星月夜の森へ

─ 24 ─

 ──この事態を喜んでいるのは、ネイアスだけのような気がする。
 酷く気詰まりな状況で、陽菜子はそんなことを考えていた。

 発端は、控えの間へに王太子たるラエルが突然現れた事だった。
 いつものように、控えの間で謁見の時間を待っていると、不躾にも、ノックもなしにドアが開き、麗しい王太子様が立っていた。可哀想なのは、不測の事態に完全に硬直してしまったソナだ。手にしていた茶器を、よく落とさなかったものだと思う。
「【金の小鳥】、ご機嫌はいかがだろうか」
 天変地異の前触れかと、冗談でなく、陽菜子は思った。
 惚れ惚れするほどの笑みの裏、明らかに自分を嫌っているそのオーラは健在なのに、いったい何事なのだろう?
 嫌でも、すぐ後で王への謁見の際に顔を合わせるのに、わざわざ来る理由が分からない。いや、もしかすると、王の前では言えない、もしくは出来ないことをしにきたのだろうか?
 怪訝を通り越して不安な顔を隠すことも出来ず、黙って様子を窺っていると、すっと嘘くさい笑みが引っ込んだ。
「……サリューに、ルサリアに頼まれてるんだ」
「え?」
「ヒナが、心細く思っているだろうから、助けてやってくれと」
 なんですか、それは。
 うっかり、そう言いそうになる。
 ルサリアが帰国したのは想像以上に寂しく、心細いというのは当たっている。
 さっきも、分かっていながら露台に出て、名前を呼んでみたりしてしまった。当然、返って来る声などあるはずなく、余計に寂しさが募るだけだということを思い知ったばかりだ。
 けれど、その原因の大半は、この目の前で優雅に佇んでいる王太子様にあるんですが、などと言えるわけもない。
 また今日も、虚をつかれるように、あの視線に晒されるのかと重くなる気持ちを抑えて、笑顔で王の前に笑うことが出来たのは、その前にルサリアのやわらかな空気に甘えられたからだ。それなのに、わざわざ追い打ちを掛けなくても良いではないかと、陽菜子は少し、怒っていたかも知れない。
 ぎくしゃくとした動きで、ラエルに椅子を勧め、震える手でお茶を淹れたソナは、王太子の後ろに控えていたネイアスに、「では、我々はこちらに下がりましょう」と、嬉々として隣の間へと連れ去られてしまった。豪華な調度に囲まれて、陽菜子にしてみれば、いまだ慣れない広さの部屋の中で、二人きり。
 緊張するよりも、気詰まりで仕方がない。
 そんな気持ちを表に出すわけにもいかず、ごまかすように、ちびちびとお茶を啜った。花のような香りとほんのりとした甘さのこのお茶は、陽菜子のお気に入りだ。聖宮でも飲みたいと思って、それとなく尋ねてみたところ、かなり高級なものらしく、さすがにねだれないでいる。
 王太子は黙ったままで、特に、あのひやりとするような視線を投げてもくるでもない。
 いったい何しにきたのかと探ろうにも、王子様の仮面に隙などあろうはずもない。面倒くさくなって、今頃、またあの素直じゃない愛情表現に振り回されて、へとへとになっているんだろうなあ、と目の前の王太子のことなど意識の外に飛ばして、ぼんやりと考えていると、
「私といるのは退屈だろうか」
 薄い笑みを佩いた顔のラエルから、やんわりと咎めるような言葉が放られた。
「いえ、とんでもないです。ただ、緊張してしまって」
 気を逸らす為に、余所事を考えてましたとは口が裂けても言えない。無視しているつもりはないのだが、かといって、何を話して良いのかも分からない。せめて不興を買わないように、息を潜めているしかないとなると、つい思考は明後日の方へと浮遊する。褒められた事でないことは分かっていても、現実逃避する自由ぐらい、欲しい。
 慌てて、何か話題を──そういえば、ルサリアは王太子と仲良しだったんだっけ、と糸口を掴みかけて、口からこぼれ落ちたのは、
