星月夜の森へ
─ 19 ─
その日の空は、薄曇りだった。
微かに陽光を透かした雲で、空は一面、銀色に見える。
「そろそろ、雪が降るのかもしれませんね」
サリューは、空を見上げてそう言った。
「まだ、このくらいの寒さじゃ降らないと思うわ。ルサリアは寒がり?」
陽菜子は笑って首を傾げる。
「私は、南の国の生まれで、降っている雪を見たことがないんです」
積もっている雪も、遠い彼方の山並みに見かけたことがあるだけだ。
「雪が降ると、楽しいのよ。空から、白い花が降って来るみたいで、なんかわくわくするの。積もったら、みんなで雪合戦したいな」
「雪合戦?」
「雪玉をつくって、みんなでぶつけ合うの。すっごく寒いのに、汗びっしょりになっちゃうんだよ」
雪玉がどういうものか想像が付きかねる以上に、何かをぶつけ合うことが何故楽しいのかは、サリューには不思議だったが、陽菜子の表情を見る限り、傷つけ合うような行為ではないのだろうと思った。だから、自然と笑み、
「それは楽しみですね」
と言うことが出来た。
「じゃあ霜柱は見たことある?」
「霜柱?」
真冬の、うんと冷え込んだ朝になら、サリューの生まれ育ったところでも、霜が降りることがあり、植物の葉や窓に、華のような結晶が付いているのを見るのが、サリューは好きだった。でも、それが柱になったものなど見たことがない。
「寒い日の朝にね、土の上に氷の柱が立ってるの。踏むと、ぱきぱき音がして楽しいの」
氷の柱を踏む。
足の裏の感触、その音。
想像してみると、ふと顔がほころんで、今度は嘘偽りなく
「それは楽しそうだ」
と呟いていた。
「早く雪、降らないかな」
無邪気な顔で、陽菜子は空を見上げる。
空から降る白い花を一緒に見られたら良いのに。
そう思うと、サリューは、浮かべている表情が偽物にすり替わってしまった。
「ね、きっと雪合戦しようね。ソナと、ネイアスさん誘うから、ルサリアも誰か誘ってね」
陽菜子に、自分の帰国を知らせるかどうか、その瞬間まで迷っていた。
自分にとってはささやかな安らぎの時間であっても、所詮、僅かな時間、暇つぶしにもならないような言葉を交わすだけの、本当の名すら告げていないような間柄だ。次の機会に、ルサリアを呼んで返事がなければ、しばらくは気にしてくれるだろうが、やがて忘れてしまうに違いないと、サリューは思う。
それでも、出来ない約束はしたくなかった。ならば、別れの挨拶はしておくべきだろう。
「残念ですが、おそらく無理だと思います」
「どうして」
きらきらと輝くような笑顔が俄に曇った。
「明日、国に帰ることになりました」
「国に帰る?」
「ええ。噂では聞いておられるでしょう? 私はルウェルト皇国の生まれなんです」
「急、なの、かな、あたしが聞いてなかっただけ?」
陽菜子の少し強張った表情が、サリューには少し嬉しい。
「急なことです。父が倒れたという知らせがあったので」
「お父様のこと、心配ね。帰るまでに良くなられてるといいのに」
「そうですね」
陽菜子を呼ぶ声が微かに聞こえた。
「……行かなくちゃ。ね、また会える?」
泣きそうな笑顔に、やはり言わなければ良かったと思う反面、心の空虚な部分が満たされて行くような気がした。
「おそらく」
決着がついたなら、あるいは、という程度の確立だけれども、このくらいの嘘は許して欲しいと思った。
「元気でね」
「ヒナもお元気で」
手を振って見送る。
いつもと変わらぬ顔でいられたかどうかは、自信がなかった。
「満足したか?」
背後から、遠慮のない声がしたのは、それから随分と経ってからのことで、サリューの身体は冷えきっていた。その甲斐はあって、頭の中も、もう、すっきりとしている。
「我が儘言って、悪かったね」
「いや、もう、出立の仕度はほとんど済んでいるしな」
そう言って、ラエルは厚手のカップをサリューに手渡した。香辛料の入ったお茶だ。
「ありがとう」
とろりとした喉越しのそれは、甘くて少し辛みがあり、ひとくちふたくち飲むうちに、身体の中から、ほわりと暖かくなってくる。
