星月夜の森へ

─ 15 ─

 初冬の光が、赤みを帯び始めて、色付いた庭の樹々が一層鮮やかに見えていた。
 ルウェルトに比べると、やはりカーラスティンは冬の到来が早い。
 望郷というほど甘やかではなく、帰郷の念にしては切実なものがサリューの胸の内に込み上げて来る。暖炉には薪がくべられていたし、フェルト生地の上着は十分に暖かいのに、しんと胸の奥に冷たいものが蟠っている。
 気持ちが塞いで、とても政治学の書物に手を伸ばす気になれず、偉大な先人の記した博物誌をぱらぱらと捲っていると、
「兄様!」
 元気よく飛び込んで来たのは、まだ小さいラエルの弟、オルティだった。
「オルティ、待ちなさいったら!」
 慌ててオルティの首根っこを引っ掴んだのは、ラエルの三つ下の妹、ラウィニアだ。二人とも兄とよく似た金髪に、母親譲りの春の空を思わせる明るい水色の瞳をと優しげな面立ちをしている。
「ルサリア様、ごめんなさい。もう、オルティったら」
「だってえ、兄様、今日、ご本読んでくれるって言ったーっ!」
 おそらくここにならラエルがいると思ってやって来たのだろう。
「ラエル兄様はお忙しいのよ、我が儘言わないの!」
 ラウィニアの手から逃げ出そうと、オルティは盲滅法に手足を振り回した。
 いくら幼いとはいえ、普段はこんな風にきかん気の強さを発揮して、我を通すようなことをする王子ではない。ラウィニアの困り顔を見かねて、サリューは普段ラエルがするように、オルティをひょいと抱き上げた。
「……どうしたんです?」
「兄様がいないのー」
「ああ、さっき、急に宰相補佐から呼び出されて、会議に出ていますよ」
「約束したの、今日、ご本読んでくれるって」
 ぐずぐずとオルティは半泣きだ。その背をぽんぽんとたたいて宥めていると、
「お邪魔をしてしまってごめんなさい。一昨日からずっと楽しみにして……」
 その歳にしてはしっかりしていて、既に淑やかさも充分に身に付けてはいたのだけれど、まだ子供という時期を脱したばかりの少女に、幼児の我が儘が手に余るのは仕方がないことだ。申し訳無さそうに俯くラウィニアの手には、随分と手擦れた絵本があった。このきょうだいが読み継いで来た一冊なのだろう。
「ほら、姉様が読んであげるから、お部屋に戻りましょう?」
 ラウィニアの言葉にも、オルティは、口を尖らせてふいっと横を向いてしまい、意地になってサリューにしがみつく。
「ね、美味しいお菓子も用意しましょう。オルティの大好きなフィーグの焼き菓子にしましょうか」
 こってりとした甘さの果物を練り込んだ、大好物の菓子の名に、少しだけ振り向きかけたオルティは、そんな誘惑に負けまいとばかりに、ますますラウィニアから顔を背けてサリューの肩に顔を埋めてしまった。
 その身体を、サリューは軽く揺すると、ちょっと提案をしてみる。
「じゃあ、お兄様の代わりに、私が読んで差し上げましょうか」
 おずおずと顔を上げると、躊躇いがちに小首を傾げた。
「ほんと……?」
「ええ。私でよろしければ、喜んで」
 とたん、オルティに天使のような笑みが溢れて、ぎゅーっとサリューに抱きついた。
 そんな訳で、先ほどまで愁思に耽っていたサリューは、年端の行かない王子を膝に載せて、絵本の朗読をすることになったのだった。

