星月夜の森へ

─ 16 ─

 王城から聖宮へ帰る馬車の中、二人は何故か、こっそりと溜め息を零していた。

 王城に来て、控えの間に通されると、陽菜子は直ぐに露台に出る。
「ルサリア、いる?」
 下の階に向けて声を掛けると、大抵、「いますよ」とやわらかな声と供に、のほほんとした雰囲気の少年が顔を見せる。歳は陽菜子よりも上なのに、彼はいつも丁寧な言葉を使い、
「こんにちは、ヒナ。あのあたりに、ラスカレンの花が盛りを迎えましたよ。そろそろ秋も終わりですね」
 そんな挨拶が返すのもいつものこと。彼の指差す先は淡いピンク色に染まる庭園の一角で、先日、蕾がついたのだと話していた場所だ。見かけた鳥や空の色、風の匂いで雨を予言したり、その琥珀色の瞳に映るものは、少しばかり自分とは違うような気さえして、陽菜子もふと空を見上げてみたりする。
「スーグの実が熟れる頃ですね」
「スーグ?」
「ほら、夏に白と紫の花が咲いていた樹があったでしょう?」
「あ、あの、きらきらした葉っぱの!」
「ええ。熟すと夕焼けみたいな色になって、自分から落ちてくるんです」
「じゃあ、うっかりあの樹の下をあるけなくなるのね」
「皮が硬いから、当たると痛いですよ。でも、甘酸っぱくて、おいしいんです」
 そんな話をしているうちに、謁見の時間になり、迎えが来る。
「じゃあ、行くね」
「はい。またお会いしましょう」
 さらさらした亜麻色の髪を揺らして、彼は陽菜子に手を振る。
 内容を思い返せば、意味があるとも思えないような、花が咲いただとか天気のことだとかなのに、不思議と温かな気持ちが満ちていて、陽菜子はこの時間が大好きだった。
 そうして、やはり一国の王と対面するという緊張と、最近気付いてしまったあることで、やや強張っていた顔に素直であどけない表情が戻っていることを陽菜子は知らない。
 それに、陽菜子は王と過ごす時間も楽しみなのだ。
 どこが似ているというわけではない、いや、姿形だけでいえば、類似点などほぼ皆無なのだが、王と話していると不思議と祖父のことを思い出す。よくよく思い返してみると、声のトーンが似ていた。
「よく来たね、ヒナコ」
 特に名を呼ぶ時、深みのあるバリトンに、やわらかさが混じるところが。
 普段はとても厳めしく、まさに王たる威厳に満ちている人が、相好を崩して迎えて入れてくれることも嬉しい。まさか本当の祖父のように、その膝に乗って甘えるわけにはいかないし(だいたいそんな歳でもない)、そこまで気安くもないが、
「寒くなって来たが、風邪など引いてないかね?」
 そんな風に気遣ってくれる王には、祖父に感じるものに近い情を持ち始めている。
「はい。いただいた上着、とっても暖かくて。ありがとうございます」
 きっかけは、ちいさなくしゃみをしたことだ。
 望郷の念を起こさせない為か、陽菜子が暮らしていた世界のことを、王はほとんど聞かない。そのかわり、そうした細やかな思いやりを見せる。
 部屋着にと、先日贈られたのはベージュのやわらかな生地で作られたガウンだ。襟元には金茶の糸で唐草に小鳥が遊ぶ模様が縫い取られていて、すっかり陽菜子のお気に入りだが、よもやカーラスティン最高峰の工房で作られたものであることなど、知る由もない。今、その身に着けられた小さなビーズの髪飾りひとつですら、庶民の手が簡単に届くようなものではないことも。
 ふと、王の隣から強い視線を感じて、陽菜子はほんの少し気が重くなる。
 そこに座しているのは王太子だ。
 その青い瞳が、怖い。
 最初は、物語に出てくるような王子様の姿を見るのはとても楽しみで、アイドルに夢中になる友人の気持ちは、なるほど、こういうものなのかと、しみじみと納得したものだ。
「くれぐれも、無理をなさいませんよう。唯一無二の存在なのですから」
 初めて対面した時から、そうして完璧な笑顔とともにいたわりの言葉が向けられている。
 けれど、ずっと違和感は感じていた。
 ハリウッドの映画スターに声をかけられたら、きっと平静でいられないように、絵に描いたような王子様を前にして、緊張しているのだと思い込んでいた。
 でも、深い青の瞳が、陽菜子から外れたそのときに、分かってしまったのだ。
 ──あの人は、あたしのことが嫌いなんだ。
 クラスにもいたではないか。誰にでも親切で、誰からも好かれていて、陽菜子みたいなどんくさいクラスメイトにも優しく手を差し伸べるくせに、本当は嫌っていた優等生が。視線が外れた途端、まるで違う顔を見せる友人が。
 以来、陽菜子は王城に上がるのが、少し憂鬱になってしまっていた。特に、最近は取り繕うのも面倒になったのか、時折陽菜子を見る王太子の目が険しいことに気付いてしまえば尚更に。
 どうしてお前がこんなところで、王に大切な時間を浪費させているんだ。
 そう言われている気がして、居たたまれなくなる。
「ヒナコ、今度、妃の誕生日を祝う宴がある。もちろん出てくれような?」
 出来れば、そんな大層な場に出たくはないけれども、断っていいものでないことは、いくら陽菜子でも分かる。
「はい、喜んで」
 さも嬉しそうに陽菜子は答える。いや、決して嬉しくないわけではないのだが、そこに多少の誇張が入るくらいは許されるだろう。
「そうか、妃も喜ぶ」
 満足げに頷く王の横に、こっそりと視線を忍ばせると、
 ──ああ、やっぱり。
 やわらかな微笑の中、瞳の青が、よく晴れた冬空のように凍てついて見える。
 大切な母の誕生祝いに、何故お前が。
 そう責められているような気がした。

