星月夜の森へ
─ 17 ─
──さて、どうしたものかねえ。
ヴィリスは、物憂げに煙管をくゆらせる。
たしなみと箔付けのために、客の前で吸ってみせることはあっても、自分からは滅多に欲することの無いそれを、起きぬけから手許に煙草盆を引き寄せているときは、近付かないに限ることを、銀月楼の人間は皆知っていた。
由井も察して、後で髪に付いた匂いを落とす為に入るであろう風呂の仕度をしていた。さすがに銀月楼の傾城ともなれば、専用の風呂がある。おかげで、由井は自分の身体を他人に見せずにすんでいる。
艶やかな外見とは裏腹に、入浴時は夜の草原のような香りを好む。その後湯を使うことも多い由井にも、既に肌に染み入り馴染んだ香りだ。摘んだばかりのティーカーザの葉をひと掴み、薄手の布袋に入れて、風呂に入れておくと香りばかりでなく、肌をすべらかにする効能もあるのだ。まさか傾城の気に入りの入浴用香草がツェミレ河のほとりで雑草と混じって旺盛に育つその葉だとは誰も思わないだろう。
冬でもその香りを楽しめるように、夏の間に摘んだ葉を乾燥させて、香り袋を幾つも由井に作らせてある。舞だけでなく、手先も器用なことが分かってから、縫子の手を煩わすまでもないような繕い物なども、由井にやらせていた。
こつん、と灰吹きに灰を落とし、ヴィリスは窓を開け放った。
そろそろ暖をとる火を入れても良いかというこの時期、空気は冷たく、空は抜けるように青い。
ファーランの花影だったリシェが上臈に上がったのは、つい先日のことだ。ファーランの上客から目を掛けられているし、位は端女、見世花を飛ばして籠女、最高位の傾城に登るのもさほど先の未来では無いだろう。その前に、身請けされていくかもしれない。
間もなく、傾城のすぐ下位の格子であるミオーネの年季も明ける。
さすがに、由井を花影のままで置いておくことは、難しくなっていた。
客をとらせるかねえ。
花影がいずれどういう仕事をするのかは、目の前で見せているから、覚悟ぐらいはしているだろうし、妙な情けなどかけたところで仕方が無い。由井の為に支払った額は少なくないのだ。とうに年季など明けている身だが、蓄えの半分ほどはそれで消えてしまっている。湯女や縫子などの裏仕事を死ぬまで続けたとて、購えるものではない。
自分が抱える上客の中で、任せるとしたら誰かと考えながら、ふうっと煙を吐いた。
どうしてこんな面倒な者を引き受けてしまったのか。
単なる予感だ。放っておいてはいけないという。
そんな時は、己の身に流れる一族の血を、強く感じる。予言の力をもっていたばかりに、権力者たちに望まれ忌まれ、しまいには追われる身となり、滅びの道をたどらされた己が一族。【風聴き】と呼ばれるけれど、あるのは遠くの音を聞けるという肉体的な能力ではない。体全体で風の流れを感じて、世界に響き渡る旋律をとらえる感覚だ。その響きを求めて流浪し、楽器に映して生業としていたのは、もう遠い昔のことだった。
◇ ◆ ◇
ムレットは、王都から徒歩なら数日ほど掛かる片田舎の町だ。もっと無骨で草臥れた風情を想像していたフレイは、その活気と田舎なりにあか抜けた様子に満足していた。
街を歩く娘たちの姿もなかなかどうして、捨てたものではない、とそのあたりにまず目が行くのは、フレイがフレイたるゆえんだろう。厩がきれいな宿を選んで馬を預けた後、夕食も兼ねて町を廻ってみると、どうやら盗賊がらみで街道をさける商隊が増えたことで、ここが新たな交通の要所となり始めているらしいことが分かった。
それにしても、まさか久しぶりにかつての部下に合ったことで、こんな厄介事に巻き込まれるとは思いもよらぬことだった。
しかも、私事で、だ。
一応、ヴァナルガンド騎士団第二大隊長副官、というのが彼の正式な肩書きである。将軍、大隊長に次ぐ権限は持っているし、剣の腕もさることながら、斧槍を持たせれば彼の右に出る者はまずいない。重量があり破壊力の高いそれを、自在にかつ繊細に扱えるだけの膂力と技量を併せ持つものが稀なのだ。
そんな彼を、平気の平左で私事に使うのは、今は聖宮に勤める幼馴染みだった。
