星月夜の森へ

─ 18 ─

 アトールの門は、基本的に夜半から夜明けまでは閉じられる。その間、某かの理由で出入りする時は、その横にある小さな扉から出来ないことはないが、男だけに限られることはいうまでもない。
 ここには、カーラスティン最強のヴァナルガンド騎士団の一個小隊に匹敵すると噂される備えがあり、たとえ傾城の強奪に盗賊が襲い掛かってこようと、歯牙にもかけまい。各々の楼閣に雇われている衛士も、腕に覚えのある者たちばかりだ。ある意味、最強の要塞であり、頑強な檻といえた。
 そんな場所に、忍びこむというのは、命知らずといえるだろう。
 無論、意中の上臈を攫おうとした男の話は枚挙に暇が無いが、そのほとんどは話の種にもされない。精々、馬鹿な男がいた、という程度だ。河を渡って逃げ出そうとした上臈も然りで、たとえ河に命を奪われなかったとしても、追っ手から逃れた者はいないし、その末路は誰も口にしない。手に手を取って彼方の地へ逃げ延びるなどというのは、草双紙での中でしかありえないことなのだ。
 だから、ファーランは誰にも胸の内を語ることなく、その日が来るのを待っている。
 彼女が背負っていた負債は、最初はさしたるものではなかった。商売に失敗した両親が金貸しに騙され、相当格下の楼閣に彼女を売ったのは十二の時。そこで、衣装だの装飾品だのを用意される度に借財に上乗せされた額はいつの間にかもとの借財を上回り、二度とこの町からは出られまいと十五の時には諦めた。十六の時に巡り会った客が、その身の上を聞いて奔走してくれなかったら、河に身を沈めていたかも知れない。
 幸運にも銀月楼の楼主の目に叶い、移ったあとは、あれよあれよという間に傾城にまで上り詰めた。けれども、ほんの少し、未来を夢見ることができるようになった頃には、一番大切になっていた人とは、滅多なことでは会えなくなってしまっていた。幸か不幸か、銀月楼の傾城と一夜を過ごすには、少なからぬ金子が必要なのである。
 客から贈られた豪華な品々の中で、彼女が唯一大切にしているのは、粗末な文箱の中にしまわれた文と、ささやかな贈り物だ。楼主の目こぼしで、与えられる僅かな逢瀬の時間は、年に数えるほどもなく、かの人が、家の事情で王都を離れる前と後も、さほど変わらないほどだ。寄り添う双月が満ちる日は、やはり彼女は一番の上客と過ごしたけれど、その翌日は、楼主の計らいで安らかなひと時を過ごすことができたのだった。
 銀細工の、傾城が身を飾るには地味で粗末とさえいえるが、もし、市井の者であるなら、品の良い貞淑な妻が身に着けるに相応しい造りの簪と、珍しい魔除けを置いて彼は帰って行った。
 名残惜しく思いながらも、髪から外した簪は、いつかの日の為に大切に仕舞ったが、魔除けだけはこっそりと懐に忍ばせている。
 久々に、ちょっと身の回りのものと、籠女に上がったリシェに、何か祝いの品でもと町に出た時のことだった。
 随分と見目の良い男を見かけた。
 それなりに男を見る目が養われているファーランが見ても、上等な部類に入る。身に付けている衣服も、醸し出す雰囲気は貴族と言ってもおかしくない。それにしては、静穏な中に猛々しさも垣間見え、思わずファーランは立ち止まって彼に見蕩れてしまった。
 ふと目が合ったかと思うと、彼は大きな歩幅で近付いて来た。偶然ではない証拠に、全く目を逸らそうともしない。まさか、こんな町中で何かあるとは思えなかったが、ファーランはさっと身を翻すと来た道を取って返した。もし後を付いて来るなら撒いてしまおうと、小路に入ったのは、大きな間違いだった。
 人気が絶えるなり、いきなり肩をつかまれた。
 見回り番を呼ぼうと、大声を上げようとしてやめたのは、
「お前は、何を持っている?」
 問いが意外なものだったからだ。
「……え?」
「懐にあるのは、何だ?」
 男の表情からも、ファーラン自体に興味がないことは、明白だった。
「魔除けだけど……」
 そっと懐から取り出して見せると、男は不愉快そうに目を細めた。
「何故お前が持っている?」
「もらったのよ」
「誰から?」
「……大事な人から」
「どこで手に入れたか知っているか」
「知らないわ。ただ、人にもらったとだけ」
 僅かな変化ではあるが、男は困惑しているようだった。
 しばらくファーランとその魔除けを睨むように見ていたが、すっと表情が消えた。
「銀月楼を知っているか」
「ここで、知らない人間がいたら、お目にかかりたいものだわ」
 僅かに震える声で言い捨てて、踵を返したファーランを、男は追っては来なかった。