 その頃、ソナは戸惑っていた。
 以前、陽菜子が王と謁見している間、ソナは控えの間にひとりで待っていた。自分よりも遥かに生まれも育ちも良さそうな侍女が、良い香りのお茶と美味しいお菓子を差し入れてはくれるが、退屈なのは否めなかった。緊張の余りに、時間の経過すら分からなかった頃が懐かしいと思うのは、温かな陽光に誘われて、抗い難いほどの眠気に襲われている時だ。
 けれど、眠気というのは草むらに隠れた泉のようなもので、気が付けばその底へ引きずり込まれているものと相場が決まっている。
「ソナ」
 心地良くたゆたっていた意識が、その声で一気に浮上して、ソナは自分がうっかり居眠りをしていたことに気付かされた。まだ眠りの水がまとわりついている状態で、目の前に人の顔があるのは、酷く心臓に悪い。
 陽菜子の逃亡誤解事件以来、王付きの侍従のひとり、ネイアスはソナの退屈を見越してか、時には一緒にお茶を楽しむこともある。片田舎の小作農の家に生まれた自分が、王城に足を踏み入れるだけでも恐れ多いというのに、王の側に勤めるような人と時を過ごす日が来るなど、夢のような話だ。噂によれは、有力貴族の次男らしい。それこそ、陽菜子付きの侍女にならなければ、すれ違うことすらなかったに違いない。
 だからといって、ネイアスがソナに対するような気安さなど、簡単に持てようはずもない。
 金魚鉢からうっかり外に出てしまった金魚の如く、言葉にならない言葉をなんとか吐き出そうと口をぱくぱくさせるソナの頭の中は、ほぼ真っ白だった。それを面白そうに眺めるネイアスの顔を見て、羞恥と怒りが湧かなければ、しばらく固まったままだっただろう。
「……お、おどろかさないでください」
「すみません。今日も謁見の時間が伸びているようですので、お茶でもどうかと思ったのですが」
「だったら、普通に起こして下さいっ」
 悪びれるでもなく、ぬけぬけと言うネイアスに、ソナはつい噛み付いてしまう。
 膝に掛けられているのがネイアスの上着だと気付いてしまえば、それ以上何か言うことも出来なくなって、ただ俯く他ない。
 そもそも、いつ、何があるかも知れないというのに、気を抜いて居眠りなどしてしまう自分が悪いのだ。
「今日のお茶は、ツァルト産なんです。さ、どうぞ」
 小さな子を宥めるように、軽く髪を撫でられ、渡されたカップからは、花のような甘い香りがした。
「ありがとうございます……」
 どうにか小さな声で礼を言うと、ネイアスは、なんでもないことのように、
「なんでも、ラエル様のお気に入りなんだそうで、厨房で大量に仕入れたおこぼれが回って来たんです」
 と言った。
 ひとくち口に含むと、氷を食べた時のようなひんやりとした感じと甘さが広がって、眠気がするりと抜けて行くような気がする。
 もしかして、わざわざこのお茶を選んでくれたのかも知れない。
 でも、確かめるのも図々しく思われて、ただ、だまってソナはお茶をすすってていた。
 傍目には、さぞかし不貞腐れているように見えるだろうと自分で分かっていても、いつものように振る舞えない。いくら田舎育ちで、淑やかさとは無縁でも、他人に失礼な態度を取るような不行儀な娘ではないつもりのソナには、それがとても辛い。
 だいたい、ネイアスといると、どうも調子が狂うのだ。
 意地悪をされているわけではないと思う。嫌われてもいないような気はする。
 でも、気が付けば、何故か口喧嘩をしている。いや、一方的にソナが食って掛かっていて、ネイアスはさも満足げに笑っているというのが正しい。
 田舎娘が珍しくて、揶揄って遊ぶのが楽しいのかも知れない。
 そう思うと、何故か少し胸が痛んだ。

 聖宮に帰ってからも、その日ばかりは互いに空回りな笑みを浮かべているのを見て、いったい王城でなにがあったのかとティレンの気を揉ませたことなど、二人は知らない。

2008.08.17
 

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