星月夜の森へ

─ 23 ─

 初雪が降っていた。
 洞窟の中で、安らかな温もりに包まれて見る雪は、美しかった。

 ヴィリスから、花散らしの日が決まったと告げられた時、遂にその日が来るのだという感慨などなく、物好きな客もいるものだとしか由井は思えなかった。銀月楼に来てから、由井は叫ぶ事すら止めていた。同時に感情の動きもまるで止まってしまったかのようで、言われるままに身支度を整えた。
 衣装も髪飾りも、ヴィリスのお下がりだったが、それでも、一介の上臈が身に着けるには過ぎた品だった。陰で、他の上臈たちが羨ましげに見ていた事など、由井は知らない。
 ずっと布に包んで隠していた黒髪は惜しげもなく晒され、ヴィリスお抱えの髪結いの手によって結い上げられると、そこに現れたのは、月の精霊もかくやという幻想的な姿だった。それすらも無関心に、銀月楼の一同から起きた感嘆の溜め息に見送られ、由井は楼主タランダとヴィリスに伴われて茶屋へ赴いた。
 白銀の髪と、青紫の瞳を見たときは、懐かしさを感じなかったといえば嘘になる。けれど、そこにいるのは人間の男で、翌朝、タランダが言うには、大層良い身なりをしていたそうだが、あの白銀の毛皮以上のものには思えなかった。
 ただ、静かに食事をし、酒を飲むだけ。
 歌も踊りも断り、かといって話をするわけでもない。
 特に気詰まりでもなかったが、相当な身の代を払ったのだと聞いていたから、それでいいのかということは気になった。
 二度目の別れの間際、すっと腕が伸びてきて、初めて、触れられたくないという思いが強く湧き上がった。明日には、それどころではないというのに、今更、この程度の事で何を足掻こうというのかと、これまでして来たように、胸の奥にすべてを沈めた。
 このほんの僅かの揺れを、彼が感じたのかどうか、手は由井に触れる事なく降ろされた。
 代わりに、
「もし森へ帰りたければ、仕度をしておいで」
 そういって、軽く鼻先を触れ合わせて、彼は帰って行った。
 時々、じゃれ合うようにしていた懐かしい仕草。
 でも。
 あれは、人だ。
 フェンじゃない。
 ──もし森へ帰りたければ、仕度をしておいで。
 その言葉が、なんども脳裏に甦る。
 森へ。
 フェンのもとへ?
 銀月楼の居心地は、決して悪いものではなかった。食事と寝る場所を与えられ、教育まで受けさせてもらえた。ヴィリスは癇癪持ちだがさっぱりとした性格で気前もよく、皆にとっても頼れる姐さんといった存在だったし、リシェも、何かと細やかに世話を焼いてくれた。中には、底意地の悪い嫌がらせをする者もいたが、やはりヴィリスの花影という立場に、相当守られていたことは、由井にも分かっていた。
 まるで、元の世界と変わらない。自分を可愛がってくれた兄はいないが、どうせ離れるつもりでいたのだから、その時期が早まっただけのことでしかなかった。
 生活の便利さでいえば、森での暮らしの方が遥かに不自由で暮らしにくいだろう。
 それでも、森へ帰りたいかと問われたなら、迷うことなど何もない。
 翌朝は、そわそわした気持ちを悟られないように無表情を装い、仕度を整えた。
 どうすれば良いかは分からなかったし、誰かに聞くわけにも行かない。
 出来るだけ身軽な方がいいだろうと、ヴィリスがくれた豪奢な上着の下に、普段着を着込み、小遣いとして渡されていた小銭と、花影として恥ずかしくないようにと渡されていた装飾品の中で、小さなものは懐に忍ばせた。迷惑を掛けるであろうことを考えると、恩知らずだとは思うが、森での生活で、すぐには必要なくとも、それが永続的なものではなく、備えが必要だと思い至る程度には、由井は現実的だった。
