星月夜の森へ

─ 27 ─

 ツェミレ河の水は、相変わらず冷たい。
 それでも、その川辺では春の女神の足跡から芽吹くと言われているペルファーラが、蕾を付け始めていた。あと半月もすれば、透き通るような黄色の花がつつましく開く。その後には、王都のそこかしこを、そしてツェミレ河の堤を薄紅色に彩るシェリフロルの花が咲き乱れることだろう。
 上臈に上がった早々に身請けが決まり、あとはその日を待つばかりのリシェは、もう客を取ることもなく、のんびりと過ごしていた。銀月楼での日々を名残惜しむように、ファーランの側で身の回りの世話をしたり、年少の花影や禿に、服や髪飾りを片身分けしたり。
 どうせ、しきたりとして、上臈として身に付けていた物を持って、ここを出て行くことは出来ないのだ。もちろん古着屋に売り払って、その先にある俗世の暮らしの糧にする者も多い。が、幸いというべきか、リシェを身請けした大尽は、そんな吝嗇な性分ではなく、それどころか更に箔を付けさせようと、さらに着物や飾りを贈っていた。待つばかりの日々に、必要がないそれらは、袖を通すこと無く、リシェの手から年少の者たちの手へ渡されていった。
 もう次の春には、ここに立つことは無いのだ。
 そう思うと、この人の命を奪うこともある冷たい流れすら愛おしいような気がする。
 そう感じられるのは、自分は苦界に落とされて尚、幸福だったのだと思う。
 心残りは、未だ見付からぬユゥイのことだ。
 あの日、リシェは見ていないが、聞いた話では、それは恐ろしい獣に攫われたのだという。同時に高価な宝石の原石を持ち込んだ銀髪の男が消えた。
 誰かが世にも珍しい黒髪と身体を持ったユゥイを狙って、手懐けた獣に攫わせたのだとタランダは憤り、灯衛を勤める楼閣に怒鳴り込むと、ユゥイのことをぺらぺら喋るような軽い口を持つ恥知らずを探し出せと騒ぐ始末だった。一方、アーウェルの方が冷静で、直ぐに銀月楼の上客に使いを出し、使えるありとあらゆるコネを使って、夜が明ける頃には、歳若い上臈に対する扱いとは思えぬ、大掛かりな捜索の準備が始まっていた。
 あとは、トラトスと連絡がつけば良かったのだが、彼は行き先も告げずにアトールを発ってしまっていた。
 トラトスが、辺境の、とある村の出身であるということは、銀月楼でも掴んでいた。ただ、身上をまるで語らぬ彼のこと、下手にそこへ使いなど出して、気を損ねることになれば、二度と銀月楼に珠玉をもたらさぬかも知れない。数日の逡巡の後、思い切って使いを出してみたものの、故郷に立寄りはしたらしいが、とうに旅立った後だった。
 持てる財産の半分を購って得た花影が攫われたというのに、ヴィリスは泰然自若に構えていた。それが、リシェにはよく分からない。決してユゥイを甘やかしてはいなかった。それでも他の少女たちと違って、彼女の癇癪を受け流しやり過ごし、なんだかんだとヴィリスと上手くやっていたし、ヴィリスも傍目には分かりにくくとも、事細かに気を配ってはいたのだ。
 なのに。
 もちろん、手を出す余地もないくらい、トラトスはあらゆる手を打っており、 今更、ヴィリスがすべきことなどないのかも知れないが、あまりに彼女にしては静かすぎた。それをファーランに訴えてみても、彼女もまた複雑な顔をして、ヴィリスにはヴィリスの考えがあるのよと、リシェを諭すばかりだった。
 そして。
 憂いも、背に負った負債も哀しみも、全てここで昇華して、あの橋を渡りなさい。
 新しい世界へ、生まれ変わるのよ。
 ここは、夢みるための子宮でもあるのだから。
 ファーランはまるで母親のように微笑み、優しくリシェを抱きしめた。真実、彼女は新たな世界へリシェを産み落とす母であるのかもしれない。
 春の女神の祝福、シェリフロルの花に見送られて、リシェはここを出て行く。  彼女は、その日までにユゥイの消息が分かることを、切に祈っていた。
 そして、それは叶うことになる。
 あまりに彼女の望みとは異なる形で。