ちょうど王都守護の月番が変わり、手隙になった頃を見計らって、のびのびになっていた弟夫婦のもとに生まれた子供の誕生祝いに、久しぶりに実家に帰った。修練所で弟とも仲の良かったナーダに合ったことを話したのは、自然な成り行きだろう。まさか、その話が、幼馴染みのもとにまで届いて、自分に災禍が降り掛かるなど誰が想像するだろう。
それから数日後、騎士団の宿舎にフレイを尋ねて来た女がいた。歳の頃はフレイより幾つか下くらいで、身に付けている衣服からは、中流程度の貴族だろうと思われた。しかも、既婚の印はどこにも着けていない。
フレイが恐ろしいほどきっちりと、公私の区別を付けることは有名な話で、そんなことをすれば即捨てられることを女たちは知っている。よほど思い詰めたいるのかと思えば、どうもそんな切羽詰まった様子もない。
さては、と、ほんの短い間に、憶測が一気に飛び交った。
血相を変えた部下に呼ばれて、宿舎の待ち合い室にまで赴いてみれば、そこでにっこりと愛想の良い笑みを浮かべて待っていたのは、ティレンだった。
「何しに……?」
快活なフレイらしからぬ、やや及び腰な物言いになったのも致し方ない話で。
「お話を伺いに」
いつもは聖宮の堅苦しい衣装しか身につけない幼馴染みが、普通にドレスなんぞを着て笑っているというのは、ぞっとしない話だ。嫌でも悪い予感を起こさせた。
「何の」
「黒い髪で編まれた魔除けの話です」
「は?」
「あなたの以前の部下だそうですね? どこでそれを手に入れたのか、聞いていますか?」
ドアの向こうでは、興味に満ち満ちた連中が聞き耳を立て、どんな甘い会話をしていることかと想像しそうな、やわらかな表情のまま、ティレンは淡々と用件を述べた。
そうして、ナーダが魔除けを手に入れたという村へと行かされる羽目になったのである。
月番が第一大隊に移っていて、第二大隊に属するフレイが休みを取り易かったというのも見越されていたに違いない。
別に弱みを握られているわけではない。断ろうと思えば出来たのに、それをしなかったのは、元来の好奇心の強さに負けてしまったからだ。いくらティレンでも、幼馴染みここまでの無理は滅多なことでは言わない、はずで。一体、あの鉄仮面の裏で何を画策しているのか、知りたくなったのだ。 まず、村長の家に乗り込んで、その息子に話を聞くと、どうも要領を得ない。
普段から、余り褒められた素行ではないこの息子、村の若者何人かとつるんで、妙な格好をした旅人を襲ったらしいことは、締め上げて聞き出した。が、その肝心な旅人とやらの行方はさっぱり分からなかった。
こういうときは井戸端のご夫人たちを頼るに限る。
そこで、異国人を保護した一家がいたことを耳にした。直接的な繋がりは分からなかったが、それに賭けてムレットへ向かったのだった。
翌朝、嫁に行ったというドーミク家の娘を尋ね、あの村からやって来た一家のことを早速尋ねてみると、
「ああ……あの人たちなら、もういませんよ」
臨月らしい大きなお腹をさする彼女から、物騒な答えが返って来た。
「だんなさんと息子が酒場からの帰り道に、獣に襲われたんですよー」
「こんな町中で?」
「前から、あの森に恐ろしい獣が住み着いているって噂があるんです。だから、それにやられたんじゃいかって」
「盗賊じゃなくて?」
「ああ、違いますよう。その獣を怖がって、盗賊が根城を替えたらしいんです。それで、この町が潤うようになったから、獣様々ってみんな言ってますよ」
娘はにこにこと言い切った。確かに、獣よりは盗賊の方が厄介だろうし、おまけに町が賑わうようになったのだから美味しい話には違いない。それを素直に喜べる神経はやや不可思議だが。
「で、一家は今どこに?」
「町外れの墓地ですよ」
「え?」
「朝、だんなと息子は血まみれで発見された時にはとうに死んでたし、奥さんも、それからすぐ病に倒れて後を追うように」
お腹の子供が怯えてないか、心配になるようなことを、ぽんぽん口にされて、フレイはやや顔を引き攣らせた。
「せっかく謝礼金もらって、お店やるために来たのに、だんなはすっかり酒に溺れちゃって、息子は悪い遊びばーっかり覚えて、あの村にいれば、こんなことにならなかったに違いないんですけどね」
しみじみと娘は話を締めくくった。
いったいこれは、どういうことなのだろう?
