星月夜の森へ

─ 11 ─

 ぱんっ、と小気味良い音を立てて、シーツの皺を伸ばして干し終えると、由井はかじかんだ指先に、息を吹きかけた。
 冬の到来には、まだ少しばかり早い。それでも、河の水は、触れているだけで千切れそうな気さえする。
 アトールを俗世から切り離すように流れるツェミレ河の水は、夏でも冷たい。その恩恵をついこの間まで受けていたのに、今はまるで手のひらを返されたように、痛みと憂苦が与えられるばかりだ。先日など、感覚を失った指先からするりと寝間着の腰紐が流れて行ってしまい、浅瀬とはいえ、膝上までその冷たい水に浸る羽目になったが、風呂の湯が全て落とされてた後のことで、直ぐに身体を温める事も出来ず、震えながら耐えるしかなかった。
 大勢の前に引きずり出されて衣服を剥がされたあの日、銀月楼に着くなり、小さな部屋に押し込められると、それこそ身体の隅々まで調べ尽くされた。その屈辱的な行為は、由井から反発心や反抗心を根こそぎ奪い去り、ささやかな牙も爪も容赦なくへし折るのに充分なもので、以来、由井は口を閉ざしている。
 まだ稚さの残る子供ならともかく、ある程度歳のいった者は、避けて通れない通過儀礼のひとつだと程なく知ったが、ささやかな慰めにすらなりはしない。
 その後、禿や新造たちの大部屋ではなく、ヴィリスの個室へと連れて行かれ、三畳ほどの納戸が由井の居室となった。銀月楼の仕事も多少は割り当てられたが、ほとんどはヴィリス個人の身の回りの世話が、由井の仕事なのだと、身体に叩き込まれた。傾城の世話係が花影と呼ばれる事など知らない由井は、しばらくの間、自分にそういう名がつけられたのだと思い込んでいて、ユゥイという呼ばれ方になれたのは、割と最近の事だ。
 まるで女神のように由井を迎え入れたヴィリスは、寛容とは無縁だった。
 言葉が分からず戸惑う由井に、次々を用事を言い付け、出来なければ怒鳴りつける。もし、ヴィリスに次ぐ傾城ファーランの花影リシェが、見かねて手を貸していなければ、手の一つや二つ出ていただろう。およそ普段のたおやかな姿からは想像もできない苛烈さにも関わらず、その美しさが損なわれないのは、さすがアトール随一の傾城といったところか。
 そもそも、彼女の癇癪持ちは有名な話で、彼女に付けられた世話役たちは直ぐに根を上げて、楼主にお役御免を訴える為に長続きしない。それは楼主の頭痛の種でもあった。
 それが、もう三ヶ月ほども続いているというだけで、本人の与り知らぬ所で、一目置かれるようになっていたのは、由井にとっては皮肉な話だろう。

