星月夜の森へ

─ 25 ─

 ──なんとまあ、頼りなげな【金の小鳥】だ。
 というのが、六年の間をおいて、ようやく降りて来た【金の小鳥】たる陽菜子に対する、聖宮勤めの者たちの印象だった。先の【金の小鳥】アンジェが亡くなったのは七十歳を超えており、彼らが知る【金の小鳥】というものは、女性としてのたおやかさと共に、聖母のような懐の深さと大らかさ、そして揺るぎなさというものを兼ね備えた者であったのだ。
 彼女と陽菜子を比べるのは、あまりに酷というもので、生まれ育ちからしてまるで異なるものだった。
 アンジェが【金の小鳥】として降り立ったのは、その先代が亡くなった約三ヶ月後のことだった。独立を求める革命の最中、現政府を支援する大国が派遣した軍の急襲から逃げている時に、この世界に堕ちたのだという。
 玲瓏とした美貌とアイスブルーの瞳が相俟って、酷く冷たい印象を周囲に抱かせたのは、修羅の中をかいくぐってきた生い立ちにあったかもしれないし、二十三という歳にしても、彼女は自身に起きた異常な事態を冷静に受け止め、【金の小鳥】としての役割を淡々と受け入れた姿からかもしれない。
 いずれにせよ最初の数年は、必ずしもその存在を必要とされながら疎まれるという状況であったことを知る者は、今の聖宮にはほとんどいない。正確に言うならば、【金の小鳥】という役割を容易く受け入れたというのに、頑なに周囲と馴れ合おうとしない彼女と、どう接して良いか分からない為に、隔てを置いていたというべきなのだが。
 後々、前王オーセベルとアンジェの仲睦まじさばかりが語られることになるが、最初からそんな甘やかな関係であったのかといえば、そうではない。
 若くして王位を継ぎ、隣国から王の従妹に当たるユフィリアを娶ったオーセベルは、即位直後から始まった、北方にあるサルーファ国との度重なる国境での小競り合いに頭を悩ませていて、非常に殺伐とした風情を漂わせていた。さすがに、彼女の前では優しく細やかな情を見せていたが、そのあたりは、息子の現王アルカスよりも、孫のラエルの方が色濃く受け継いでいる。
 王を前にして、不遜なほどにおもてを上げ、真っ直ぐな視線を向け機嫌を取るような媚びた笑みなど一切浮かべることも無いアンジェから、その翼を奪ってやろうと思ったのは、半ば八つ当たりに近い憂さ晴らしだっただろう。小鳥というよりは、細くしなやかな首と足に大きく力強い翼を持つ渡り鳥に例える方が遥かに相応しい姿に、嫉妬心さえ覚えて。
 もとより、【金の小鳥】が王の愛妾になることは、先代もそうであったように、当たり前のこととしてとらえられていたし、中には正妃となる者も少なからずいた。頑なアンジェも、あの王の押しの強さに負けて、情に絆されたのだろうと、聖宮も暢気に思ったくらいだ。
 周囲は何も知らぬまま、アンジェは与えられた役割をこなし、王もまた何も語らなかった。いったい彼らの間で何があったのかは定かではない。
 ただ、徐々にオーセベルがユフィリアと距離を置くようになったのは確かだった。
 サルーファとの小競り合いも終結し、オーセベルの治世も盤石なものになりつつある中で、何をどう誤解したのか、ユフィリアは【金の小鳥】を酷く憎むようになった。挙げ句、会う度に覚えの無い恨み辛みをぶつけられれば、王の足も自然と遠のくというものである。