◇ ◆ ◇

 カーラスティン王自らがしたためた弔文を携えて旅立った使者が、ルウェルトより戻ってひと月余り、新皇王即位の儀は、未だもってなされていなかった。

 サリューが帰国してから程なく、ルウェルト王は逝去した。
 一時は持ち直したらしいという報もあったのだが、次皇王を第三側室の子マナークに決めたことで遂に気力も絶えたようだ。年長と言うこともあり、第一側室と、その子キノアが、よく黙っていたものだとラエルなどは怪訝に思っていたが、ある程度,丸く納まるだろうという予測はしていた。
「皇位継承権を,放棄しようと思っているんだ」
 帰国の途に付く前の晩、やけにすっきりした表情で、サリューはラエルに告げていた。
「母を説得することは難しいと思う。何しろ、側室としてのプライドが掛かっているし、外野がうるさいし。でも……知ってるんだ。父が、本当はマナークに皇位を継がせたがっていることを」
「マナークって、一番年下じゃないか、確か。順当に決めるなら、キノア皇子だろう」
「まあね、彼が一番年上だし」
 といっても、実はこの母の違う三兄弟はそれぞれに半年ほどしか違わないのだが。
「余計な波風を立てない為に、王も簡単にそれを口に出来ない、で、いつまでも決まらないままでずるずると時間が経ったわけか」
「そうだね。でも、第一、第二側室が、強引に宛てがわれたに近いことに比べると、第三側室のシスリー殿は、父が望んで迎えたひとなんだ」
 それは、おしゃべり雀な侍女たちや,口さがない者たちからの伝聞で知ったことだが、ふと垣間見た、シスリーと皇王ヒューベリが寄り添っている姿を見て、それが真実であることをサリューは認めていた。どれほど機嫌が良かったとしても、ヒューベリはラエルの母エラーラにそんなやわらかな表情など見せない。おそらくは第一側室のリリアにも。
「だから、正妃エイリィ様は、マナークを次期皇王に選定することに反対してらっしゃったんだと思う」
 子を生すことが出来ず、自ら側室を娶ることを皇王に勧めたという正妃もまた、そのには深く沈んだ感情を、ぬめぬめと横たわらせていたようだ。
「無駄に皇位継承で争いを呼ばない為にも、リリア殿が孕んだ段階で、側室を増やす必要などなかったのに、有力貴族の思惑が絡んで,こんなことになっちゃってるんだよね……」
 随分と殺伐とした話の割には、淡々と穏やかで,まるで他人事のようにサリューは語った。
「こんなことにね、ラウィニアを巻き込みたくないよ。君の妹君なら、あの中でも強く賢く渡り合って行けると思うけど」
「おい、せっかくお膳立てした話を」
「だから、この話は、懐剣代わりに使わせていただく。カーラスティンの名は,おそらく僕の身を守る強力な盾になってくれる。大丈夫だ」
 そういって微笑むサリューには、最早、この国へやつれ果てた姿で逃げ延びて来たときの弱々しさなど,欠片も見付けることなど出来なかった。全てを語らずとも、固い決意を秘めた彼には、しなやかな力強さが備わっていたのだった。

 にもかかわらず、ベルファーラの花が咲き始め、春の足音を聞く頃に流れて来た風聞は、サリューが謀反を起こしたというものであり、それは隣国グリヴィオラから,確かなものとして齎された。
「戦、だと?」
 グリヴィオラからの書簡を読んだラエルの手は,酷く震えていた。
 会議の円卓上も、不吉なほどに静まり返っている。
 ここ数年の不作によって、グリヴィオラから穀物などの支援を確かに受けていた。早い話が、その恩を返せというのが、その書簡の内容だった。
 ルウェルトに,グリヴィオラの対する挙兵の兆しがあり、それに対抗する準備として、支援していた相当分の食料、もしくはウェラーサの染料百反分を提供されることを、手を取り合う国同士として、切に願う。
 要請の形をとりながら、それは明らかな恫喝だった。
 グリヴィオラは、気候の良さも手伝って、豊かな大国だ。その気になれば,近隣諸国を力でねじ伏せ併合することはさほど難しいことではない。ルウェルト共々、カーラスティンをも飲み込むぞと言外に告げていた。
「……食料はともかく、ウェラーサの染料百反分なら、なんとか……」
 大臣のひとりがおずおずと口にしたが、
「無理です。今年の収穫量はその十分の一にもなりません。市場に出ているものをかき集めても、それだけ手に入るかどうか。それに、それだけを賄うだけの財が、今、国にはありません」
 別の大臣が苦々しく告げ、一斉に溜め息が漏れた。
 無論、国の危機となれば、商人たちに無償でそれらを差し出させることは可能かも知れない。が、後々それは禍根になろうし、政に対して発言する隙を与えかねない。
「ならば、【金の小鳥】を差し出せばよかろう」
 あっさりと、王はそれを口にした。
 ここ数年の、貴国の状況を鑑みて、世にも珍しい【金の小鳥】を貸していただくのでもよい。きっと兵の士気を高めてくれるであろう。【金の小鳥】の安全は確かにお約束する──そんな一文が、書簡には添えられていたのだ。
 ざわり、と大臣たちの間にどよめきが広がったが、誰からも反対する言葉は出てこない。彼らにとって、聖宮、そして【金の小鳥】は侵すべからざるものではあるが、所詮、人民の心を掌握するのに必要なものでしかなかった。
「王、それは……」 
 宰相は背中に冷たい汗を感じながら、その言葉を覆すことを促す。
 しかし、更に王が継いだ言葉は、
「国に安寧を齎すのが【金の小鳥】の役目。それを果たしてもらおう」
 施政者としての冷徹なものだった。

2008.09.05


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