「さっき、サリューって……」
 という尤もな疑問だった。
 群青の瞳が、冷ややかな光を帯びた。
 なんとか思いついたことを口にしてみたものの、地雷か鬼門だったらしい。王子様の仮面はすっかり外すことにしたのか、
「ルサリアは、偽名だ。サリューは、ルウェルト皇国の第二皇子で、王位継承権の争いで命を狙われていたから、ここで匿っていた」
 剣呑な表情に、やや投げやりな口調で答えが返って来た。
「へ?」
 とぼけた声を、ぽろっと漏らしてしまって、陽菜子は慌てて両手で口許を塞ぐ。
「あいつにとって、【金の小鳥】と話す事は、それなりに安らぎをもたらしたらしい。友人として、礼を言う」
 感謝されているような気がしないのは、ふんぞり返って言われてるせいかな。
 疑問符で頭をいっぱいになってしまうと、しずしずと首を竦めて、
「恐れ多いです……」
 とかなんとか、口の中でごちゃごちゃと呟くのが精々だった。
 それにしたって、あんな、少し天然の入った人も王子様だったのか。
 改めて思い返せば、のんびりとした品の良さだとか、浮世離れした感じだとか、納得出来はするけれど、命を狙われて、というのが、どうにも想像ができない。
 そんな状況を、陽菜子に悟らせまいと、あんなに穏やかな顔をしていたのかと思うと、全く気付かなかった自分の間抜けさ加減に自己嫌悪に陥りそうだ。のんきに雪合戦に誘ったりして、さぞかし呆れてていたのではなかろうか。
「あいつの『のほほん』は、地だ」
 陽菜子が考えている事などお見通しだとばかりなひと言が、あっさりともたらされた。
 憤然としているのが透けて見えて、それは、大変に王太子にとって不本意なことらしいことに、少し笑いを誘われる。
「何を笑ってる」
「え、あ、その、ルサリアは、ほんとに、の、のほほんな人だったなって」
 たじろぐあまり、言葉をもつれた。
「そうだな」
 まともに答えが返って来て、ほっとする反面、結局、この状況をどうしたらいいだろうと陽菜子の気は焦るばかりだった。
 ラエルはラエルで、くるくると表情の変わる陽菜子を観察しながら、やや困っていた。
 姿を見るなり、怯えたかと思えば、ふとした瞬間、意識は全く別方向に逸らされている。かと思えば、ささいな失言をしっかり聞いていて突っ込んで来たり、莫迦か利口なのかも分からない。それでも、ここで溜め息を吐けば、また酷く怯えた顔をするのだろう。
「寂しくは、ないのか?」
「は?」
 唐突すぎたのか、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で、陽菜子は硬直していた。
 まあ、鳩も小鳥の部類だろう。
 確かにそんな顔は、非常に似つかわしい。
「家族とか、故郷とか、恋しくはないのかと聞いている」
 何も怒るところではないのだが、反応の鈍さが癇に障り、声が尖った。何も手を挙げたわけでもあるまいに、あからさまにびくりとする陽菜子に、苛立たしさが募る。
「えーと、みんな、良くしてくれますから」
「会いたくはないのか? 周囲が良くしてくれるから、家族はもう要らないか?」
 妹よりも年下の少女にするには、意地悪も過ぎた問い掛けなのは分かっていた。
 思い切りよく、何度も首を横に振る姿は、あどけない。
 寂しい、恋しい、帰りたいなどと言ってはならぬと、聖宮から、特にあのティレンから言い含められているのだろうと思えば、多少哀れも感じる。
「どんな家族だ? きょうだいは?」
「……お姉ちゃんが」
「どんな姉上だ」
「すごく、しっかり者。なんでも出来るの」
「あの、ティレンとかいう者と似ているな」
 意外にも、陽菜子は首を横に振った。
「ティレンは、あたしに何かさせようとかしないもの」
「おまえに【金の小鳥】をさせているのに?」
「お姉ちゃんは……」