 前日、前々日と同じように訪れた茶屋の一室には、誰もいなかった。しきたり通り、三日目になって初めて褥の仕度が整えられた隣室にもいない。どうしたことかと、付き添っていたタランダが由井をおいて階下へ降りて行くのを待っていたかのように、事実、待っていたのだろう、開け放たれていた窓から、その獣はするりと入って来た。
「フェン?」
 何ヶ月かぶりに出した声は酷く掠れていた。白銀の獣は音も立てず由井の側に寄ると、次の行動を促すように、腕に鼻面を押し付けた。
 あわてて上着を脱ぎ捨てると、フェンは自分の背を顎で指し示す。
 躊躇ったのはほんの一瞬、その背に跨がり、しがみつくと同時に、その身体は大きく跳躍した。
「ユゥイ!」
 タランダの叫び声を後ろに聞いて、フェンは軽々と茶屋の庇から屋根に飛び上がった。
「誰か! 獣が!」
 窓から大声で叫ぶタランダの声に、見世を冷やかしていた客たちも騒ぎ出していた。
 穏やかならぬ注目の中、フェンはぐるりと首を廻らした。
 その視線の先には、銀月楼の、そこは座敷であるはずの窓辺に腰掛けて、こちらを見ている上臈がいた。まるで見送るように、婉然とした笑みを浮かべて。
 あの傾城か。
 それだけを認めて、フェンは身を翻した。
 夜陰に紛れるはずが、白銀の体毛は僅かな灯にも映えて、屋根伝いに駆ける姿は神々しささえ感じさせたが、それだけ人目を引き、すっかり見せ物と化してしまっていた。
 由井は、固く目を閉じて、ひたすらフェンの背にしがみついていた。フェンとて間違っても振り落としてしまったりしないように細心の注意を払ってはいただろう。それでも、全身に漲る力の動きは由井にとっては未知の激しさだった。
 幾ばくも行かないうちに、ひゅっと耳元で風が裂ける音がして、フェンは足を止めた。
 おそるおそる目を開けると、すぐ側に矢が突き立っており、一歩間違えば、それが今、己かフェンの身を貫いていたのだと生々しく語る。
 いつの間にか、ざわめきは静まっていた。代わりに、騒ぎを聞きつけた楼閣の衛士たちや、アトールの警備隊が集まり始めていたのだ。
 もしそこに、もう一頭の獣が現れなかったら、とてもその包囲を突破など出来なかっただろう。その獣は、ちらと目配せするようにフェンの方を見やった後、まるで彼らを挑発するように咆哮を上げ、屋根からひらりと地に降り立つと、注意を惹き付けたまま駆け出した。
 手薄になった包囲を突破したものの、橋を渡ることは、不可能だった。数人ならともかく、既に門には屈強の衛士たちが集結しており、彼らの攻撃を交わして閉じられた門を無傷で突破することなど、由井を背にしていなくても難しい。
 それとも最初から、そのつもりなどなかったのか。
 ツェミレ河の流れを前にして、屋根の上から飛び込もうとしたフェンの耳を由井は思いきり引っ張った。
「フェン、駄目、この河は渡れない!」
 水の冷たさは、毎日の暮らしでよく知っていた。この河を渡ろうとして死んだ上臈の話も聞いていたし、先日も、間違って落ちた酔っぱらいが心臓麻痺で死んでいるのだ。
「フェン、ひとりで逃げて」
 その背から降りようとした由井を、フェンは咎めるように唸り声を上げた。
 振り切ったはずの衛士たちが早々に追いつき、射掛けられた矢が、次々と由井たちの周囲に突き立つ。銀月楼の上臈に傷を付けるわけにはいかないらしく、わざと外されているようだった。
「止めて! 残るから、逃げないから!」
 衛士たちに向かって叫ぶと、とうとう由井はフェンの背を降り、盾になろうかとするように両腕を大きく広げた。細やかに結い上げられた髪は乱れて、河から吹き上げる風に煽られていた姿は、後々、衛士たちの間で、翼を広げて空へ帰ろうとしたかのようだったと語られることになる。
 そんなことを知る由もなく、衛士たちの方へ一歩進もうとした途端、帯を引っ張られたかと思うと、由井は真冬の河へ真っ逆さまに落ちたのだった。

