鳥】が降りて来るまでに、相当掛かる可能性が高い、ということか」
「その通りです」
 何か考えるところがあるのか、ラエルはゆっくりと目を閉じた。顔色は薄く青ざめたまま、表情は失われているせいもあって、そういしていると、ひどく作り物めいて見えた。
 やがて、急ぐこともなく目蓋が開かれると、未だ揺らぎながらも強い光がその奥に宿っていた。
「お前たちの世迷い言を信じる気にはならないが、民を不安にさせるのは本意ではない。
 いいだろう。何かお前に考えがあるなら、協力しよう」
 それは、身が震えるような瞬間だった。
 ──彼になら。
 ティレンはおもむろに立ち上がると、優雅な所作で彼の前に膝を折った。

2008.09.12


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