 ぷつりと言葉が途切れた。唇を噛んで俯いてしまった陽菜子に、ラエルが更に問いかけたのは、特に嫌がらせというわけではなく、なんとなく湧いた興味だった。
「姉が嫌いなのか」
 弱々しく陽菜子は首を横に振る。否定されてばかりだな、とラエルはふと思う。
 見れば、まなじりにうっすらと涙が溜まっている。
「ならば、そんな顔をすることもなかろう」
 寂しさや恋しさに胸が詰まっているというならともかく、まるで苛められているような顔をされるのは、ラエルには、不本意極まりない。彼としては、聖宮では出来ないだろう家族の話でもさせてやろうという、かなり憶測に基づいた気遣いだったので。
「……ちょっと苦手なだけ。あたしが何かしてると、もたもたしてるのが見てられないみたいで、手取り足取り教えてくれるけど、出来るようになると、『ほら、出来るじゃない。陽菜子は努力が足りないのよ』って言うから」
「姉の言うことにも一理あると思うが」
「分かってるけど、でも」
「要するに、自分でやれるところまで頑張らせて欲しいわけだな」
 ぴくりと陽菜子の肩が揺れた。
 ようやく肯定する言葉に辿り着いたらしい。
「まあ、おまえ、トロそうだからな」
 あくまで、本人に悪気はない。
「だからといって、押し付けがましいのは感心しないが。随分と狭量な人柄のようだな」
「そんなことない。誕生日にはいつもあたしが欲しがってたものをくれるし、おやつのケーキも先に選ばせてくれるし、自分が持ってるものをあたしが欲しがると、どんなお気に入りでもくれるんだもん」
「ほう」
 勢い込んで否定する姿に、ラエルは面白そうに口許を歪めた。
「テストの時だって、自分の勉強よりも先に、あたしの苦手な教科を見てくれるし、風邪とか引いて寝込んだときは、学校休んで看病してくれる」
 なるほど、この過剰さが負担なのか。
 負担を負担と言えず、受け取り続けて草臥れていたらしい。
 有り難くないものに、ありがとうと言い続ける辛さは、ラエルにも身に覚えがあるものだ。
 そして、家族とともにあったときでさえ、まるで籠の鳥のような愛され方をしていたのかと思うと、おかしな符合だとも感じる。
「お姉ちゃんは、あたしのお手本にならなくちゃいけないから、頑張ってるのよって言うの。あたしがお姉ちゃんだったら良かったのに」
 それはそれで、出来た妹を持つなりの苦労があるだろうし、のんびりした姉に妹は苛立ちを感じるだろうから、状況はあまり改善されないだろうとは思うが、どうやら姉が頑張ることを義務化されているかのような状況を、陽菜子が憂いての発言ということは汲み取っていたので、懸命にも彼はそれを口にはしなかった。
 ラエルがしばらく無言でいるうちに、陽菜子の表情が見る見るうちに変化した。
 おそらく、これまでほとんど言葉らしい言葉を交わしたこともない相手に、こんなことをぼろぼろ話してしまったことに、今更頭の中で右往左往しているのだろう。
 思わず吹き出してしまいそうになるが、それは王太子たる威厳を保つことに慣れた彼のこと、苦もなく押し込めた。
 けれど、この日、最大の失言を彼はしたのだった。あくまで彼は冗談のつもりだったのだが、あまりに質が悪すぎた。
「ここで何を口にしようと、外に漏れることはないし、私も気にしない。そう、例え【金の小鳥】が、この世界を憎んでいると言ってもな」
「憎んでなんか!」
 たちまち、陽菜子の顔色は色を無くし、解けていた表情も態度は一気に硬化した。
 冗談に過剰な反応を返されて、ラエルもまた、【金の小鳥】に対して、打ち解けた気持ちを持ち始めていたことに気付き、改めて仮面を被り直したのだった。

2008.08.28


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