◇ ◆ ◇

 ティレンは、随分と古びて、角がぼろぼろになってしまっている一冊の絵本を閉じると、眉間に皺を寄せて目を閉じた。
 これまで聖宮の書記官が綴って来た日記、記録、その他、様々な研究書や遺跡から場所を移した石版などが納められた部屋の中に、子供向けの絵本や巷に流布する絵双紙などまでが山と積まれている。
 カーラスティン建国よりも昔から伝わる神話の中で、子供たちがよく聞かされるのは、初めて王が誕生した話だろう。
 ティレンが手にしている絵本もそれだ。
 創造神ウェルディーンが眠りについた時代に、世界を荒らした魔神と生み出された悪魔たちを退けて、人々を守った勇者と賢者の物語。
 勇者に知恵を授け、人々には自らの髪で作った魔除けを与えたという賢者が、果たして何者だったのか、勇者が王になった後、どうなったかを伝える物語はない。
 そもそも、黒髪の人間というのが、伝説の存在だ。
 ツァルト国に黒髪の一族が住む郷があるというが、それすらも与太話に近く、ツァルト国に赴いた大使が、黒髪の人間を見たと自慢げに話していたが、染めていないとも限らない。
 たくさんの記録を紐解きながら、気になったのは、【金の小鳥】に関する伝承のバリエーションだった。
 カーラスティン初代の王となった若者には従者がいたというのは幾つかある。そのひとつでは、それは黒髪の賢者で、歌で【金の小鳥】を呼ぶことを助言したのもその賢者だという。
 賢者というなら、黒髪に限らずともいいのに、偶然なのか、先に伝わる神話にあやかった脚色にすぎないのだろうか。
 つらづらと考えたところで答えなど出るはずも無いが、幼馴染みからもたらされた話は、思わぬ僥倖だった。さすがにその魔除けが今、誰の手にあるのかまでは聞き出せず、実物を目にすることはまだ出来ていないが、それも間もなくのことだろう。そして、その髪の主を見つけ出すことは、【闇月】を見つけ出すことの何らかのきっかけになるような気がしてならないのだ。【闇月】そのものであるという予感すらある。
 それが確信に変わったのは、翌日のことだった。