「ねえ、ひとつ頼みがあるんだけど」
「何だ?」
「あんまり、あの子を嫌わないでやって」
本人は、そんな態度を見せているつもりは全くなかったのだろう。ぎくりとした様子でラエルは大きく目を見開き、サリューを凝視した。
サリューは何も言わずに、ただ微笑んでいる。
「……善処する」
ラエルはそう言い置いて、謁見の間に向かった。
その日の【金の小鳥】は、笑顔は浮かべていたものの、どこか冴えない顔色をしていた。
王はまるで気付くことなく、先日行なわれた王妃の誕生祝いの宴でのことを延々と続け、陽菜子はそのひとつひとつに、笑ったり頷いたりと丁寧に相槌を打っている。王の横でその様子を白けた気分で眺めながら、陽菜子から自分を窺うようなおどおどした視線がないなと、ぼんやり思っていた。
その余裕もないのか。
施療院での陽菜子の姿を見てから、ラエルは、陽菜子を単なるお気楽な小娘だとはもう思ってはいなかった。王と話しているときに限らず、見かけると、あの笑顔の裏側で、一体何を考えているのかと、勘繰らずにはいられない。それで、つい王子らしい鷹揚な表情が剥がれていることもあるのは、らしくない失態ではあるが。
あの宴は──
さすがに、あれは【金の小鳥】が哀れだったとラエルは思い出す。
あまり顔を合わせる機会はなくても、王妃も【金の小鳥】のことは気に入っていて、宴でその姿を見て、非常に機嫌が良かった。それが一変してしまったのは主賓である王妃の手よりも先に、王が【金の小鳥】の手を取ってしまったことが原因だった。
王妃の前で跪き、
「聖宮に養われ、衣装も王から頂く身では、贈り物をすることは叶わない代わりに、せめて心から幸運と健康を祈らせてください」
という【金の小鳥】の顔に、王妃は杯を満たしていた酒をぶちまけることで応えた。
静まり返った場で、陽菜子は狼狽える姿も見せることなく、
「あたしの生まれ育った国には、お祝いの時にお酒をかける風習があるんです。王妃様、喜びを分け与えて下さって、ありがとうございます」
と、にっこりと笑ってみせたのだった。
どんな国だか知らないが、一張羅のドレスを台無しにするような風習などあるものか。
現に、陽菜子が王から贈られた、やわらかな光沢を持つ淡い黄色のドレスは、まるで血飛沫でも浴びたかのような、無惨なことになってしまっていた。
それでも、その場で王妃を叱責しかねなかった王の表情も緩むのに合わせるように、周囲の張り詰めた緊張も解け、止まっていた音楽も再び奏でられると、全てが動き始めた。
「しかしながら、少しばかり多く分け与え過ぎたみたいですね」
ラエルは、そういってその場から陽菜子を連れ出し、侍女に着替えを用意するように指示を出した。
それが届けられるまでの間、貴賓室の一室で陽菜子を休ませることにしたのだが、口をついて出たのは、
「お前は、莫迦か」
という言葉だった。畳み掛けるように、
「ドレスを台無しにされて、恥をかかされて、礼を言う莫迦がどこにいるんだ」
と、頭ごなしに言いながらも、紅色のフォンセ酒に濡れた髪と顔を、持っていたハンカチでラエルは拭ってやった。その手がややぶっきらぼうだったのは黙過してもらいたいところだ。
「あの、でも……あたしがいた国のお酒って、透明なんです。だから……」
真偽のほどはともかく、声も身体も震わせて、それでも陽菜子は必死で微笑おうとしていた。
が、慰めの言葉ひとつ掛けることのないまま、程なく、大急ぎで調達したものにしては、ずいぶんと陽菜子に似合うデザインのドレスを抱えた侍女が駆け込んで来て、ラエルは部屋を追い出されたのだった。
その後、何事もなかったかのように宴は夜更けまで続けられたとはいえ、その時の話などして、陽菜子が楽しいわけがないと、ラエルでさえ思う。王を挟んで反対側にいる宰相のルース・ハーンもやや苦いものを顔に滲ませていた。
まだ予定されている時間を残していたが、
「王、今日は【金の小鳥】を早めにお返し願いたいと、聖宮から連絡が入っております」
ふいにラエルは、会話を遮った。
「聞いておらぬ」
「なんでも、【天の星見】が、昨夜、不審な星の動きを見たとかで」