幼馴染みを納得させられるだけの調査になった自信は持てなかったが、なんとも奇妙なことになってきたものだと、フレイは不謹慎にもこの事態を面白がっていた。
ヴィリスは、物憂げに煙管をくゆらせる。
たしなみと箔付けのために、客の前で吸ってみせることはあっても、自分からは滅多に欲することの無いそれを、起きぬけから手許に煙草盆を引き寄せているときは、近付かないに限ることを、銀月楼の人間は皆知っていた。
由井も察して、後で髪に付いた匂いを落とす為に入るであろう風呂の仕度をしていた。さすがに銀月楼の傾城ともなれば、専用の風呂がある。おかげで、由井は自分の身体を他人に見せずにすんでいる。
艶やかな外見とは裏腹に、入浴時は夜の草原のような香りを好む。その後湯を使うことも多い由井にも、既に肌に染み入り馴染んだ香りだ。摘んだばかりのティーカーザの葉をひと掴み、薄手の布袋に入れて、風呂に入れておくと香りばかりでなく、肌をすべらかにする効能もあるのだ。まさか傾城の気に入りの入浴用香草がツェミレ河のほとりで雑草と混じって旺盛に育つその葉だとは誰も思わないだろう。
冬でもその香りを楽しめるように、夏の間に摘んだ葉を乾燥させて、香り袋を幾つも由井に作らせてある。舞だけでなく、手先も器用なことが分かってから、縫子の手を煩わすまでもないような繕い物なども、由井にやらせていた。
こつん、と灰吹きに灰を落とし、ヴィリスは窓を開け放った。
そろそろ暖をとる火を入れても良いかというこの時期、空気は冷たく、空は抜けるように青い。
ファーランの花影だったリシェが上臈に上がったのは、つい先日のことだ。ファーランの上客から目を掛けられているし、位は端女、見世花を飛ばして籠女、最高位の傾城に登るのもさほど先の未来では無いだろう。その前に、身請けされていくかもしれない。
間もなく、傾城のすぐ下位の格子であるミオーネの年季も明ける。
さすがに、由井を花影のままで置いておくことは、難しくなっていた。
客をとらせるかねえ。
花影がいずれどういう仕事をするのかは、目の前で見せているから、覚悟ぐらいはしているだろうし、妙な情けなどかけたところで仕方が無い。由井の為に支払った額は少なくないのだ。とうに年季など明けている身だが、蓄えの半分ほどはそれで消えてしまっている。湯女や縫子などの裏仕事を死ぬまで続けたとて、購えるものではない。
自分が抱える上客の中で、任せるとしたら誰かと考えながら、ふうっと煙を吐いた。
どうしてこんな面倒な者を引き受けてしまったのか。
単なる予感だ。放っておいてはいけないという。
そんな時は、己の身に流れる一族の血を、強く感じる。予言の力をもっていたばかりに、権力者たちに望まれ忌まれ、しまいには追われる身となり、滅びの道をたどらされた己が一族。【風聴き】と呼ばれるけれど、あるのは遠くの音を聞けるという肉体的な能力ではない。体全体で風の流れを感じて、世界に響き渡る旋律をとらえる感覚だ。その響きを求めて流浪し、楽器に映して生業としていたのは、もう遠い昔のことだった。
ムレットは、王都から徒歩なら数日ほど掛かる片田舎の町だ。もっと無骨で草臥れた風情を想像していたフレイは、その活気と田舎なりにあか抜けた様子に満足していた。
街を歩く娘たちの姿もなかなかどうして、捨てたものではない、とそのあたりにまず目が行くのは、フレイがフレイたるゆえんだろう。厩がきれいな宿を選んで馬を預けた後、夕食も兼ねて町を廻ってみると、どうやら盗賊がらみで街道をさける商隊が増えたことで、ここが新たな交通の要所となり始めているらしいことが分かった。
それにしても、まさか久しぶりにかつての部下に合ったことで、こんな厄介事に巻き込まれるとは思いもよらぬことだった。
しかも、私事で、だ。
一応、ヴァナルガンド騎士団第二大隊長副官、というのが彼の正式な肩書きである。将軍、大隊長に次ぐ権限は持っているし、剣の腕もさることながら、斧槍を持たせれば彼の右に出る者はまずいない。重量があり破壊力の高いそれを、自在にかつ繊細に扱えるだけの膂力と技量を併せ持つものが稀なのだ。
そんな彼を、平気の平左で私事に使うのは、今は聖宮に勤める幼馴染みだった。
ちょうど王都守護の月番が変わり、手隙になった頃を見計らって、のびのびになっていた弟夫婦のもとに生まれた子供の誕生祝いに、久しぶりに実家に帰った。修練所で弟とも仲の良かったナーダに合ったことを話したのは、自然な成り行きだろう。まさか、その話が、幼馴染みのもとにまで届いて、自分に災禍が降り掛かるなど誰が想像するだろう。
