星月夜の森へ

─ 22 ─

 がんっ、と、テーブルの上に思い切り拳が振り下ろされると、その衝撃で倒れた水差しが、くるりと半弧を描いて、床に落ちた。
 その音で、ティレンは我に返った。
 額に手をやり、じっと目を閉じる。
 陽菜子から気になる話を聞いてすぐに手は打った。
 管理下にある聖域及び、記録に残っているだけの地にも人を派遣し、情報は収拾させていた。
 それが、ほぼ空振りに終わり、ただの杞憂かと胸を撫で下ろせばよいものを、何故か不安は胸の中に蟠ったまま。そこにもたらされた幼馴染みからの情報に、無理を承知で彼をかの村へ向かわせ、アトールへも人を走らせた。
 が、黒髪の人間はおろか、黒髪の魔除けさえも、目にする事が出来ない。
 アトールという場所だったも運が悪かった。
 ティレンにしてみれば、所詮遊郭、傾城などと呼び慣らわしたところで、たかが上臈にすぎないが、彼らの矜持は非常に高い。
 最初から、居丈高に目的のものを取り上げようとしたわけではない。むしろ、下賎な者には過ぎるほどの丁重さで「お願い」したはずだ。が、鼻先であしらわれれば、高圧的な態度にならざるえなかった、との部下の言い訳は話半分にしても、聖宮からの使いに対して、剣もほろろな対応というのは、不遜極まりないと、ティレンは眉間の皺を深くした。
 フレイなどは、あからさまに呆れて、
「おまえ、アトールをなめてかかるのは間違ってるぞ」
 などとうそぶいて、どうやって留守を預けた使用人を丸め込んだのだか、勝手に上がり込み、その上どういう神経をしているのか、他人様の家とは思えないほど、すっかりくつろいでいる。
「……さっさと宿舎へ帰ったらいかがです」
 遠回しとは無縁の言葉に、
「今月は、ハティ騎士団も大隊の交代があってさ、第三大隊が引き上げてきたんだよ」
 迷惑そうな声など、聞こえてもいないかのような応えが返って来た。
「何の話ですか」
 ハティ騎士団と言えば、南の、特にグリヴィオラとの国境警備を任務のひとつとしていて、三つの大隊が半年毎に交代してその任に当たっていることくらい、ティレンとて知っている。
「一昨年、王の急逝に伴って、一時、荒れただろう」
「でも、新王が見事な手腕で収めたようですね」
「その王の噂、知ってるか?」
「十年ほど、放浪していたという話なら」
「そうなんだけどさ、第三大体にいる友人から、面白い話を聞いたんだ」
 話のまどろっこしさに、ティレンはフレイを睨む。この幼馴染みは、自分が短気な事を知っていて、こういうことをするのだと思うと、益々腹立たしい。
「その王の寵愛を一身に受けている愛妾ってのが、旅先で出会って連れ帰った女らしいんだけど、これが、黒髪の美女なんだと」
「なんですって?」
 頭の中が大きく脈打つの分かるほどの衝撃を隠して、ティレンは殊更に不機嫌な声を出した。
「ツァルト国の生まれだそうだ。なんでも、ヴィスタリア一族のひとりだそうだぞ」
 にやにやと、面白がるように言うフレイに剣呑な目を向けながら、ティレンは混乱していた。
 その一族の存在は、ただの与太話ではなかったのか?
 では、かの村人が切り取ったという黒髪の持ち主も、その一族なのか?
 予感は、ただの思い過ごしで、【闇月】とは何の関連もなかったと……?
「……揶揄ってるんじゃないでしょうね?」
「あのなあ、聖宮に籠りきりで、情報を他人の目と耳に頼って、机上で理屈を捏ね繰り回してるおまえとは違うの、俺は」
 痛いところを突かれて、ティレンは唇を噛む。
「何をそんなに苛立ってるんだか知らないが、不確かなものに振り回され過ぎだぞ」
「どんな小さな可能性であれ、【金の小鳥】を失う可能性は摘んでおかねばならないんです」
 不意打ちのように真面目くさった調子で言われると、さすがに尖った声も細くなった。その変化をどう受け取ったのか、フレイの口調にもやや労るような色を帯びる。
「王の命令で配置された護衛は、選りすぐりの精鋭だし、【金の小鳥】はおまえが思っているほど無防備にされてるわけじゃないぞ?」
「そんなことは当然です。でも、彼らでも太刀打ち出来ない事はあるんです」
 苛々とティレンは首を振る。
「その時はその時、また新しい【金の小鳥】を探してくれば良いだろう」
 宥めるように、俯いた顔を覗き込むフレイは、ぎゅっと目を閉じた彼女の顔に慄然とした。幼い頃から、当たり前のような顔をして大人びていた彼女の、子供が駄々を捏ねるような顔など、見た事がなかった。何が彼女にこんな顔をさせているのか、見当も付かない。
「今度は、六年程度の不在では済みません。それがどういう事か分かって、そんな気楽なことを言っているんでしょうね?」
「……たかが、娘ひとり、仕立て上げるだけの事だろう?」
 はっとしたようにティレンは顔を上げた。しばらく呆然と虚空を見つめ、そして、ゆっくりとフレイの方へ顔を向けた。
「所詮、【金の小鳥】など、聖宮が作り上げた虚像だと?」
「虚像でもなんでも、【金の小鳥】は必要で」
「ここ数年の、天候不順や天災の多さ、病の流行は、偶然だと言うのね?」
「【金の小鳥】がいても、そういう年はあったし、ほら、グローディ河の氾濫だとか」
「その水が引いた後、肥沃な土が運ばれて来ていたおかげで、翌年から豊作が続いたわ」
「あー、地震もあったぞ。それで、クレイアナ山脈の地盤が崩れて」
「おかげで、侵略を企てていたサルーファからの進軍を防ぎました」
 基本的に武人のフレイが、口で勝てるわけもない。ちっと舌打ちして横を向くと、ようやくティレンの方も調子が戻って来たのか、微かに笑った気配がした。
「信じるかどうかは任せますが、【金の小鳥】は、神からの賜り物。ヒナコ様を失ったら、次の【金の小鳥】の到来までに、下手をすれば数十年の時が必要でしょう」
 大変な現実主義者だと信じていた幼馴染みの言葉に、フレイはティレン以上に混乱していた。
「それに……六年の不在も、予定外のものだったのです」
 意味深げに呟いて、ティレンは口を閉ざした。

2008.08.25


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