星月夜の森へ

─ 20 ─

 それは、紛うことなき、星光石の原石だった。
 磨き上げれば、どれほどの値が付くのか、見当も付かない。
 小さな革袋の中身をぞんざいに盆の上に開け、盆から零れたひとつを摘み上げて、タランダはまじまじと眺めたあと、深々と溜め息を吐いた。
 無造作に、もうひとつ取り上げてみると、今度は虹晶石だ。よく見れば、月虹石まで混じっている。緋焔石、極光石、碧水石、輝陽石、天藍石……まだ原石とはいえ、宝石商なら垂涎の奇石が、大の大人の手、ひと掴み分,そこにあった。
 これだけで、銀月楼の傾城をひとり、一週間は独り占めしていられるだろう。磨き上げたものなら、銀月楼まるごとを一週間、借り上げる事が出来るかも知れない。
 にしても、河原の石でもあるまいに、こうもざらざらっとしたひと山を目の前にしていると、有り難みも薄れるというものである。
 それに、これを銀月楼に持ち込んだ男が買おうとしたのは、上臈に上げようと決まったばかりの花影だった。
 実のところ、それだけの身の代があれば、花影どころか籠女の一人や二人、身請けするのにも充分に足りる。
 男もそのつもりだったらしいが、タランダが頷かなかったのは、一見の客だったからだ。そもそも銀月楼では、紹介もなく身元も分からないような客は、受けない。が、銀月楼の戸をくぐるなり、「黒髪の上臈を買いたい」と、まるでアトールの作法を知らぬ様子に、逆に興味を引かれて、とりあえず向かいの茶屋で待つよう客に言ったのだった。
 奥に上がって、アーウェルとヴィリスを呼び、預けられた革袋の中身を確かめると、一同揃って沈黙するに至った。
 知らない者が見たら、ただの石ころ。見る者が見れば、宝の山。
 そんなものを目の前にして、アーウェルは楼主の女房ではなく、仕切りの一切を担う、束頭としての顔でタランダに詰め寄った。
「……ヴィリスを一週間、貸し切りたいとか言ったんじゃあないだろうね?」
 たかが妙な客ひとりのあしらいのことで、呼びつける理由といえばそれくらいのもの。だとしたら、そんな客を門前払いにしなった楼主の不甲斐なさに対して、ひとつお灸を据えねばならないとばかりに、いつもの艶姿はどこへやら、である。
「いや」
「じゃあ、ファーランかい?」
「ちがう」
 すっかり気圧されて、後ずさりしかねない及び腰な様子で、タランダは首を振る。
「そんな大層なものにゃ見えないけど、これ、星光石ですねえ。こっちは碧水石じゃないですか。これひとつだけでも、うちじゃなけりゃあ、結構な上臈が買えるでしょうに」
 一体どっちが主だか分からない不遜な態度で、ヴィリスも卓上で無造作に広げられている石を、ひとつひとつ検分していた。
「いや、これを持ち込んだ男がご所望なのは、黒髪の上臈なんだよ」
 ぼりぼりと頭をかきながら、上目遣いでタランダはヴィリスをちらと見た。
「まだ、あの子を上臈に上げる話は、内輪だけのもののはずですけど?」
 返す声の素っ気なさは、真冬の風よりも冷たい。
「わたしだって誰にも話しておらんよ」