それから数日後、騎士団の宿舎にフレイを尋ねて来た女がいた。歳の頃はフレイより幾つか下くらいで、身に付けている衣服からは、中流程度の貴族だろうと思われた。しかも、既婚の印はどこにも着けていない。
フレイが恐ろしいほどきっちりと、公私の区別を付けることは有名な話で、そんなことをすれば即捨てられることを女たちは知っている。よほど思い詰めたいるのかと思えば、どうもそんな切羽詰まった様子もない。
さては、と、ほんの短い間に、憶測が一気に飛び交った。
血相を変えた部下に呼ばれて、宿舎の待ち合い室にまで赴いてみれば、そこでにっこりと愛想の良い笑みを浮かべて待っていたのは、ティレンだった。
「何しに……?」
快活なフレイらしからぬ、やや及び腰な物言いになったのも致し方ない話で。
「お話を伺いに」
いつもは聖宮の堅苦しい衣装しか身につけない幼馴染みが、普通にドレスなんぞを着て笑っているというのは、ぞっとしない話だ。嫌でも悪い予感を起こさせた。
「何の」
「黒い髪で編まれた魔除けの話です」
「は?」
「あなたの以前の部下だそうですね? どこでそれを手に入れたのか、聞いていますか?」
ドアの向こうでは、興味に満ち満ちた連中が聞き耳を立て、どんな甘い会話をしていることかと想像しそうな、やわらかな表情のまま、ティレンは淡々と用件を述べた。
そうして、ナーダが魔除けを手に入れたという村へと行かされる羽目になったのである。
月番が第一大隊に移っていて、第二大隊に属するフレイが休みを取り易かったというのも見越されていたに違いない。
別に弱みを握られているわけではない。断ろうと思えば出来たのに、それをしなかったのは、元来の好奇心の強さに負けてしまったからだ。いくらティレンでも、幼馴染みここまでの無理は滅多なことでは言わない、はずで。一体、あの鉄仮面の裏で何を画策しているのか、知りたくなったのだ。 まず、村長の家に乗り込んで、その息子に話を聞くと、どうも要領を得ない。
普段から、余り褒められた素行ではないこの息子、村の若者何人かとつるんで、妙な格好をした旅人を襲ったらしいことは、締め上げて聞き出した。が、その肝心な旅人とやらの行方はさっぱり分からなかった。
こういうときは井戸端のご夫人たちを頼るに限る。
そこで、異国人を保護した一家がいたことを耳にした。直接的な繋がりは分からなかったが、それに賭けてムレットへ向かったのだった。
翌朝、嫁に行ったというドーミク家の娘を尋ね、あの村からやって来た一家のことを早速尋ねてみると、
「ああ……あの人たちなら、もういませんよ」
臨月らしい大きなお腹をさする彼女から、物騒な答えが返って来た。
「だんなさんと息子が酒場からの帰り道に、獣に襲われたんですよー」
「こんな町中で?」
「前から、あの森に恐ろしい獣が住み着いているって噂があるんです。だから、それにやられたんじゃいかって」
「盗賊じゃなくて?」
「ああ、違いますよう。その獣を怖がって、盗賊が根城を替えたらしいんです。それで、この町が潤うようになったから、獣様々ってみんな言ってますよ」
娘はにこにこと言い切った。確かに、獣よりは盗賊の方が厄介だろうし、おまけに町が賑わうようになったのだから美味しい話には違いない。それを素直に喜べる神経はやや不可思議だが。
「で、一家は今どこに?」
「町外れの墓地ですよ」
「え?」
「朝、だんなと息子は血まみれで発見された時にはとうに死んでたし、奥さんも、それからすぐ病に倒れて後を追うように」
お腹の子供が怯えてないか、心配になるようなことを、ぽんぽん口にされて、フレイはやや顔を引き攣らせた。
「せっかく謝礼金もらって、お店やるために来たのに、だんなはすっかり酒に溺れちゃって、息子は悪い遊びばーっかり覚えて、あの村にいれば、こんなことにならなかったに違いないんですけどね」
しみじみと娘は話を締めくくった。
いったいこれは、どういうことなのだろう?
幼馴染みを納得させられるだけの調査になった自信は持てなかったが、なんとも奇妙なことになってきたものだと、フレイは不謹慎にもこの事態を面白がっていた。
2008.08.18
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