 もともと医者の娘だったアンジェは、作られたばかりの王立の施療院に積極的に赴いて、その知識を存分に生かした。民草の中で粗末な衣服を纏い働く姿は、さらに王妃にあらぬ誤解と妄想を育ませ、彼女らの間には埋まることのない溝が、黒々と口を開けることになる。
 変化はあまりに緩やかで、いつからアンジェが王を受け入れ、また王もアンジェを受け入れたのかは分からない。この世界に降り立って数年の後には、彼女の顔にも笑みが零れるようになり、その頃には聖宮でも、かつての氷の如き冷ややかな印象は、憧憬の対象故として受け止められるようになった。
 そうして決して気安さはないけれど、誰にも等しく情を注ぐ聖母として、やがては、いつでも受け入れてくれる優しい祖母のような存在へと変化を遂げていったのである。
 そこに、ぴよぴよと鳴かないのが不思議なくらいの雛が、ぽてんと落ちて来たのでは、彼らは戸惑うのは無理も無かった。おどおどした様子や家に帰りたいと泣く姿は、あまりに頼りなく、腫れ物に触るように、彼らもまたびくびくとしていた。
 でも、まるで雛のような覚束なさが、彼らの庇護欲をかき立て、互いに歩み寄るよすがとなったのかも知れない。
 この世界のことなど何も知らず、頼るものもなく、ティレンの後ろに必死で付いていく姿は、鳥の雛そのもので、ついつい、何か困って入れば手を貸し、喜びそうなものを見れば手に入れて渡してやりたくなる。その度に、蕩けるような笑みを惜しみなく与えてくれることに、アンジェとは違うが、陽菜子もまた【金の小鳥】なのだと認めるようになり、気付けば、庇護など必要なくなり、市井の者たちからもこよなく慕われ愛される、立派な【金の小鳥】になりつつあった。
 今では、大切な宝のような存在となった陽菜子が、表情を曇らせていれば、彼らが騒ぐのも無理からぬことで。
 それが、王城から帰って来ると決まって、そうなるとなれば、もしかして苛められているのではないかという憶測が飛び交うのも無理はない。何しろ、ドレスを台無しにされて帰って来たこともあるくらいだ。あの後、王妃の署名が入った丁寧な詫び状が添えられて、ドレスと虹晶石をふんだんにつかった首飾りが贈られたが、先代王妃の所行を鑑みれば、その真意は酷く疑わしい。
 料理長が使用人を代表して、陽菜子が王城にあがる回数を減らせないかとティレンに意見したこともある。月に数回というのは多過ぎではないかと。
 が、陽菜子自身が王と会うことを厭っていないのだからと、やんわりと却下された。
 世話役が駄目ならばと、思い切って神官長に直訴しても、神官長もまたティレンと同意見なのだった。彼らに出来ることと言えば、せめて陽菜子が聖宮で快適に過ごしてくれるよう心を砕くことだけである。
 夕食のデザートに、陽菜子の好きなカムレンの蜂蜜漬けにフォンセ酒で色づけしたジュレを出したり、部屋にほのかな花の香を焚いておいたり。何よりも、彼らが気を付けているのは、陽菜子の様子がおかしいことに、気付いていることを悟られないことだ。
 ぽややんなくせに、敏い陽菜子は意図に気付けば、無理矢理にでも明るい表情を取り戻してしまうのだ。逆に気を使わせては、本末転倒というものである。
 出来れば、ソナが作るマルムーンを、と思うのだが、気が付けばソナの様子もおかしくて、いったい王城で何があったのかすらも聞き出せず、一同はもんもんと日々を過ごす羽目になっているのだった。