 叱られるのを待つばかりの子供のように首を竦めていると、楼主としての威厳も、かつてやり手の両替商だったと思わせるところもない。
「あたしだって。知っているのは、ここにいる三人だけのはずだよ。その男は、ユゥイがここにいると知っていて、尋ねて来たってことかい?」
 釈然としない顔でアーウェルはタランダを軽く睨む。
「そうなるな」
 もう、亀の如き姿で、女房を上目遣いで見ていると、どちらが楼主だか分からない。
「身内かねえ」
「それなら、これで買い戻したいと申し出るだろう。それに、見た目は全く似てなかったぞ」
「何でも良いけど、どうすんです。銀月楼がこんな無作法を許すなんて、外に漏れたら恥ですよ、恥」
少し興奮が静まったらしく、アーウェルの口調が落ち着いて来ると、ほっとしたのかタランダの肩から力が抜けた。
 指先で石を弄びながら、ヴィリスはこそりと呟く。
「……面白いじゃないか。茶屋も通さず、直に乗り込んで来るなんて」
 こつんと、卓の上においた石を指先で弾くと、二人の方へ真っ直ぐ向き直った。
「決めましたよ。ユゥイの初花を摘ませるのは、その男にしましょう」
 突然の宣言に、タランダもアーウェルも言葉を失った。
 その男を見もしないどころか、どんな男だったのかすらも聞かずに決めてしまっていいのか。
 言葉もろくに分からないうちから怒鳴りつけ、何かあれば容赦無しに横っ面を張り倒したりしてはいても、可愛がっているからこそだと思っていた。そうでもしなければ、随分と頑なユゥイは言葉や稽古事に向き合おうとしたかどうかも怪しい。結局、歌をはじめ、言葉を発することだけは拒否し続けていても、舞に関しては師匠からもお墨付きをもらうほどだし、作法や振る舞いも板について来ている。
 残る問題は、こちらが望むような客がつくかどうかだった。
 異形を抱える楼閣などと言われるわけにはいかない。
 それに、そんな状況に身を置いて、不幸にならないように、あの子を引き取ったのではなかったのか。
 やはり、ヴィリスの我が儘を許すべきではなかったと、今更悔やんだとて遅い事は、タランダもアーウェルもよく分かっていた。
 かといって、見世を傾かせるわけにはいかない。
 いっそ、ヴィリスからユゥイを買い取って、裏方に回そうか。
 そんなことを、目配せだけでやりとりする二人の心中を知ってか知らずか、ヴィリスは余裕の笑みを向けた。
「作法に則って、三日、きっちり通ってもらいましょう。これだけの身の代をもらってるなら、充分なもてなしもできましょうよ。身請けの話はそれからでいいでしょう」
 最早、心中覚悟で頷くしかなかった。
 その気性の激しさもあって、これまで数々の面倒事を起こしてはいたが、ヴィリスは、銀月楼の格を落とすような事だけはしていない。その性根を信用してもいるのだ。
「分かった。おまえのいう通りにしようじゃないか」
 楼主が是とするのに、束頭に否やはない。アーウェルは、今後いかにそのお大尽から搾り取れるかと考える方に頭を切り替えて、手配の為にそそくさと立ち上がった。

