星月夜の森へ

─ 26 ─

 暖炉の火は落とされていたものの、まだ部屋は温かかった。
 ティレンはそっと安堵の溜め息を吐く。
 最近は、眠りながら泣くこともほとんど無くなった。それでも眉間に皺を寄せている時がしばしばあり、しばらく様子を見ていると寝言で「王太子のばかたれ」などと口走っているのは、聞かなかったことにしている。なんにせよ、カーラスティンの言葉で寝言を言っているのは、陽菜子がこの世界に馴染んだ証拠で、喜ばしいことなのだ。
 部屋を出ようとして、床に紙が一枚落ちていることに気付いた。場所からすると、机の上から何かの拍子に落ちてしまったのだろう。拾い上げて、ティレンは目を見張った。
 手燭を机に置いて、改めてじっと眺める。
 それは、伸びやかな線で描かれたソナの寝顔だった。
 ちょっと上を向いた鼻、ぷっくりとした唇。
 彼女の特徴がよく捉えられていた。
 申し訳ないと思いながら、散らかった机の上を探ると、部屋に飾られている花や、窓から見える風景の素描が何枚か見付かった。
 これまで、いろんな話をしてきたが、絵を描くことが好きだなどと聞いたことがない。陽菜子がいた世界には、機械仕掛けの箱を使ってゲームをしたり、世界中の情報を集められるのだとか、演劇や音楽を家にいながら楽しめるのだとか、印刷物も紙も安価で、本が子供の小遣いで手に入るのだとか、このカーラスティンと同じような楽器も多数存在するのだとか、そんな話はしていたのに。
 理解し得ないものは多いが、随分と進んだ文化を持ち、便利な生活をしていた世界から引き離してしまったことだけは、よく分かる。
 カーラスティンには、王城でさえ、捻ればお湯の出る蛇口などない。
 それでも、陽菜子が生活面に置いて、なにか不服を口にしたことはない。気持ちがよいくらいに、いつも「ありがとう」と言うのだ。
 もう、大丈夫だろうかと思い始めてはいたが、こうして、陽菜子の知らぬ一面に触れる度、もし、帰れるのだとしたら、元々暮らしていた世界へ帰ってしまうに違いないと、不安が込み上げる。
 古い文献を辿るうち、かつて【金の小鳥】が二人、一緒に降り立ったという記録が行き当たった。特に国が栄えたわけでもなく、衰退したわけでもないらしいが、ひとりは若くして病で亡くなったという。もしかすると、片方は【金の小鳥】ではなく【闇月】で、実は殺されたかも知れない。
 でも、それは妄想に近い想像だ。
 フレイの指摘するように、不確かなものに振り回されていては、正しいものなど見えてこない。
 それでも。
 陽菜子を、【金の小鳥】を失う可能性が僅かでもあるなら、排除すべきだと彼女は考える。
 失ってからでは遅いのだ。
 かつて、九年間【金の小鳥】が不在だった時代、農作物の備蓄は尽き、ルウェルトやグリヴィオラでも害虫の大量発生よって、穀物が壊滅状態に陥り、カーラスティンを支援するどころではななっていた。後一年、【金の小鳥】の降臨が遅かったら……という危惧は、その後、本当に訪れることになる。十三年間の不在の時代には、続く天災と冷夏、飢饉に流行病が重なり人口は半減したと記録は語る。
 それは、数百年も前のことで、既に伝説のように思われていても、事実だ。聖宮がわざわざそんな虚偽を記録として残しておく理由はない。【金の小鳥】信仰によって、支えられているわけではないからだ。形として、王から神職を任されていることになっているが、周囲に思われているほどの寄進を王族から受けているでもなし、貴族からもしかりである。経済的には、聖宮領で栽培されているもので、聖宮にまつわる支出は全て賄えているし、税まできちんと収めている。
 くすみのない深い青の染料が採れる花ウェラーサは、聖宮領以外の土地では咲かない上に、その花から色を取り出す技術は聖宮にしかない。故にその染料は、非常な高値で取引されている。しかも、【金の小鳥】に影響を強く受けるのか、ここ数年の収穫量は例年の三分の一もなかった。今年は順調に生育したものの、昨年、種を収穫もままならず、作付けが少なかったこともあって、出荷出来た染料は、ほんの十反分程度だった。
