星月夜の森へ

─ 14 ─

 ティレンにとって一日の締めくくりが、陽菜子の寝顔を見ることになって随分になる。
 最初は、安心していたのだ。
 田舎から王都に出てきた娘が見せるような、戸惑いとホームシック程度は見せたものの、程なく慣れて、ティレンの言葉に素直に従って日々を過ごしていたから。

 朝、丁寧に丁寧に髪をブラッシングしてもらっているうちに、ようやく目が覚めてくる、というのが、陽菜子の一日の始まりだ。
「おはようございます、ヒナコ様」
 返事がなくとも気にせず、ソナは陽菜子を窓辺の椅子に導き、手にしたブラシをまるで宝物にでも触れるかのような恭しさで髪に当てる。やがて髪に見事な艶が出る頃、「おはよう、ソナ」とくぐもった声がするのである。
 もともと陽菜子の寝起きは悪かった。目蓋は開くのだが、意識まで覚醒したという状態になるのにやや時間がかかる。揺り起こした程度では目覚めないので、渡界したことが余程身体に負担がかかったのか、それとも緊張の日々でそれほどまでに疲れが酷いのかとティレンたちの気を揉ませたものだが、今では、微笑ましい話のネタにされている。
 ベッドサイドに用意された洗面器で洗顔を済ませて、ソナに着替えを手伝ってもらう事にも既に慣れたようだ。
「陽菜子さま、用意は宜しいですか」
 と、朝の祈りの為にティレンが迎えにくるころには、あの寝起きの悪さなど微塵も見当たらない。
 この国でもっとも威信のある、というにはあまりにも慎ましやかな湖のほとりに建てられた神殿で、祈りは捧げられる。
 何を祈れば良いのか分からないが、尋ねてもティレンも、その他の神官たちも答えはくれない。国の繁栄を、民の幸せを祈れとも言わないし、家に帰りたいと祈るなとも言わない。
 ただ、形式として、跪き、両手を合わせて目を閉じる。ただそれだけ。
 祈りの文句もない。
 そのあとは、館に戻って朝食をとり、ティレンが手配した勉強をする。太陽が中天に上る頃、再び祈りを捧げてから、昼食になる。その後は、王の話し相手として城に招かれる事もあれば、神官たちに請われて聖宮で偶像よろしく対面することもある。定期的に施療院を訪問することも、暫くして習慣になった。何も無ければ、勉強の続きをし、お茶の時間の後、ようやく自由に散歩でも昼寝でもしてよい時間になる。
 とは言っても、陰に表に護衛の者が常に付き従っていて、慣れるまでは逆に窮屈な気分になったものだった。徐々にティレンが一緒に過ごす時間は減り、ソナがいなかったら、不安と苛立ちが募って爆発してしまったかも知れない。
 日没に合わせて夜の祈りを捧げ、夕食後に入浴をすませると、皆、早々に休んでしまう。灯はあるけれど、無駄遣いが許されるものではないらしい。宵っ張りの生活をしていた陽菜子が馴染むのはかなり経ってからのことだった。
 いつもなら、テレビを見ているか宿題をしているかという時間に床に入っていても、いっかな眠気も訪れず、部屋の外をうろついていたら、警備の者から連絡を受けたソナが、寝間着のまま血相を変えて飛んで来たこともある。
 眠れぬからというよりも、寂しさに耐えかねた時は、ティレンの部屋のドアをたたいた。心安いソナの部屋を選ばなかったのは、ソナが聞いたら不本意だと頬を膨らませるだろうが、陽菜子にとって妹分のような気がしていたからだ。身の回りの世話をしてもらい、面倒ばかり掛けているのにおかしなことだが、不思議と庇護欲が湧くのだ。
 ティレンは、いつも優しく陽菜子を迎え入れた。
「どうぞ」
 読んでいた書物を閉じ、手ずから入れた香茶でもてなして、陽菜子が話すのを待っている。
 温かな沈黙に促されるように、陽菜子はぽつぽつと、言葉を零してゆく。
「今日ね、ソナがまたネイアスさんと口喧嘩してたのよ。ネイアスさん、絶対分かっててソナを揶揄ってるんだと思うの」
「ソナは良い娘ですから、気に入られてるのでしょう」
「やっぱりそうよね。ソナはどうなのかなあ」
 そんなことを話しながら。
 その内に溜められていた思いを吐き出すのだ。
「お母さんに、会いたい。うちに帰りたい」
 そういって泣き出す陽菜子に、ティレンは言葉を掛けない。ただ、優しく髪を撫で続ける。
 ──帰りたいよ、帰してよ。
 心の中で責めながらも、帰る事など出来ない、いや、彼らは帰す気がないのだと陽菜子も分かっている。だからこそ、この上なく大事にされていることに気付かぬ程、幼くはなかった。