「むかしむかし王様のいない国に、とても勇敢な若者がおりました……」
 それは、カーラスティンで生まれ育った者ならば、誰もが最初に聞かされるおとぎ話だった。いわゆる建国伝説だ。
「我こそが王だと言って、みんなが争いを繰り返していると、ある予言者が言いました。『空に輝くあの金色の星を手に入れた者が、王となるでしょう』。それを聞いて、いったいどうしたら、金色の星を手に入れられるかと、誰もが頭を悩ませました。
 とても大きな弓を作って、星を射落とそうとしたり、高い山のてっぺんに生えている樹に登って星を掴もうとしたり、網を取り付けた長い棒で捕まえようとしましたが、どれもうまくいきませんでした。
 勇敢な若者は、とても優しい心を持っていたので、そんなことをしては星が怖がるに違いないと、どうかここへ降りて来て下さいと、毎晩歌を歌いました。みんなは若者を笑いましたが、十日目の夜、金色の星は小鳥へと姿を変えて、若者の肩に止まったのです。
 若者から、その小鳥を奪おうとする者はたくさんいましたが、誰も若者には敵いませんでした。若者は彼らを許したので、たくさんの仲間が出来ました。だから、隣の大きな国が攻めて来ても、みんなで力を合わせて打ち勝つことが出来たのです。
 戦場でも、片時も若者の側から離れずに、どんなに危ない時でも励まし続けた小鳥は、戦が勝利に終わった後、とても美しい女性に姿を変えました」
「そして王になった若者は、彼女を王妃に迎えて、末永く幸せにくらしました」
 最後の一説を引き取ったのは、ラエルだった。
「兄様!」
 サリューの膝から飛び降りて、一目散に駆け寄るオルティをふわりと抱き上げて、
「駄目だぞ、ルサリアにまで我が儘を言っては」
 ラエルは芝居がかったしかめ面を向けた。
「ごめんなさい、兄様」
 さっきのきかん気は何処へ行ったのやら、しゅんと俯いて、目には涙まで浮かべている。こつんと額をくっつけて、
「謝るのは、兄様にじゃないだろう?」
 とラエルに言われると、オルティは自分からその腕を降り、とことことサリューの許まで来て「ごめんなさい」と俯いた。なかなか顔を上げようとしないオルティに、
「私もこの本を読むのは初めてで、楽しかったですよ」
 サリューはそういって、傍らに屈むと、まなじりに溜まる涙を拭ってやった。
 ぽんとその頭に手を置いて、ラエルはご褒美とばかりにくしゃくしゃっと髪をかき回す。
「兄様!」
 慌ててオルティはその手から逃げ出して、サリュー後ろに隠れた。
「ぐしゃぐしゃあーっ」
 覚束ない手つきで髪を直しながら、思いっきり膨れっ面になったオルティをみて、くすくすと笑いが零れた。
「兄様、ルサリア様に、用がおありなのでしょう? さ、今度こそお部屋に戻りましょう」
 にっこりと少しばかり空恐ろしいような笑みを貼付けたラウィニアは、がっしりとオルティの手首を掴み、絶対に逃がさない構えだ。
「いやぁ、せっかく兄様いるのに!」
 最初の騒ぎどころでなく、オルティは大声で泣き出してしまった。
 それでもラウィニアは手を離さず、嫌がるオルティを引き摺って連れて行こうとする。
 さすがに可哀想だと思うのか、自身も泣きそうな顔になってはいても、兄に迷惑をかけては行けないというのは、妹なりの使命に思っているらしい。
「駄目だったら! 兄様は御政務もこなされて、毎日大変なの。わたくしたちが困らせてどうするの!」
 もはや、オルティはただ泣き喚くばかりで、まともに言葉など出ない。
 ラエルとしては、出来れば早くサリューと話したいところなのだが、急いだ所でどうにかなるものでもない。少しぐらいの時間を割くことは吝かでもなかった。とはいえ、懸命に兄を思う妹の面子を簡単に潰すようなことは言えず、どうしたものかと途方に暮れた。
 決して聞き分けの悪い弟ではないのだ。こんなことになるなら、きちんと言い聞かせてから会議に出るのだったと悔うばかりで、オルティの泣き声は高くなるばかりだった。
「あの、ラウィニア様?」
 そんな騒動を目の当たりにしている割には涼しい顔で、サリューは、必死でオルティの腕を引っ張るラウィニアの肩を軽く叩いた。
「先ほど、おっしゃっていたフィーグの焼き菓子とはどんなものでしょう?」
 さすがに想像の範疇外の問いだったらしく、ラウィニアはきょとんとしてしまった。その隙にオルティはその手から逃れて、ラエルに飛びついた。
「いえ、さっきのオルティ様の顔を見ていたら、さぞかし美味しいお菓子なんだろうなと気になっていて」
「……よろしければ、召し上がられます?」
 ちょっと意地を張り過ぎていたことに気付いたのか、ラウィニアは少し頬を赤らめた。
「出来れば、是非。そのくらいの時間は貰ってもかまわないかな、ラエル?」
「ああ。直ぐにお茶の用意をさせよう」

 時間にすれば、四人のお茶会は短いものだった。一杯のお茶が冷めることもないほどに。
「さっきは助かった」
 にこやかに妹たちが辞去すると、ラエルはぐったりと椅子に身を沈めた。
「いや、ほんとに気になってたんだ、フィーグの焼き菓子」
「甘かっただろう」
「そう? 美味しかったよ」
 まんざら嘘でもなさそうな笑みに、確かに甘党だったな、とラエルは思い出す。
「それに楽しかった。僕も、こんな風に暮らせたらいいんだけど」
 ルウェルト皇室は、三人の側室にそれぞれ男子がいる。そして正妃には子がない。だから我が子を皇太子の座に就かさんと、側室同士の仲が非常に悪く、異腹とはいえ兄弟同士だというのに、一緒に遊ぶ事はおろか、挨拶以上の会話をしたこともなかった。
 それが泥沼化した結果、こうしてサリューは異国に地に保護を求めることになっているのだ。
 これから伝えねばならないことを思い、ラエルはぐっと眉間の皺を深くした。
 徐に身を起こし、背筋を伸ばす。
「サリュー」
「何?」
「落ち着いて聞け」
 それだけで、話の予測がついたのか、サリューの顔から、色が消えた。
「ルウェルト皇王が、危篤だそうだ」
 小さく息を飲んだ後、サリューは固く目を閉じた。握られた拳が、細かに震えている。
「……何故すぐに……」
「今、慌てて帰国などしたら、途中で暗殺されるのがオチだ。いいか、お前は、ラウィニアの婚約者として帰国するんだ。その準備を今、早急に進めている」
「早急にって、その間に父が死んだら!」
「死にゆく者のことなどどうでもいい」
 いっそ、冷酷なほどにラエルは言ってのけた。ラエルにしてみれは、もはや親友とも呼べるこの存在の命が無下に散らされるなど、許せることではない。
「いいか、お前がこの先も生きる為の方策を考えろ。ラウィニアとの婚約は方便だと思ってくれて良い。だが、カーラスティンは、お前を受け入れる用意はある。既に宰相と大臣はそれを了解した」
 本来、第二側室であるサリューの母の立場は、決して弱いものではなかった。彼女の父親はルウェルト前皇王の正妃の兄であり、ユフィリアの弟、つまり皇族の外戚だったのだから。が、それを上手く利用する出来る才は無く、いつしかその立場に相応しい権力を失っていた。
 だから、たとえ暗殺の手を逃れても、サリューには有力な後ろ盾が無い。その代わりに利用しようと画策する者はそこら中に潜んでいるだろう。
 隣国のお家騒動に首を突っ込んで、得になることなど、今のカーラスティンにはない。
 けれど、そんな場所へ何の策も無く友を帰せるほど、ラエルは薄情にはなれなかった。

2008.08.16
 

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