星月夜の森へ

─ 28 ─

 それは、とても微かな光だった。
 闇の中に紛れるような、薄明の空の色を放つ星は、ゆるやかに真昼の明るい空色へと変化を遂げ、ようやく【地の星見】の眼に映るようになったのだった。
 天球石という名の通り、天に瞬く星々をそのまま身の内に閉じ込めたように見えるそれは、またひとつの天でもある。この石が何処からもたらされたのか、どうして聖宮の地下にある洞窟に秘されているのか、誰も知らない。ただ、この世界に起きる変化をその星の動きで示していることは確かだった。
 これまで、数百年に渡って残されている記録を、ティレンは辿る。
 あまりに膨大であること、そして、時を遡れば言語も変化し、読み解くのに時間が掛かってゆく。
 気は焦れども、その変化を見せた妖しい星が現れたという記録は見付からない。
 いったい、この聖宮にはどれほどの記録が文書として残されているのか。
 先日、【金の小鳥】にまつわる記録をあらかた浚ったばかりだ。しばらくは古文書に限らず文書の類いと顔を突き合わせるのは遠慮したいものだとしみじみ思っていたが、そうもいかない状況で、時間が僅かでも開けば書庫に籠り、延々と文字を追っていた。
 陽菜子がグリヴィオラへ送られることを知らされたのは、そんな最中のことだった。
 ここしばらく、王からの呼び出しが無いことがふと気になったその矢先、酷く素っ気ない文書が届き、グリヴィオラへ向かう仕度をするようにという指示がなされていたのだった。
 当然、神官長を通じて抗議をしてもらおうとした。
 が、意外にもそれを封じたのは神官長だった。何も命を取ると言うわけではなし、【金の小鳥】は存在さえしていれば良い。今は国同士に軋轢を生じさせないことの方が肝要だと。
 いったいいつから世界の調停者になったつもりかとティレンは怒鳴りたい気持ちを抑えて、その場を辞した。そんなことに無駄な時間を割いている余裕などない。なんとか陽菜子をグリヴィオラへと送らずに済む手だてを考えねばならなかったのだ。無理ならば、自分が共に行かねばなるまい。不用意に陽菜子を外の世界に出すということは、居るかもしれない【闇月】との接触の可能性が高まってしまうことも意味する。
 ティレンは、最近、王との謁見前に陽菜子のいる控えの間に、度々王太子が訪れていることを思い出した。陽菜子に対して、敵意と呼べるほど強いものではなくとも、さほど良い感情を抱いているようには見えないが、縋れる藁には違いない。
 一介の【星見】が王太子と会うのは難しい。
 王からの呼び出しなど期待出来ないし、神官長を通じて、面会の請願することは出来ないだろう。それなりに顔の聞く幼馴染みは、まだ王都に戻って来ていなかった。父親は。その力を借りることはあまり気は進まなかったが、背に腹は代えられない。覚悟を決めて、その仕度を整えているティレンのもとに訪れたのは、王太子からの使者だった。
 ティレンが思ったのは、渡りに舟、ではなく、先手を打たれた、である。