 市場では、信じられない高値を付けているようだが、例年とさほど変わらない値で卸している聖宮には大した意味はない。
 少しは欲を出すべきか。
 いや、それでは聖宮を堕落させる要素を増やすだけか。
 そんなことまでつらづらと考えながら帰宅すると、ちゃっかりフレイが居間のソファに陣取っていた。今では団の宿舎は暖房が利かないとか、ここの客間のベッドの方が寝心地がいいとか、訳の分からないことを言って泊まって行くことすらある。
 このこじんまりした屋敷の一切を取り仕切っているのは、ティレンが幼い頃から実家の方に勤めていた古参の侍女だ。特に指示しなくても、ティレンにとって住み心地の良い環境を整える彼女は、万事得たりと時々余計なこともする。その最たるものが、このフレイを、ティレンの留守中にでも屋敷内に上げてしまうことだろう。どうやら、多大なる誤解があるようだが、それをわざわざ解く労を、ティレンは厭っていた。
 いくらヴァナルガンド騎士団の双璧と呼ばれる片割れでも、享楽的なことでも巷で知られているような男を追い払うならいざ知らず、この屋敷の主人の恥になると思わないのか。
 そんなことを問うてみても、無駄なことは分かっている。彼女は幼き日のフレイを知っていて、未だにその頃の印象のままで見ているに違いないのだ。
 どうして、こんなろくでもない幼馴染みの為に、頭を悩ませねばならないのだろう。
 憤然とした気持ちで、何やら書類と思しきものを捲っていたフレイを見ていると、
「おぅ、おかえり」
 気付いて即座に言うのではなく、ティレンが帰って来たことに気付いていながら、余裕をぶちかまして間をおくあたりが憎たらしさの極地だ。
「いつからあなたはこの屋敷の住人になったんですか」
 それでもティレンは殊更に感情を抑え、ひやりとした口調であしらう。そんなことに頓着するような幼馴染みでないことは先刻承知だ。
「【星見】として、何か気付いたことはないか」
 何の緊張感もなく口にされた言葉に、ティレンは眉を顰めた。
「いきなり何ですか」
「何もないならいいんだ」
 何気なさを装うその声に、微かな緊張が混じっていた。
「幸いにも、特には」
「そうか」
 いったい何なのか、さっぱり分からず、自然、ティレンの声も尖る。
「それだけなら、さっさと宿舎に帰ったらいかがです」
 ふう、と息を吐くと、フレイは何やら真面目くさった面持ちで、ティレンをじっと見据えた。普段が普段だけに、そういう顔を向けられると、ティレンとしては居心地悪いことこの上ない。
「……用があるならさっさと言ってください。私はもう、休みたいんです」
 何故か、その場から逃げ出したいような気分になっていた。
「一応、挨拶しとこうかな、と思ってさ」
「挨拶?」
「しばらく王都を離れることになったから」
「そうですか」
 ティレンの表情も口調も、それが何だと言わんばかりのそっけなさではあったが、ヴァナルガンド騎士団第二大隊長副官という肩書きを持つ彼が、任務で王都を離れるというのは、穏やかならぬ話で、胸の内に冷たく重いものが生まれていた。
 【天の星見】たちから何か問題があるような話は聞いていない。【地の星見】が司る天球石の内を廻る星の動きにも不審な点はない。いくら【金の小鳥】の降臨したからといって、気を抜いてなどいないと言い切る自信もある。
 ……何が起きている?
「じゃあ、帰るわ」
 のっそりと、そう、彼にしては珍しく鈍重ささえ感じさせる動きで立ち上がって、挨拶代わりにか、片手を軽く上げた背中に、
「どちらへ行かれるんですか」
 ティレンは問いかけた。
 立ち止まり、しばらく逡巡するように俯いていた彼は、やがて、諦めたような溜め息とともに天井に顔を向けた。
「ハーン様からの命令なんだけど、元はトリン様から出たことらしい」
