星月夜の森へ

─ 12 ─

 その夜は、凍える空に二つの月が天に輝いていた。
 数年に一度の、蝕の時期にしか見られない光景ということもあって、アトールでは一斉に灯を落として、天からの淡い光を存分に楽しむ。特に満ちた月が並ぶ夜は、ほとんどの傾城が馴染みの客と随分前から約束を交わしているという。
 誰とどう過ごすかは、沽券だの威信だのに関わるらしく、客の方もその日の食事や贈り物などの準備に余念が無い。数十年前に楼閣まるごとを貸し切りにしたというお大尽がいて、傾城の二、三人を身請けしてもまだ余るほどの散財をしたというのは、語り種になっている。
 その話を聞いて、由井は、クリスマスみたいなものか、と実に即物的な感想を持ったのだが、実際、その日に約束を取り付けられず、馴染みの客と過ごせない上臈は、相当に惨めな気分を味わう事になるのは同じだ。逆もまた然りで、気に入りの上臈と過ごせぬ客は、普段大きな顔をしていればいるほど、物笑いの種になる。
 その夜の銀月楼が、どうだったかは語るに及ばないだろう。
 当然、ヴィリスのところにも、一番の上客であり、一番の古馴染みが来ていた。いつもなら、食事を終えるまでの細々とした世話を言いつけられるのに、その日は、早々に下がるように言い渡され、由井は納戸の天窓から、その月を心行くまで眺めてから眠りについた。

 グリヴィオラの南部にあるロザ地方特産の果実から作られたハクロワ酒を手土産に、彼はやってきた。そう、まるで決まり事のように、彼の手土産は常にそれだった。
 カーラスティンでも人気のあるハクロワ酒は、十年ものとなると宝石と同等の価値が生まれる。一口が琥珀一粒というのは大げさにしても、一番小さな升いっぱいで、四人家族の半年分のパンが余裕で購えるだろう。
 もっともそんな世知辛い、もしくは貧乏くさい事を考えるような階級の人間が、銀月楼に足を踏み入れることは、まずないし、カーラスティンでも有数の商業都市コディナールから、取引の為に定期的にクレインを訪れているという彼にとっては、ひと樽分のハルロワ酒であっても、さしてその懐を痛める事ではないのだろう、と巷では言われている。
 閑話休題。
 その酒に相応しい、繊細な彫りの施された透き通る酒盃で、二人は差し向かいに腰を落ち着けたまま、ほとんど話もせずに時を過ごしていた。手にしている酒盃こそが、彼からヴィリスに贈られたもので、あとで他の上臈たちが大騒ぎする事だろうことは間違いない一品だ。
 寄り添う月が中天を過ぎた頃、
「珠玉を買い取ったんだって?」
 彼は、悪戯を思いついた子供を思わせる笑みを口の端に浮かべていた。そうしていると、ようやく実年齢相応に見え、その背に重責を負う身だとは誰も思うまい。
「……あれが珠玉っていうんなら、トラトスの目も遂に濁ったってところだねえ」
 しみじみと呟くヴィリスの頬は、やや上気している。見れば、酒盃と対のデザインで作られたデカンタに満たされていたはずの酒は、あと一杯分ほどしか残されていない。大の男でも、既に酔いつぶれていてもおかしくない量が、既にその小さな身体の中に消えていた。
「へえ……。今日は噂の珠玉の顔ぐらい拝ませてもらえるかと期待していたんだけどね」
「どういう噂が流れてるんだか。とにかく強情だし、どうやって仕込んだものだか……頭が痛いよ」
 酔いが回ってとろんとした目になってはいても、ほぼ素面と変わらない事を彼は知っている。凄みすらある艶やかかな流し目で、
「で、今日は何しに来たんだい?」
 などと言われれば尚更だ。
「今夜、馴染みの傾城を放っておくほどの甲斐性なしではないからね」
 敢えてありきたりな事を口にしてみたのは、ただの無駄に終わったらしい。
 こつん、と音を立てて、ヴィリスは酒盃を卓に置くと、
「まどろっこしいことは嫌いだよ、スクルド」
 常には呼ぶ事のない、カーラスティン国宰相補佐の名を口にした。
 気の短い傾城を怒らせて良い事など何もないことを、よくよく知っているスクルドは、降参とばかりに諸手を上げた。居住まいを正し、正面を向いた時には、まるで別人に成り代わったかのような、いたく真面目で謹厳な顔をした男が、そこにいた。
「……あれは、本当に【金の小鳥】か?」
 彼は、盛大なお披露目を終えて、今や近隣の国々までが認知している存在に、とんでもない疑惑を口にした。少なくとも、ここ数年の不安が帳消しになる程度には、農作物の出来も良ければ気候も安定していて、疑念を持つ要因も必要も無いはずだ。
 余程驚いたのか、一瞬目を見張ったヴィリスは、溜め息を吐くと、目を眇めてスクルドを見やった。
「はん? 何を言い出すと思ったら。王太子に感化されて、聖宮不信にでもなったのかい?」
「そういうわけではない。聖宮は、そうだな、ちょっと気になる動きは見えるが」
「頭が切れ過ぎるのが一人いるから、仕方ないだろう」
 スクルドは軽く肩を竦めた。もし、その頭が切れすぎるひとりと血縁でなかったら、気付きもしない小さな動きであったし、考え過ぎだと暗に言われて、ほっとするところもあった。
「それと、ちょっと不穏な動きがあるんだ」
「ルウェルトにだろう」
「……気付いて?」
 驚いた様子も無く、スクルドはヴィリスを見た。
「聖宮と違って、星だけを見ているわけじゃなからねえ」
 口調ほどは小馬鹿にしたようでもない目で、ヴィリスは格子の向こうに見える月を見上げる。けれど、その目は直ぐに閉じられた。
「安心すると良い。【金の小鳥】は本物だよ。ただ、ルウェルトよりも、グリヴィオラの動きに気を付けたが良い」
「やはり、裏で操っているのは……?」
「どうだろうねえ。風の音が濁っていて、その辺はよく分からないよ」
 陰を落とすほど長い睫毛が、ゆっくりと上がり、冴え冴えとした青緑色の瞳がスクルドをとらえる。アトールで名を馳せる傾城が纏う色香が滑り落ち、内側に漲る清冽な聖性が溢れ出すのが光となって見えるようだった。
 それは、ほんの僅かな時間で。
 スクルドが瞬きをする間に、聖女は妖艶な笑みを湛えた傾城へと戻ってしまった。
「宰相補佐ってのも、大変だよねえ。わざわざこんな酒まで用意して」
 ヴィリスの指先で弾かれたデカンタは、澄んだ音を立てた。
「稀代の【風聴き】の言葉を聞けるならば、安いものだ。それに、その為だけでもない」
 スクルドは笑う。
 彼もまた、厳めしい宰相補佐の顔を、仮初めの商人に変える事にしたようだ。
「たかが【風聴き】、滅ぶばかりの一族の言葉なんかあてにするんじゃないよ」
 流浪の予言者一族と言われる【風聴き】のことを、軽く蹴飛ばすようなことを言って、ヴィリスはそのたおやかな腕をスクルドへと差し伸べた。