不快感も露に顔を顰めながらも、王は渋々立ちあがった。
その後、そんな連絡は受けていないと首を傾げるソナとともに、大慌てで聖宮に戻った二人は、狐につままれたような一日を過ごすことになったのは言うまでもない。
そんなわけで、予定外に王と【金の小鳥】の歓談が早く終わったことなど知らぬサリューは、部屋を訪れたラエルに、無防備な表情を思い切り晒してしまうことになった。
慌てふためくことすら出来ず、呆然と固まるサリューに、
「そんな顔で国に帰るなよ」
冗談めかして、口許を緩めたラエルに、
「どんな顔だよ……」
と、どうにか苦笑を返したものの、うまく表情を取り繕えたとは、サリュー自身、思えなかった。
「薄幸の姫君、ってとこだな。似合わないこともないが、ラウィニアの婚約者として、堂々と帰国してくれ」
「分かってる。厚意を無駄にはしないよ」
椅子に深く腰掛けて目を閉じると、神経質で、繊細な性格が露になっていた表情は、徐々におっとりと和やかなものの中へと沈んでいった。
「……心配しなくても、大丈夫。もう、大丈夫だ」
明日になれば、一国の皇子に相応しい凛々しさと自信を纏わせることになるのだ。サリューはいつものように笑ってみせた。
「今日は、早かったんだね」
「ヒナコの顔色が悪かったからな」
「ヒナコの?」
「……宴でのことを王が話していたからな」
祝いの席には呼ばれていなかったが、事のあらましは聞いていたサリューも、険しい顔になる。
「あの後、王妃が謝罪の文と贈り物をしてくれたと、嬉しそうに話してたがな」
「あの子は、まったく……」
がくん、と肩を落としたサリューの溜め息は深い。
向かい合った椅子に腰を降ろしたラエルも組んだ足の上に両肘を付き、そっと横に息を逃した。
いつもなら、宰相補佐について、政務に付かねばならないところだが、ここ数日はサリューの帰国準備もあり、比較的ラエルは自由な時間を得ていて、面倒なところはとりあえず片付いた今、このやや重苦しい空気から逃げ出す理由を奪っていた。
おそらく、サリューからは尋ねないだろう。
ちらと様子を窺う限り、背もたれに身体を預けて、脱力気味のサリューは単に陽菜子のことを案じているように見える。確かに、帰国を告げるタイミングが悪かったことは否めない。
「なあ」
「んー?」
とぼけた応えに、すこしほっとしながら。
「俺は【金の小鳥】は嫌いだが、別にヒナコを嫌ってるわけじゃない」
薮から棒にラエルは切り出した。
「祖母のユフィリアが、【金の小鳥】を嫌っていたというのは、お前も知っているんだろう?」
「まあ、僕の大叔母様でもある方のことだしね」
サリューは小さく肩を竦めた。
「先代の【金の小鳥】が現れたことで、王の寵愛を失ってしまわれたことは聞いているだろう? それだけならともかく、【金の小鳥】は、正妃たるお祖母様の悪評を流して、庶民からの信用を失墜させた。おかげで、正妃とは名ばかりの存在に落とされてしまったんだ。味方になってくれる者もなく、心細い思いをしたと泣いておられたよ。【金の小鳥】が降りてくるまでは、本当に王は祖母を大切にしていて、幸せだったのにと。
今の父上の姿を見ていると、あながち祖母の一方的な言い分とは思えない。神からの賜り物だかなんだか知らないが、あれは、危険な気がする」
やたら堅苦しく話を締めたラエルに、
「僕にはただの女の子にしか見えないけどねえ」
サリューは暢気なひと言を返した。
「だいたい、聖宮からの回し者だぞ?」
「回し者って……」
言い方が余程おかしかったのか、くすくすと笑う口許をサリューは慌てて押さえた。言ったラエルにしても、陽菜子が何か任務を負わされて王城に来ているとは思っていない。例え背負わされても、あけすけになってしまって、役に立つかどうか怪しいところだ。
「……まあ、そういう柄には見えないな」
「だろ?」
その、のほほんとした笑みは、明日には剥がされて皇子の仮面を被るということが、ラエルには酷く痛ましい事に思えてならなかった。
微かに陽光を透かした雲で、空は一面、銀色に見える。