 そうして。
 適度な弱音を吐くことで、陽菜子は笑顔を保ち、適度な弱音を吐かれることで、ティレンは安心していた。
 無論、互いに信頼が生まれてはいたのだ。
 無邪気で幼いばかりに見えた陽菜子が、与えられた責務に真摯に向き合う姿には、ティレンは驚きの念を持ったものだ。
 いきなり見知らぬ世界に連れてこられたのだから、もっと我が儘を言い、威丈高に振る舞うか、兎のように怯えて自己の中に閉じこもるかと、およそろくな想定をしていなかった。
 気が付けば、姉のように慕われ、頼られている。
 寄る辺ない世界で、最初に出会ったに等しいティレンを頼みにするのは当然のことかも知れないが。

 この世界での生活にも慣れ、日々忙しそうに過ごすようになった陽菜子が、ティレンの部屋のドアを叩かなくなってから、少し寂しい気持ちになって、寝顔を見に行ったのは、いつの間にかティレンにも、大切な巫女、という以上のものが生まれていたからだろう。
 けれど、もしそんなことをしなければ、見ることはなかった。
 眠りながら、帰りたいと涙を流す陽菜子を。
 それが、ただ一日のことならさほど気にもしなかっただろう。けれど、ほとんど毎晩のように眠りながら泣いているのだ。
「ヒナコ様、お帰りになりたいですか」
 一度だけ、午後のお茶をしながら尋ねた時には、少し困ったように微笑んで、
「少しだけ。お母さんに会いたいかな」
 と答えが返って来た。
 それが可能なのかどうかも問わず、婉曲な言葉にほんの少し混ぜられた本音。無心に歌う小鳥ではないことに気付かされるには充分だった。
 どれほど陽菜子が渇望しようと、この世界という鳥籠から逃がす訳には行かない。
 狂い易い世界の均衡を調和させる奇蹟の存在を。
 国の繁栄も民の幸せも祈らなくていい。帰りたいと心から願い、それを許さぬ世界を呪ってもいい。
 ただ、この世に存在してさえいてくれるならば。
 陽菜子をソナに任せている間に、ティレンは書物庫に眠る膨大な記録を丹念に読み解き、ますます【闇月】に対する恐れを強めていた。  だから、もし【闇月】までもがこの世界に堕ちているならば、速やかに排除せねばならないのだ。唯一、【金の小鳥】を鳥籠から放つことが出来る存在など許しておけるものではない。
 陽菜子から、その可能性に繋がる話を聞いてすぐに、ティレンは管理下にある聖域の全てに捜索の手を伸ばしていた。
 およそ、それらしい情報が入ってこないのは、堕ちていないという証明にはならない。その苛立ちが募り始めた頃、ようやく彼女は一つの手がかりを得たのだった。