 気が付いた時、最初に目に入ったのは、薪が燃える温かな光だった。
 意識はまだうつらうつらしていて、包み込むような温もりの心地良さに、また眠りの淵に落ちそうになる。
 ここは、銀月楼じゃない。
 状況を知覚したが早いか、由井は跳ね起きた。
「気が付いたか」
 背後の、しかも随分と近いところからした声に慌てて振り向くと、最初の客だった男がいた。
 白銀の髪に、青紫の瞳をした青年が。
 どうしていいのか分からず固まっていると、腕の伸びて来て「もう少し寝ろ」と、そのまま抱き込まれた。
 心地の良い温もりの正体がこの男の体温だったらしいことに、不思議と安心感を覚えて、強張った身体からくたりと力が抜けた。
「フェン?」
「ああ」
 確認は簡潔だった。
 周囲に目をやると、囲炉裏の火でぼんやりと浮かび上がる様子に、粗末な小屋にいることが分かった。
 日を挟んだ反対側には、濡れた服が干されていて、前もって用意されていたのだろう、由井が身に付けている衣服は乾いていた。
「怪我とか、してない?」
「ああ」
 もそっと身体をねじると、確認とばかりに、ぺたぺたとフェンの腕や肋のあたりを触った。
 僅かに顔をしかめたのを見咎めて、「手当はした?」と尋ねると、フェンは視線はを明後日の方向を向けて返事をしない。
「後で、カリカラの絞り汁、つけるよ?」
 傷薬の中で、最もしみる薬草の名を言われて、フェンは顔を顰めながら苦笑いを零した。
「ちゃんとした。大丈夫だ」
 由井の帯をくわえ河へ飛び込み、無防備を晒した瞬間に、矢の一本が当たったのだと言う。
 ぬくぬくとした温かさの中、
「どうして最初から、フェンだって言ってくれなかったの?」
 という甘えた問いに、
「人を怖がっていただろう」
 という答えが返って来た。
 森でこの姿を見せなかったのも、そうなのかといえば、どうやら獣の姿でいる方が楽だという怠惰な理由も大きいらしい。
  「おまえ、ユゥイという名だったんだな」
 優しい手が髪を撫でた。
 そういえば、必要に迫られる事もなかったせいで、由井はフェンに名乗っていなかったのだ。
「由井は名字。名前は如月。さら、って呼んで」
 家族になってくれたあの人たちのように。
 思い出すと感じる胸の痛みは、時が経つほどに和らぐどころか強さを増して行くけれど、フェンにはその名で呼ばれたいと強く思うのだ。
 子供のように懐に潜り込んで、温もりに誘われるまま眠りの淵へ落ちる間際、「夜が明けたら、直ぐに出よう」という声が聞こえた。
 夜明けと同時に起き、干し肉を火にあぶったものと、乾燥させたマメのようなもので簡素な食事を採った後、フェンは出発を前に、「この姿では何かと不自由だ」と、獣の姿に戻ってしまった。
 たかが上臈ひとりの失踪だというのに、アトールという街の面目を掛けて、ありとあらゆるコネを使ったのか、街道には一斉に検問が設けられていたが、道なき道を進む二人にとって、それを避けることは容易かった。遠回りをした為に日数こそ掛かったものの、意外なほどすんなりと、森へ帰り着いたのだった。
 さすがに、夏の頃ほど食料事情は良くない。そのつもりで蓄えておいたとしても、そういう身体に出来ていない人間が、ひと冬越せるかどうかは怪しい。幸いにも、由井が懐に忍ばせていた小銭は、王都を出れば結構な金額で、その冬の食料をまかなうには充分だった。
 でも、その後の事を考えると、この暮らしを続けて行く事は不可能なことは自明の理で。
 人間の社会に不慣れなフェンには、どうすればよいか考えるにも限度がある。ほとぼりが冷めた頃、上手くやっている幼馴染みを尋ねて、知恵を貸してもらうつもりだ。
 それまでは、ただ静かに。
 今はただ、身を寄せ合って、春を待つ。
 
2008.08.26


inserted by FC2 system