「そろそろ、雪が降るのかもしれませんね」
サリューは、空を見上げてそう言った。
「まだ、このくらいの寒さじゃ降らないと思うわ。ルサリアは寒がり?」
陽菜子は笑って首を傾げる。
「私は、南の国の生まれで、降っている雪を見たことがないんです」
積もっている雪も、遠い彼方の山並みに見かけたことがあるだけだ。
「雪が降ると、楽しいのよ。空から、白い花が降って来るみたいで、なんかわくわくするの。積もったら、みんなで雪合戦したいな」
「雪合戦?」
「雪玉をつくって、みんなでぶつけ合うの。すっごく寒いのに、汗びっしょりになっちゃうんだよ」
雪玉がどういうものか想像が付きかねる以上に、何かをぶつけ合うことが何故楽しいのかは、サリューには不思議だったが、陽菜子の表情を見る限り、傷つけ合うような行為ではないのだろうと思った。だから、自然と笑み、
「それは楽しみですね」
と言うことが出来た。
「じゃあ霜柱は見たことある?」
「霜柱?」
真冬の、うんと冷え込んだ朝になら、サリューの生まれ育ったところでも、霜が降りることがあり、植物の葉や窓に、華のような結晶が付いているのを見るのが、サリューは好きだった。でも、それが柱になったものなど見たことがない。
「寒い日の朝にね、土の上に氷の柱が立ってるの。踏むと、ぱきぱき音がして楽しいの」
氷の柱を踏む。
足の裏の感触、その音。
想像してみると、ふと顔がほころんで、今度は嘘偽りなく
「それは楽しそうだ」
と呟いていた。
「早く雪、降らないかな」
無邪気な顔で、陽菜子は空を見上げる。
空から降る白い花を一緒に見られたら良いのに。
そう思うと、サリューは、浮かべている表情が偽物にすり替わってしまった。
「ね、きっと雪合戦しようね。ソナと、ネイアスさん誘うから、ルサリアも誰か誘ってね」
陽菜子に、自分の帰国を知らせるかどうか、その瞬間まで迷っていた。
自分にとってはささやかな安らぎの時間であっても、所詮、僅かな時間、暇つぶしにもならないような言葉を交わすだけの、本当の名すら告げていないような間柄だ。次の機会に、ルサリアを呼んで返事がなければ、しばらくは気にしてくれるだろうが、やがて忘れてしまうに違いないと、サリューは思う。
それでも、出来ない約束はしたくなかった。ならば、別れの挨拶はしておくべきだろう。
「残念ですが、おそらく無理だと思います」
「どうして」
きらきらと輝くような笑顔が俄に曇った。
「明日、国に帰ることになりました」
「国に帰る?」
「ええ。噂では聞いておられるでしょう? 私はルウェルト皇国の生まれなんです」
「急、なの、かな、あたしが聞いてなかっただけ?」
陽菜子の少し強張った表情が、サリューには少し嬉しい。
「急なことです。父が倒れたという知らせがあったので」
「お父様のこと、心配ね。帰るまでに良くなられてるといいのに」
「そうですね」
陽菜子を呼ぶ声が微かに聞こえた。
「……行かなくちゃ。ね、また会える?」
泣きそうな笑顔に、やはり言わなければ良かったと思う反面、心の空虚な部分が満たされて行くような気がした。
「おそらく」
決着がついたなら、あるいは、という程度の確立だけれども、このくらいの嘘は許して欲しいと思った。
「元気でね」
「ヒナもお元気で」
手を振って見送る。
いつもと変わらぬ顔でいられたかどうかは、自信がなかった。
「満足したか?」
背後から、遠慮のない声がしたのは、それから随分と経ってからのことで、サリューの身体は冷えきっていた。その甲斐はあって、頭の中も、もう、すっきりとしている。
「我が儘言って、悪かったね」
「いや、もう、出立の仕度はほとんど済んでいるしな」
そう言って、ラエルは厚手のカップをサリューに手渡した。香辛料の入ったお茶だ。
「ありがとう」
とろりとした喉越しのそれは、甘くて少し辛みがあり、ひとくちふたくち飲むうちに、身体の中から、ほわりと暖かくなってくる。
「ねえ、ひとつ頼みがあるんだけど」
「何だ?」
「あんまり、あの子を嫌わないでやって」