 出来れば、今すぐにお越し頂きたいという使者の言葉に従って、ティレンが連れて行かれたのは王城から馬車ですぐの離宮だった。華美ではないが品の良い調度が設えられた一室へ慇懃に案内され、賓客をもてなすが如くに香りからして逸品だと分かるお茶が振る舞われた。
 が。
 がしゃんと、派手な音を立てて、卓の上から茶器が薙ぎ払われた。名工の手による薄手の陶器に見事な絵付けが施されたそれらは、無惨にも床の上で破片と成り果てた。
 無言のまま、ティレンは目の前にいるのがカーラスティン国王子だとしっかり認識した上で、激昂を示したのだ。
「怒りは、ごもっともだ。私も、大変遺憾に思っている」
 が、周りの者たちの動揺など、まるで気付かぬかのように、ラエルは静かに言った。
 一見、ティレンは感情のままに怒り狂っているようだが、ラエルもまた同類であり、彼女が冷静なのは、分かっていた。
 警護の為に控えていた近衛兵のひとりなどは、すでに剣の束に手を掛け、その許しさえあれば、とんでもない無礼を働いたこの者を切って捨てようという意志が、ありありと見えている。それを手首を動かすだけの僅かな動きで制して、砕けた陶器の欠片を片付けるよう、目線だけで指示を下した。
「……もう少し、王には【金の小鳥】を大切にしていただいているものと思っておりました」
 つ、と目を細めてティレンは言った。
「同意見だ」
 その声は苦々しさに満ちており、ラエルも自分と同じく、陽菜子に対する処遇に関して、酷く憤っていることを知って、ティレンの硬い表情に僅かな隙が生まれた。すかさず、
「だが、他国から【金の小鳥】などに、価値など勝手に見出されるのは勘弁してもらいたいものだ。あんな貧相な小娘ひとりに、国家の存亡を賭けるなど、ばかげている」
 と、辛辣な言葉が放られた。
「そんなことをおっしゃる為に、わざわざ?」
 まさか、こんな茶番をする為とは思わないが、わざと険のある口調でティレンは問う。
「いや、済まない。そんな話をするような時間などなかったな」
 謝罪の言葉をさらりと口にして、ラエルは侍女や近衛たちに退室するよう軽く手を振った。
 向かい合ったまま、しばらく無言が続いた後、先にラエルの方が口火を切った。
「正直、どうしていいか分からない。大臣どもが言い出したことなら、止められもできようが、王が自ら、【金の小鳥】を差し出せば良いと口になされたのでは、な」
 まだ二十歳にもならぬ、少年期の終わりに未だいるとは思えない苦渋に満ちたものが、声音にも表情にも滲んでいた。
「意外か?」
 片頬歪めて、ラエルは笑む。
 実のところ、王が先んじてそんなことを言ったとは、ティレンは思っていなかったのだ。大臣たちに説き伏せられての決断ならば、それを覆すことは可能なのではないかと、僅かに持っていた望みは、あっさりと断ち切られて、返す言葉も無く、ただラエルを見つめ返した。
「正直、俺も驚いた。自分が口にせねばならないと思っていたことを、あっさりと言うんだからな」
 ぽんと、無造作に放るようにラエルは王太子の仮面を外す。ついでのように、ぴんと伸ばされていた背筋も、やや草臥れたように椅子の背に預けられた。
 単に同類を相手に面倒くさくなったのかも知れない。
「聖宮でウェラーサの染料を都合することは?」
「残念ながら。不作続きで、今年は種を採ることを優先させましたし。来年であれば、千反分要求されても対応出来たでしょうが……市場に出ているものをかき集めればあるかもしれませんが」
「異常に高騰している今、それだけを買い上げる金がない。無理矢理商人どもに上納させたら、後が恐ろしいしな。穀物の収穫も、例年通りに回復はしているが、まだどの地域にも余裕はない。要求された食料を提供したら、飢えるものも出て来るだろう。正直、手詰まりだ」
「ほとんど、グリヴィオラの嫌がらせですね。だいたい、ルウェルトにグリヴィオラに対する挙兵の兆しというのも怪しい話です」
「いや、それが、そうでもないんだ。ルウェルト皇室が揉めていたのは知っているだろう?」
 ラエルは苛立たしさを抑えるかのように、テーブルの上で組んだ両手に力を込める。
「けれど、皇王が亡くなる前に第三皇子マナークが皇位を譲ると決められたのだとか」
「ああ。だが、未だもって、即位の儀が行なわれていない」
「喪に服しているだけでは?」