 そんな彼らの努力が身を結び、陽菜子は思う様、ぐったりと落ち込んでいた。
 午後の光をたっぷりと取り込んだ部屋で、その日ばかりはいつもの講義を休ませてもらった。
「今日、どうしてもそんな気になれないの」
 こんなみっともない言葉を口にする日が来るとは、思っていなかったが、下手に体調が悪いなどと言うと、余計な心配を掛けた挙げ句に、大騒ぎになってしまったことがあるので、言い訳に利用するのは懲りていた。
 我が儘にも程があるのは分かっていたけれども、正直に言った。もし、予定通り歴史の講義を受けたとしても、逆に先生に失礼なことになってしまいそうだったので。
「……仕方ありませんね」
 しばらく、陽菜子の顔を窺っていたティレンは、しぶしぶと了承の言葉を口にした。もし、あっさりと了解されたら、それはそれで自己嫌悪で余計に落ち込んでしまっただろうから、陽菜子には有り難かった。
「では、私からゼカレーシグ殿に伝えておきましょう。ヒナコ様が王城に上がったことはご存じですから、さほどお気も悪くされますまい」
「ごめんなさい」
「たまにはお疲れになることもあるでしょう。ソナも気がそぞろですし、お二人でのんびり過ごされてください。また夕刻にお迎えに上がります」
 そう、何があっても免除されないのは、祈りの儀式だった。
 時間にすれば、数分にも満たない。
 祈りの文句も決まった所作も無い。
 湖のほとりに建てられた慎ましやかな神殿に赴き、静かに祈る。
 ただそれだけのことだが、陽菜子が酷い熱を出したときでさえも、それは行なわれた。
「ほんとに、ごめんなさい」
 重ねて謝罪の言葉を口にする陽菜子に、ティレンはそっと微笑みかける。
「サボりは、今日だけですからね?」
 共犯者のように言われて、陽菜子の強張っていた頬も、ようやく緩んだのだった。
 そして、いつになくだらしの無いことに、陽のあるうちから寝台にぐったりと俯せた身を横たえていた。ソナはソナで、傍らの椅子で、背に身体をすっかり預けてうたた寝している。
 ……ネイアスさんって、確信犯よね。
 横目で、ソナの寝顔を見ながら陽菜子は思う。
 ソナが戸惑っているのを知っていて、可愛がっている猫にちょっかいを掛けるようなことをしている。身分のことを気にするななどと口にするのは野暮だと思っているのか、それを態度で示しているのかもしれなけれど。
 でも、あたしとは違うよね。
 ふうーっと溜め息を吐いて、やわらかな羽枕に顔を埋めてしまうと、気が緩んで涙が滲んできた。
 ── 一度サボることを覚えたら、何度でも繰り返すようになるの。
 お姉ちゃんの口癖だったな。
 そんなことも思いだす。
 サボっているつもりなんかなくても、何事もワンテンポ遅い陽菜子に、姉の美鶴は笑みの奥にいつも苛立ちを揺らめかせていた。頭ごなしには怒らない。でも、じりじりと言葉は陽菜子を追い詰める。
 ──どうして陽菜子はやれば出来るのに、やらないの? 甘えてちゃ駄目よ。
 甘えていたかもしれない。でも、後少しで、というところで、痺れを切らせて勝手に手を出して来たのは、お姉ちゃんじゃないか。
 嫌なことも、ずるずると思い出されて、ますます涙が止まらなくなった。
 あれは、小学三年生の夏休み、宿題の絵を描いていた時のことだった。
 早起きをして、朝顔をスケッチした。
 初めて使う水彩絵具は思うようにならなくて、毎日毎日、画用紙いっぱいに色鮮やかな朝顔を描き続けた。算数や国語のドリルよりも熱心に。図書館で絵の描き方の本を借りたり、登校日に学校の先生に質問したり。
 明日からは学校が始まるという日の朝、これまでよりも丁寧に鉛筆で描いた下絵に、慎重に慎重に色を落とした。薄い色を何度も重ねて、それはまだ拙いものではあったせよ、ようやく陽菜子が満足して絵筆から手を離したのは、とうに朝顔の花も萎れ、陽が傾きかけた頃だった。
 これまでにない満たされた気持ちで描き上げた絵を眺めていると、横からすっと美鶴が手がそれを取り上げた。
 そして、
「ちょっと貸してごらん」
 と、さっき陽菜子が置いたばかりの筆を手にし、パレットの絵具を含ませると、美鶴はまるで躊躇うこと無く、絵筆を陽菜子の絵の上で走らせた。
 手数はさほどでもなく、美鶴にしてみれば、ほんの少し手を加えただけのことに違いない。
「ほら、この方が立体的に見えるし、メリハリがついて見栄えもいいのよ」
 したり顔で見せられたその絵を、陽菜子は破ってしまいたかった。
 違うのだ違うのだ違うのだ。
 絵の描き方の本にも、同じようなことは描いてあった。
 でも、陽菜子が描きたかったのは、そうじゃない。重たい画集の中で見付けたあの絵。漢字が難しくて、名前が読めなかったけれど、綺麗な線と淡い色で描かれた、あんなのが描きたかったのに。
 でも、美鶴の言葉が正しいことは、直ぐに証明されてしまった。陽菜子名義のその絵は、担任の先生に褒められただけでなく、市内の絵画コンクールの小学生部門で優秀賞をとってしまったのだから。
 せっかく忘れていたのに。
 あの王太子がいけないんだ。
 家族の話なんか聞くから。
 だからって、どうしてお姉ちゃんのことを話しちゃったんだろう。
 ──要するに、自分でやれるところまで頑張らせて欲しいわけだな。
 あんなこと言うし。
 ──おまえ、トロそうだからな。
 がばっと陽菜子は身を起こした。
 どうせ、トロいわよ。
 これ以上、うだうだしていても、余計に気持ちが落ち込んでしまいそうで、ぶるぶると頭を振って、ベッドから降りた。
 まだソナは目を覚ましそうにない。
 ふと、思い立って、陽菜子は机の上の紙とペンを手に取った。

2008.08.30


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