本人は、そんな態度を見せているつもりは全くなかったのだろう。ぎくりとした様子でラエルは大きく目を見開き、サリューを凝視した。
サリューは何も言わずに、ただ微笑んでいる。
「……善処する」
ラエルはそう言い置いて、謁見の間に向かった。
その日の【金の小鳥】は、笑顔は浮かべていたものの、どこか冴えない顔色をしていた。
王はまるで気付くことなく、先日行なわれた王妃の誕生祝いの宴でのことを延々と続け、陽菜子はそのひとつひとつに、笑ったり頷いたりと丁寧に相槌を打っている。王の横でその様子を白けた気分で眺めながら、陽菜子から自分を窺うようなおどおどした視線がないなと、ぼんやり思っていた。
その余裕もないのか。
施療院での陽菜子の姿を見てから、ラエルは、陽菜子を単なるお気楽な小娘だとはもう思ってはいなかった。王と話しているときに限らず、見かけると、あの笑顔の裏側で、一体何を考えているのかと、勘繰らずにはいられない。それで、つい王子らしい鷹揚な表情が剥がれていることもあるのは、らしくない失態ではあるが。
あの宴は──
さすがに、あれは【金の小鳥】が哀れだったとラエルは思い出す。
あまり顔を合わせる機会はなくても、王妃も【金の小鳥】のことは気に入っていて、宴でその姿を見て、非常に機嫌が良かった。それが一変してしまったのは主賓である王妃の手よりも先に、王が【金の小鳥】の手を取ってしまったことが原因だった。
王妃の前で跪き、
「聖宮に養われ、衣装も王から頂く身では、贈り物をすることは叶わない代わりに、せめて心から幸運と健康を祈らせてください」
という【金の小鳥】の顔に、王妃は杯を満たしていた酒をぶちまけることで応えた。
静まり返った場で、陽菜子は狼狽える姿も見せることなく、
「あたしの生まれ育った国には、お祝いの時にお酒をかける風習があるんです。王妃様、喜びを分け与えて下さって、ありがとうございます」
と、にっこりと笑ってみせたのだった。
どんな国だか知らないが、一張羅のドレスを台無しにするような風習などあるものか。
現に、陽菜子が王から贈られた、やわらかな光沢を持つ淡い黄色のドレスは、まるで血飛沫でも浴びたかのような、無惨なことになってしまっていた。
それでも、その場で王妃を叱責しかねなかった王の表情も緩むのに合わせるように、周囲の張り詰めた緊張も解け、止まっていた音楽も再び奏でられると、全てが動き始めた。
「しかしながら、少しばかり多く分け与え過ぎたみたいですね」
ラエルは、そういってその場から陽菜子を連れ出し、侍女に着替えを用意するように指示を出した。
それが届けられるまでの間、貴賓室の一室で陽菜子を休ませることにしたのだが、口をついて出たのは、
「お前は、莫迦か」
という言葉だった。畳み掛けるように、
「ドレスを台無しにされて、恥をかかされて、礼を言う莫迦がどこにいるんだ」
と、頭ごなしに言いながらも、紅色のフォンセ酒に濡れた髪と顔を、持っていたハンカチでラエルは拭ってやった。その手がややぶっきらぼうだったのは黙過してもらいたいところだ。
「あの、でも……あたしがいた国のお酒って、透明なんです。だから……」
真偽のほどはともかく、声も身体も震わせて、それでも陽菜子は必死で微笑おうとしていた。
が、慰めの言葉ひとつ掛けることのないまま、程なく、大急ぎで調達したものにしては、ずいぶんと陽菜子に似合うデザインのドレスを抱えた侍女が駆け込んで来て、ラエルは部屋を追い出されたのだった。
その後、何事もなかったかのように宴は夜更けまで続けられたとはいえ、その時の話などして、陽菜子が楽しいわけがないと、ラエルでさえ思う。王を挟んで反対側にいる宰相のルース・ハーンもやや苦いものを顔に滲ませていた。
まだ予定されている時間を残していたが、
「王、今日は【金の小鳥】を早めにお返し願いたいと、聖宮から連絡が入っております」
ふいにラエルは、会話を遮った。
「聞いておらぬ」
「なんでも、【天の星見】が、昨夜、不審な星の動きを見たとかで」
不快感も露に顔を顰めながらも、王は渋々立ちあがった。