◇ ◆ ◇

 満ちた月が並ぶその夜、ヴァナルガンド騎士団の双璧としてその名を馳せる──というよりは、その街では粋な遊び人としてもてはやされているフレイは、当然のようにアトールにいた。
 後朝の別れを惜しむ東雲楼の傾城リゼルの首には、海の星とも呼ばれる乳白色の石を連ねた首飾りが輝き、しばらくは同じ楼の上臈たちからは羨みの言葉が絶えないに違いない。
 正午頃というと、アトールの橋を渡るには、去る者には遅く、訪れるならやや早いという、微妙な時刻だ。だから、二人が橋の上で顔を合わせた時に一瞬ばつが悪そうに目線を逸らせたのは、場所柄を恥じてのことでは決してない。
「来てたのか」
 挨拶もなく、フレイは赤銅色の髪の青年に声を掛けた。
「お久しぶりです」
 ナーダにとって、フレイはほんの一年前まで騎士団で世話になっていた上官だった。父親が病で倒れ、故郷に呼び戻されていなければ、その片腕になっていただろうとまで言われている。
「立ち話もなんだし、茶屋にでもいくか」
 返事も聞かずに、フレイはさっさと来た道を戻り始め、それをナーダは慌てて追った。
 夜の街だと思われがちのアトールは、昼までも十分に活気に溢れている。歳若い禿や新造の歌や踊りの稽古もあるし、酒や食材の搬入、衣装や装飾品の売り込みなどに、多くの業者も出入りする。建物の修繕や清掃なども、手抜かりなく行なわれており、実に清潔な、一つの文化的商業都市の姿をそこに見せるのだ。
「ユゥイ、待って!」
 茜色の髪をした少女が、二人の傍らを駆けて行く。振り返った少女の方は、砂漠地域特有の格好をしており、少女たちの手には稽古ごとの道具が抱えられている。
「ありゃあ、銀月楼んとこの子たちだな」
 しっかりと物見高く検分した様子で、フレイは呟いた。
 並んで歩く姿は、どこぞのお嬢さんたちが習い事へ向かうかのようだ。
「さすが、今から楽しみですね」
「片方は分かんねえがな。顔ぐらい晒しゃあいいのに」
 そんな軽口を叩きながら、馴染みの茶屋の暖簾をくぐった。
「あら、いらっしゃい。随分とお見限りだったわねえ」
 ナーダの姿を見るなり、茶屋の女将は懐かしそうに笑いながら、クナ茶を出した。やや苦みがつよいそれは、疲れに良いと旅籠でよく出されるものだ。
「旅先から直接来るとは、なあ?」
 まだ旅装束のままのナーダに、フレイはにやにやとした顔を向けた。
「父にこき使われてるんですよ。大人しく寝込んでてくれればいいものを」
「まあ、今のうちに領内のことを見聞きしておくのはいいことさ」
「そりゃそうですけど」
 彼をこき使う病床の父こそ、王都の東部にあるエディン領の領主だ。逆らったところで、ナーダの益になることなど何もない。
「ところでミディールは一緒じゃないのか?」
「あれは今頃、許嫁のところにいますよ」
「お前はいいのか?」
 言われて、ナーダは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……隊長まで言わないで下さいよ……」
「お父上がどうせうるさいんだろ」
「別にまだ独り者でいておかしい歳でもないじゃないですか。ねえ、隊長?」
 意地悪な言葉に一矢報いたものの、
「そうだな、一日遅れでも、アトールまで来るくらいだしなあ?」
 やり返されて、ぐうの音も出ず、ナーダは苦い茶を煽った。
 ナーダには騎士見習いの頃から、懇意にしている上臈がいることはフレイも知っている。器量よしで心映えも気持ちの良い娘であることも。
「ちゃんと土産は持って来たか?」
「ええ、まあ。あと、ちょっと面白いものを手に入れたんで、それもやろうかなと」
「面白いもの?」
「こういう縁起物、女は喜ぶもんでしょう?」
 ごそごそとナーダが懐の中から出したのは、かの魔除けだった。
「お前なあ、そんな子供騙しな……」
 と言いながらも、フレイはその魔除けに手を伸ばし、目の前にぶら下げてじっくりと検分する。
「これは、獣の毛じゃねえな……染めているようにも見えねえし……本物か?」
「どうでしょう。これを寄越したヤツは、たまたま見かけて、捕まえたついでに髪を切ったは良いが、逃げられたとか言ってましたしね」
「なんだそりゃ」
「よく分からない話なんですよ。黒髪の人間がうろうろしていたら、珍しいもんだと思うんですが、そんな話も聞きませんし」
「ふうん……」
 しげしげと眺めた後、フレイはどうでもいいとばかりにナーダの方へ放った。
「まあ、本物だろうと偽物だろうと、お前から貰えるものなら拾った石でも喜ぶさ」
 慌ててそれを懐にしまったナーダは、まんざらでもない顔で、運ばれて来た粥に手をつけた。

2008.08.15
 

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