「いや、その期間はもう過ぎている。それに、即位の触れも出ていないのは、どう考えてもおかしい」
「何があったのでしょう?」
「……サリューが、謀反を起こしたらしい」
「あの第二皇子が?」
 陽菜子と、よく言葉を交わしていたという皇子。のほほんとした風情は、とても命を狙われて逃げて来たとは思えなかったし、よくもまあ、あんな悪し様な噂を立てられて飄々としていられたものだとティレンは思う。それでも、陽菜子からルサリアと言う名で楽しげに語られた者がサリューだと知れば、陽菜子を悲しませない為にも、無事であって欲しいと願わずにはいられない。
「状況は、よく分からない。サリューは皇位継承権を放棄すると言っていた。それが、何故こんなことになっているんだか」
「それは何処からもたらされた情報ですか?」
「グリヴィオラだ。サリューが謀反を起こし、あまつさえグリヴィオラに刃を向けんとしている、のだそうだ。だが、ルウェルトで戦の準備が始まっている気配はあるんだ」
 国家として組織している諜報員以外にも、ラエル自身が独自に持っている情報網も同じ事を伝えて来ていた。
「ルウェルトにグリヴィオラに対抗するだけの国力などないことは、分かっておいでのはず。そんなことをする理由が分かりません。よしんばグリヴィオラに挑発されたのだとしても、王太子のご友人ともあろう人が、愚かな選択をするとも思えません」
 微妙に褒め言葉が入っていたことに、一瞬ラエルは眼を眇めて、深々と同意の溜め息を吐いた。
 命からがら逃げて来て、それなりの修羅場を潜っているにも関わらず、本質的にはのほほんな友人。
 だが日和見主義かといえば、そのあたりはラエルと変わらぬ厳しい判断を下す胆力が備わっているのは、短い付き合いの中でも十分に知れていた。いざとなれば、プライドなど捨て去って命乞いをすることさえ厭わないだろう。
 それが、何故グリヴィオラに刃を向けるのか?
 それは、偽情報ではないのか?
 だとしたら、グリヴィオラは何故そんなことをする?
 宰相、大臣の他、有識者と思われる者は地位に関わらず招集し、意見を求めたが、いくら推測の域を出ないにしても、頼りないものばかりで逆に閉口させられることになってしまった。
「亡きルウェルト皇王が、次期皇王に第三皇子を選定したことに、関わりがあるのでしょうか」
 ふと、ティレンは呟く。
「順当に選ぶならば、第一皇子であるはず。よほど有力な後押しがあったからこそ、第三皇子が選ばれたのでしょう。それが、例えば、グリヴィオラの王室に縁の姫を娶ることになったとかであれば……」
「いや、そんな動きは掴めていない。それに、今はグリヴィオラ王が正室を娶ることの方が先決だろう」
 自ら旅先から連れ帰った妾妃を寵愛するばかりで、周囲に気を揉ませているという噂は、近隣の弱小国を浮き足出させている。もしその国の姫を正妃として向かえてもらえるならば、当分は他国の脅威に怯える必要がなくなるからだ。
「フレイが……ヴァナルガンド騎士団第二大隊長副官のフレイ・ルトゥールが、グリヴィオラに派遣されているようですが」
 不意に、何故だか複雑な顔をして、ティレンが言った。
 いったいどこからそんなことを聞き込んだのかと突っ込もうとして、聖宮で一介の【星見】に納まっているティレンが、実は大臣の娘であり、自分の師でもある宰相補佐スクルド・トリンの姪であることを思い出した。フレイ・ルトゥールとは幼馴染みのはずであることも。
「スクルドが、どこからかグリヴィオラにおかしな動きがあると聞き込んで来たからな。彼の情報網は侮れない」
 その一部が、どうやらアトールにあるらしいことは、ティレンも気付いていた。が、その壁は厚く、未だもってヴィリスの顔を見ることすら叶わないのは、ささやかな屈辱だ。
「どこかで繋がるかもしれないな」
「かも知れませんね」
 そして、益々二人の溜め息は深くなる。
 結局の所、陽菜子をグリヴィオラに差し出さずに済むだけの材料など、どこにもないことしか確認出来なかったのだから。
 でも、なぜ自分と同じ溜め息を、王太子が吐くのだろう?
 そんなことをティレンが不思議に思ったことを、ラエルは気付くだけの余裕を持ち合わせていなかった。

2008.09.07


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