◇ ◆ ◇

 しばらくは明るい夜が続くなと、トラトスは夜道で空を見上げた。
 金と銀の月が二つ。
 ヴィリスに珠玉を預けて大丈夫かと、当初は思っていたが、どうやらうまくやっていることを認めて、トラトスがアトールを発ったのは三日前の事。季節は間もなく冬に移り変わろうとしていた。夜明け頃から降り出した大雨に足止めを食わなければ、とうに宿場町についていたのに、と、かじかむ指を擦る。
 冷たい風が遮られているのは有り難いが、森の一本道をひとりで通るのは、なかなかぞっとしない話だ。それでもつい無理をして旅路を急ぐのは、一年余りぶりの帰郷だからだろうか。
 いろいろと噂されているが、トラトスに妻子はいないし、故郷に待つ人もいない。王都から十日ほど掛かる片田舎の故郷は、土地も痩せている上に産業もなく、次々と若者に捨てられて、今は老人ばかりの村と化している。幼い頃に両親を無くしたトラトスは、村の老人たちのほぼ全員を親代わりに育った。だからか、他の若者のように一度は故郷を出たものの、捨てる事は出来ずにいるのかもしれない。
 あのじーさんにはリゴル酒を、あのばーさんにはエマ織の肩掛けをと、背負った袋の中身のほとんどは村人への土産だ。それでも一年も間を空けていれば、また寂しい現実を目にせざる得ないのだろうという覚悟を、道すがらせねばならないし、いつかは、巡礼のようにこの道を歩くのかとも思う。
 そんな風に、気がそれていたのだろう、すぐ近くにまで人の気配が迫っているのに気付くのが随分と遅れた。
 足を止めることなく肩越しに振り向くと、いつからそんな近くにいたのか、この月明かりの中で、ぼんやりと浮かび上がるのは、銀色の髪をした、大柄なトラトスとほぼ同じくらいの背丈にすらりとした体躯の男の姿だ。
 追い剥ぎのような殺伐とした雰囲気は伝わってこないが、明らかに非好意的な意識が向けられているのは薄々感じられる。
 身を守る術は、職業柄もあってある程度は身に付けているが、過信はしていない。
 なんとか無駄な緊張を解こうと、トラトスはゆっくりと息を吐いた。
 間近にまで来てさえも足音をほとんど立てなかった男の言葉な唐突だった。
「あの子をどこへやった?」
「あの子?」
 そう尋ねられるのは、始めてではない。扱った珠玉の中には、恋人から引き離された少女もいたし、後になって悔いた親が追いかけ来た事も度々あったからだ。
「そう、黒髪の子だ」
「あの子なら、買い手が決まったよ」
「誰だ」
「あんたはあの子の何? 親兄弟じゃあないね?」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、トラトスの喉頸はその男の手に掴まれていた。
「言え」
「バカ言ってんじゃっ」
 ぐっと手に力を込められて、トラトスの抵抗は簡単に封じられた。
 簡単に口を割るのはプライドに関わる事ではあるけれども、命あっての物種だ。
 どんな強者だろうと、王城を守る騎士に匹敵する者たちで構成されているという楼閣の備えに、そうそう歯が立つものではない、と、さっさと打算に走ることにした。
「アトールの、銀月楼に行けば、会えるだろうよっ」
 せめて忌々しげに吐き捨ててみたものの、男はまるで気にした様子も無く、あっさりとトラトスの首から手を放した。突き飛ばしさえもされなかった。
 げほっと咳き込み、顔を上げたときには、既に男の姿はどこにもなかった。ただ、食い込んだ爪の痕から、ぬるりとした血が滴り、今、遭った事が現実だとトラトスに突き付けていた。

2008.08.13
 

inserted by FC2 system