「叔父上から?」
 宰相ルース・ハーンからの命令となれば、国政に関わる重大な事項であることは間違いないが、それが宰相補佐でティレンの叔父でもあるスクルド・トリンからとはどういうことなのか。そして、先日顔を合わせた時には、欠片もそんな話はなかったのだ。
「……もしかして、ルウェルトへ?」
 最近になって、ルウェルトの皇子がカーラスティンに遊学に来ていたこと、そして王女ラウィニアとの婚約話が進んでいるということをティレンも知ったばかりだ。ルウェルト皇王の体調が優れず、皇位継承問題で揺れていることは掴んでいたが、まさかカーラスティンまで巻き込んでいることに気付かなかった己の不明を恥じた記憶も新しい。
「いや、グリヴィオラだ」
「何故?」
 焦っているようなティレンの声に、ようやくフレイは振り返った。
「まあ、それは任務上の秘密というやつだな」
 彼には似合わない力の無い笑みがそこにあって、ティレンは何故か感情を揺らされて、
「なあ、知ってるか?」
 という問いに、意識的に、らしい口調で返した。
「まどろっこしいので、いいかげん目的語を倒置するのをやめていただけませんか」
 ティレンにもいつもの調子が戻って来たのを認めて、フレイにも不敵で人を食ったような表情が復活させた。
「トリン殿が時々アトールに足を運ばれることを、知っているか?」
「……伯父上は、まだ独り身でいらっしゃいますし……」
 先進的な文化の発信地でもある、ということは分かっていても、やはり遊郭に叔父が足を踏み入れているというのを受け入れるには抵抗があって、なんとなく言葉を濁した。案の定、面白がるような視線を寄越されて、ふいと横を向く。
 何も、それをふしだらだとか思うほど初心な小娘などではないが、そんな話をいきなりされれば、戸惑っても仕方ないではないか。色事に長けた遊び人の太い神経と一緒にしないで欲しいものだ。
 若干、話の方向がずれていることに気付かず、ティレンは内心でフレイを罵った。
「銀月楼だそうだぞ。しかも、なんとあのヴィリス・シュティークの上客だそうだ」
 心臓を掴み上げられたような驚きに、ティレンは弾かれたようにフレイの方に向き直った。
「……あなたは! どれっだけ隠し球を後出しすれば気が済むんですか!」
 ヴィリス・シュティーク。アトール随一の傾城。
 ティレンにとっては、ただその記号を持つ存在というだけでは済まない。
 聖宮からの要請を、いとも簡単に鼻先であしらった、張本人だ。
 黒髪の魔除けを持つという傾城と、聖宮からの使者を会わせることさえ許さず、すぐ後に起きた花影の──正確には上臈に上がったばかりで既に花影ではなかったのだが──誘拐に際しても、使える手札を使い倒して、街道に検問まで置かせたくせに、肝心の情報は寄越そうとしない。
 攫われたのが黒髪の少女だと聞いて、腑が煮えくり返る思いは、今も冷めていなかった。
 出来ることなら、あの街を焼き払って、不遜な上臈を引き摺り出したいくらいだ。
 もしそれで解決するなら、そうしていたかも知れない。
「そんなにおっかない顔するなよ。夢に見そうだ」
「誰がそんな顔をさせてるんですか!」
「俺だな」
 あっさりと応えられて、返す言葉などあろうはずも無く、ティレンは絶句した。
 満足げにフレイは笑う。
「まあ、春までは大した動きはないだろうし、俺も王都に戻って来るまでの、いい暇つぶしのネタだろう?」
 いつもと変わらぬ憎たらしい言葉を置いて、今度こそフレイは帰って行った。
 その時、自分がどんな顔をしていたかなど、ティレンは覚えていない。

 その後、ティレンが天球石に妖しい星の出現を見出したのは、カーラスティンの北方、サルーファとの国境にそびえるクレイアナ山脈を水源とするツェミレ河の氷が溶け始める頃だった。

2008.08.31


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