◇ ◆ ◇

 もし、幸せであるなら、何も無理に連れて行く気はなかった。
 でも、そうでないなら、何をおいても連れて行くつもりだった。

 茶屋の座敷へやって来たのは、森で暮らしていた頃の面影などない、たおやかないきもの。
 楼主と共に挨拶に訪れた、この新米上臈を花影として抱えていたという傾城は、確かに大層な美女だったが、同族かと思うような獰猛な光を秘めた目と、それでいて、透徹した気をも漂わせていて、警戒心を煽るのに充分だった。
 彼の、一瞬にして張り詰めた気配を察したのか、その傾城は口許に意味深な笑みを浮かべると、いろいろと言葉を重ねようとする楼主を急き立てて帰って行った。
 残されたのは、目の前にいる、華美な衣装を纏った上臈だ。
 化粧を施された面は、まるで人形のようで、そこにあるはずの感情は読み取れない。夜の闇が息づくような目だけが、時折彼を映した。
 彼を初めて目にした時、僅かに驚いたように目を見張ったきり、凍った水面のようにただ静かな表情を湛えている。
 幸せそうには見えないが、不幸せそうにも見えない。
 膳に並べられた料理を口にしながら、彼は、上臈の気配を探る。
 やたら上品な手つきで杯に注がれる酒を飲みながら、感情の在処を探した。
 はじめは、力任せに攫うつもりいた。
 夜陰に紛れてアトールの様子を探ろうにも、ツェミレ河の流れに阻まれて、仕方なしに来年まで会うはずのなかった王都に住む幼馴染みを訪ねた。郷里以外の場所で顔を会わすのが何となく面映く、躊躇う気持ちが強かったのだ。
 幼馴染みの方は、あっさりと彼の来訪を歓迎したが、話を聞くなり、
「あほか!」
 と怒鳴りつけた。
「おまえ、アトールの警備がどれほどのもの分かってないだろう!?」
 とまくしたてられたところで、彼は基本的に森で暮らしているし、縄張りも王都から離れており、知るわけがない。そんなことは百も承知だろうに、幼馴染みは、
「莫迦も休み休み言え! いや、限度を超えてるよ、ここまでおまえが世間知らずだとは思わなかったね。まったく、人間社会の事を知る気が無いんなら、森から出て来るな! いっそ山に帰れ! 長んとこの婿にでもおさまってんのが似合いだ! 命知らずも大概にしろ、何考えてるんだ!」
 言いたい放題罵った後、小さく息を吐いて、
「いくら、俺たちの身体能力が高くても、やつらの個々の戦闘能力も侮れないし、数も相当だ。ただ、あの町に忍び込んで横断するだけなら出来るだろうが、人ひとりを攫ってくるなんざ、死にに行くようなもんだ」
 拳で彼の胸を軽く小突いた。
「それに、銀月楼だろ? 貴族王族御用達の楼閣じゃないか。案外、面白可笑しく暮らしてるかもしれないぞ」
 その言葉には冷水を浴びせかけられたように身体が震えた。綺麗で華やかな街の暮らしを覚えてしまったら、森での暮らしは不自由で、辛いものになっているかも知れない。
 言わずとも、表情に出なくてさえも、何を考えているのかお見通しの幼馴染みは、
「莫迦だな。籠の鳥でいるよりは、外で自由に暮らす方が良いに決まってるよ」
 と微笑った。
 そして、その幼馴染みの助言は、真っ当に『買う』、ということだった。
 無理に攫ったりするより身請けした方が、遥かに確実で安全だと。
 まさか傾城を買うじゃ無し、これで足りるだろう、と持たせてくれたのが、革袋一杯の石ころだ。人の社会において、随分価値があるらしい事は知っていたが、彼にさしたる意味がないので、気にした事はなかった。けれど、幼馴染みの方は、その原石を磨いて売る事で生計を立てているのだった。実入りのいい仕事らしく、暮らし向きはかなり良いようだった。
「まあ、惜しい事は惜しいけどな、一年、山を廻ればこれくらいはまた手に入るさ」
 そういって、送り出されたのだった。
 幼馴染みの助言は、確かだった。
 橋を渡り、直にアトールの空気に触れて分かった事は、警護は、内にも外に対しても想像以上のもので、彼らに束になって掛かられたら、いかな彼でも、逃げるのが精一杯、無傷では済みそうにないということだった。そして、遊郭と聞いて想像していたような淫靡で退廃的な街ではないということだ。溌剌とした活気すらあり、この街でなら、それなりに幸せにやっているのかもしれないと思えるくらいに。
 顔を見て、帰るだけになったとしても、それもまあ、良いか。
 そんなことを思いながら、銀月楼に向かう途中、あの匂いに気付いたのは偶然の事だ。まさか銀月楼の傾城のひとりと知って声を掛けたわけではない。
 あの黒髪で編まれたもの。
 あまりに微かではあったけれど、気になったのは、恐怖の感情がまとわりついていた事だった。
 森で、人の気配を感じると怯えたときに醸し出されたものと、それは同じで。
 これが、その原因に繋がっているのかと思うと、やるせない気持ちになった。早くここから連れ出さなければと、強く思ったのに、三日間通うという、この街特有のしきたりが阻んだ。
 従う義理などない。
 けれど、どうするのが一番良いか見極めるのに、ちょうど良い時間であったには違いなかった。
 言葉すらも交わすことなく、周囲から聞こえる、賑やかしい声や音曲を聞きながら、無為に近い時間を過ごした。舞は一見の価値のあるものだが、言葉が話せず歌は歌えないと楼主は話していた。無論、彼はそこに嘘があることを知っている。
 楼主の気遣いからと思われる最上級のもてなしをほとんど断り、静かに過ごすことを選んだ。
 舞も歌も、会話も必要とはしていなかった。共に過ごす場があり、その姿を目の当たりにすることだけが、重要だったので。  一日目は明け、二日目もさほど変化はなかった。
 ただ、別れ際に、この姿でなら頭をなでてやれるな、と思いついて手を伸ばすと、僅かに表情が揺れた。
 まだ、人が怖いのだと、彼は悟る。
 安心させる為に、慣れない微笑を見せて、
「もし森へ帰りたければ、仕度をしておいで」
 よくしていたように、彼は軽く鼻先を触れ合わせたのだった。

2008.08.23
 

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