その後、そんな連絡は受けていないと首を傾げるソナとともに、大慌てで聖宮に戻った二人は、狐につままれたような一日を過ごすことになったのは言うまでもない。
そんなわけで、予定外に王と【金の小鳥】の歓談が早く終わったことなど知らぬサリューは、部屋を訪れたラエルに、無防備な表情を思い切り晒してしまうことになった。
慌てふためくことすら出来ず、呆然と固まるサリューに、
「そんな顔で国に帰るなよ」
冗談めかして、口許を緩めたラエルに、
「どんな顔だよ……」
と、どうにか苦笑を返したものの、うまく表情を取り繕えたとは、サリュー自身、思えなかった。
「薄幸の姫君、ってとこだな。似合わないこともないが、ラウィニアの婚約者として、堂々と帰国してくれ」
「分かってる。厚意を無駄にはしないよ」
椅子に深く腰掛けて目を閉じると、神経質で、繊細な性格が露になっていた表情は、徐々におっとりと和やかなものの中へと沈んでいった。
「……心配しなくても、大丈夫。もう、大丈夫だ」
明日になれば、一国の皇子に相応しい凛々しさと自信を纏わせることになるのだ。サリューはいつものように笑ってみせた。
「今日は、早かったんだね」
「ヒナコの顔色が悪かったからな」
「ヒナコの?」
「……宴でのことを王が話していたからな」
祝いの席には呼ばれていなかったが、事のあらましは聞いていたサリューも、険しい顔になる。
「あの後、王妃が謝罪の文と贈り物をしてくれたと、嬉しそうに話してたがな」
「あの子は、まったく……」
がくん、と肩を落としたサリューの溜め息は深い。
向かい合った椅子に腰を降ろしたラエルも組んだ足の上に両肘を付き、そっと横に息を逃した。
いつもなら、宰相補佐について、政務に付かねばならないところだが、ここ数日はサリューの帰国準備もあり、比較的ラエルは自由な時間を得ていて、面倒なところはとりあえず片付いた今、このやや重苦しい空気から逃げ出す理由を奪っていた。
おそらく、サリューからは尋ねないだろう。
ちらと様子を窺う限り、背もたれに身体を預けて、脱力気味のサリューは単に陽菜子のことを案じているように見える。確かに、帰国を告げるタイミングが悪かったことは否めない。
「なあ」
「んー?」
とぼけた応えに、すこしほっとしながら。
「俺は【金の小鳥】は嫌いだが、別にヒナコを嫌ってるわけじゃない」
薮から棒にラエルは切り出した。
「祖母のユフィリアが、【金の小鳥】を嫌っていたというのは、お前も知っているんだろう?」
「まあ、僕の大叔母様でもある方のことだしね」
サリューは小さく肩を竦めた。
「先代の【金の小鳥】が現れたことで、王の寵愛を失ってしまわれたことは聞いているだろう? それだけならともかく、【金の小鳥】は、正妃たるお祖母様の悪評を流して、庶民からの信用を失墜させた。おかげで、正妃とは名ばかりの存在に落とされてしまったんだ。味方になってくれる者もなく、心細い思いをしたと泣いておられたよ。【金の小鳥】が降りてくるまでは、本当に王は祖母を大切にしていて、幸せだったのにと。
今の父上の姿を見ていると、あながち祖母の一方的な言い分とは思えない。神からの賜り物だかなんだか知らないが、あれは、危険な気がする」
やたら堅苦しく話を締めたラエルに、
「僕にはただの女の子にしか見えないけどねえ」
サリューは暢気なひと言を返した。
「だいたい、聖宮からの回し者だぞ?」
「回し者って……」
言い方が余程おかしかったのか、くすくすと笑う口許をサリューは慌てて押さえた。言ったラエルにしても、陽菜子が何か任務を負わされて王城に来ているとは思っていない。例え背負わされても、あけすけになってしまって、役に立つかどうか怪しいところだ。
「……まあ、そういう柄には見えないな」
「だろ?」
その、のほほんとした笑みは、明日には剥がされて皇子の仮面を被るということが、ラエルには酷く痛ましい事に思えてならなかった。
2008.08.21
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