 早馬を飛ばして帰って来たフレイを見て、ティレンは落胆した。
 やはり、黒髪の人間など、いなかったか。
 もちろん、最初からフレイがつれて帰って来ると皮算用をしていたわけではないが、世も明けやらぬうちから叩き起こされたのでは、少しばかり期待してしまうのは仕方ないところだ。
「……何事です?」
「ご挨拶だねえ、人が、こんなに急いで帰って来たと言うのに」
 何が面白いのか、にやにやとしているフレイの顔が、どうにも気に触る。
「報告なら、もう少し常識的な時間にお願いしたいのですが」
 陽菜子ほどではないが、ティレンも朝はさほど強くない。限りなく機嫌の悪そうな低い声でそういうと、朝から巫山戯た遊び人風情の幼馴染みを睨みつけた。
「せっかく面白い話を持って来たのに、後でも構わないんだ?」
 憎たらしい言い様だが、仮にも王都を守護する騎士団の、双璧とも呼ばれる者を、私事で無理をさせたのだから、多少は目をつぶらねばなるまいと、ティレンは実際に気持ちを納める為に目を閉じた。
「……話を聞きましょう」
 客間に招き入れられると、お茶も出されないうちから、フレイは嬉々としてことの顛末を語った。
 フレイが、先にお茶を出してもらえば良かったと後悔しても後の祭りで、話の半ばでティレンは、いろいろ頑張った幼馴染みに朝食どころかお茶を振る舞う程度の心配りをする余裕すら失っていた。
「では、その保護されていた少女が黒髪の人間だと?」
「確証はないけどな。で、迎えが来て連れて行ったんだとさ」
「迎え……」
「旅の一座から逃げていたとか、そんな感じかもな」
「……腑に落ちませんね」
「何が?」
「謝礼を受け取った一家のことです。その後、何故、殺されなくてはならないのでしょう?」
「殺された、って、獣に襲われただけのことだぞ?」
「町中でそんなことがあれば、獣狩りの一団を組んでもおかしくないのに、話を聞いていると、特にそんなこともなさそうですが?」
「獣がいなくなったら、盗賊が戻って来るかもしれないからだろ」
「……それもそうでしょうけれど、それまで、獣が町中にまで人を襲いにくることなどなかったから、安心していた。そして、新参者の一家が襲われた。おおかた、訳ありの一家だとでも思われていたのでは?」
「親父は飲んだくれ、息子は悪い仲間に入っちまって、奥方も心労が絶えなかったって話だが」
「真っ当なものにとって、獣は恐れる必要がないということなのではと思うのです」
「つまり、獣に殺されたってのは嘘だと思うわけだ」
「そう考えた方が自然ではありませんか?」
「あー、面倒くさく考えるとそうかもな」
 幼い頃から、こいつはこうして理屈をつけるのが好きだったな、とフレイは内心にんまりと笑った。この不自然な一連の出来事を、聞かせれば、この幼馴染みがいろんな方向に思考を飛ばすのは分かっていたから、一家の不幸を悼む気持ちがないわけではないが、それが楽しみだったのだ。
「もしかしたら、一家は、その黒髪の少女を、人買いに売ったのでは? 珍しい見目なら、踊りでも仕込んで見せ物にでもしたら、それなりの儲けが見込めそうなものですが」
「……えげつない話だな」
「可能性としてどうでしょう?」
「有り得ない話じゃあないが、迎えが来たというのもおかしな話じゃない。だいたい、一家が殺される理由はなんだ?」
「口封じ、でしょうか……」
「何の為のだ? むしろ、売られた娘の縁者が腹いせに殺した、ってほうがまだ分かる」
「なるほど。せめて娘の行方がわかれば……」
 こうして思い悩む姿を見るのが楽しいというのも悪趣味な話だが、王立学院で机を並べていた子供の頃から、ことあるごとにやり込められて来たフレイとしては、溜飲を下げた気分だ。尤も、自身の力でないのが甚だ不本意なところだが。
「これ以上の情報がない以上、堂々巡りだ」
「そうですね」
 ようやく落ちた沈黙に、その機会を窺っていたのだろう、使用人のひとりが、朝食の用意が出来たことを告げた。
 がつがつと朝食を貪るフレイを置いて、ティレンは聖宮へと急いだ。いつもよりやや遅い時間になってしまったが、陽菜子を迎えに行き、朝の祈りを捧げるためだ。
 その後は滞りなく【地の星見】として、【金の小鳥】の世話役としての業務をこなしていたティレンに、要塞にも等しいアトールから、花影のひとりが攫われたという報告が届いたのは、日暮れ近くになってのことだった。

2008.08.20
 

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