「ユゥイ、そろそろ朝ご飯だよ」
 指先を口許に当てたまま、朝の光に融けかけた月をぼんやりと眺めていた由井に声を掛けたリシェは、
「また空を眺めてたの?」
 見れば分かるようなことを、いつも尋ねる。揶揄したりしているわけではなく、全く口をきこうとしない由井への挨拶代わりだ。
「ちゃんと手を拭いた? 直ぐに香油を塗らなくちゃ駄目よ。あかぎれなんか作ったらヴィリスさん、また癇癪を起こすわ」
 にこにこ笑いながら、リシェは持っていた手ぬぐいで由井の手を温めるように擦る。
 どういう暮らしをしていたのかは知れないが、こそこそ内輪で噂されているほどの田舎育ちではなさそうな、すらりとした関節の指だなと思う。こういう場所で身上を尋ねないのは隠れた決まり事のようなものだ。元は、良い所のお嬢さんだったのだろうかと想像したりしながら、今は無防備に晒されている黒髪を見つめた。
 ヴィリスが個人的に珠玉を買い取った、という話は瞬く間に広まったが、その正体は驚くべき完全さで秘匿された。口が堅いというのは、この街では最も尊ばれる美徳の一つで、逆は蔑まれるべきことということもあってか、見世に出せるようになるまでは、他言しないで欲しいというタランダの願いは実にあっさりと叶えられたのである。由井もヴィリスの言い付けに従って、砂漠の民のように髪を布ですっぽり覆う格好で普段を過ごしているから、割合身近にいるはずのリシェですら、その黒髪を見る事は少ない。
 ポケットから取り出した小さなビンの中身を、ほんの少し手の甲に垂らして、丁寧に擦り込むとふわりと花の香りが立つ。
 客の前に出ることもある花影は、付いている傾城に恥をかかさぬ為にも、身体の手入れを怠ってはいけないのに、由井はその辺がなおざりになりがちだ。多分、年上だとは思いつつも、リシェは故郷の妹を重ねて、つい面倒を見てしまう。甘やかしてはいけないとファーランも釘は射すけれど、そう言いながらも手を保護する香油を由井の分まで渡していた。
 されるがままに、両の手を丁寧に手当てしてもらうと、由井は軽く頭を下げた。それが、感謝の意味だと分かったのは、その冴え冴えとした黒い瞳が雄弁だからだ。おそらく、もう言葉のほとんどは分かっているだろうに、全く言葉を発そうとしないし、無表情にもほどがあるけれど。
「今日は、歌舞の日ね」
 その言葉に、ほんの少し由井は眉をひそめる。
 アトールにある楼閣のほとんどは、禿や新造に相応の教育を施している。芸事に限らず、歴史や語学にまで及ぶのは、それが格を左右するからで、銀月楼くらいのところになると、城下の私学校よりも充実しているほどだ。まだ日常会話を理解出来る程度の由井も、例外なく授業を受けさせられている。ただ、どれほど歌の師匠に、促されようと諭されようと、由井は声を出す事を拒否した。
 その時の事は、語りぐさになるほどで。
 鬼の形相でその場に現れたヴィリスは、いきなり由井の横っ面を張り倒した。
「言葉が分からないなんて顔をいつまでもしてるんじゃないよっ!」
 しんと静まり返る中で、口の端に血をにじませた由井は、それでも黙ったままヴィリスを剣呑な目で見上げるだけだった。怒りに任せて再び振り上げられた手を、騒ぎを聞きつけたアーウェルが慌てて取りすがって止めた。
「まったく、どうしたんだい。せっかく手に入れた珠玉に手を上げるなんて」
「おかみさんは引っ込んでて下さい。このねじ曲がった根性、叩き直してやらなきゃ、気が済みません!」
 凄まじい剣幕ではあったが、アーウェルも伊達にタランダの押し掛け女房をやっているわけではない。すっと目を細めると、
「だからって、商品に手を上げるってのはどういう了見だい? 個人の持ち物だというなら、自分の部屋に閉じ込めておおき!」
 ぴしゃりと言ってのけた。
 その場はとりあえず納まったものの、由井は相変わらず口を開こうともせず、ヴィリスはその日から三日間、由井の食事を抜くという暴挙に出たけれども、由井はがんとして譲らなかった。そうして、遂に、始めてヴィリスに譲歩させるという快挙を成し遂げてしまったのだった。
 苛烈な性格ではあるものの、怒りを後に引き摺らない美質も持ち合わせているヴィリスも、その時ばかりはしばらく不機嫌が続き、周囲にまでその被害は及んだ。
「そんな顔しなくても大丈夫よ。それに、舞の方はお師匠さんも太鼓判押してくれてるじゃない」
 幸いな事に、舞の師匠にいたく気に入られたことで、ヴィリスの機嫌もどうにか上向き、今に至る。由井も、いちいち頭の中で言語をこねくり回して混乱せずに済むのが気に入っていた。
「でも、残念だったわね」
 何が? と由井は首を傾げた。
「ほら、【金の小鳥】の歓迎の舞いに加われなかった事よ。ヴィリスさんもタランダさんも反対するなんて」
 ああ、そんなことかと言わんばかりの顔で、ふいと横を向く由井に、リシェは溜め息を吐く。
「だーって、代わりに舞ったのがフラルよ? あれ以来、なんかちょっと気取っちゃってるし」
 もちろん、禿や新造の中に派閥めいたものはこれまでにもあったけれど、神から遣わされた巫女の歓迎式典で舞うという栄誉は、どうやら要らぬプライドを植え付けたようで、ささやかな波紋を少女たちの中に広げていた。
 どこの世界でも、おんなじようなもんなんだな、などと由井が妙な所に関心していることなど知らず、リシェは憤慨している。それも、間もなくフラルが上臈に上がれば納まってしまう程度の事なのだが。
「そろそろ行こっか」
 手を差し伸べるリシェの手を、由井は握ったことはない。今日もか、と残念に思いながらも、落胆した顔をリシェは決して見せない。
 あの日。
 泉にいた女性の手を取らなければ。
 由井は未だに後悔している。
 人の良さそうな笑顔の、中年女性だった。何か話しかけて来たが、意味は全く分からず、怯えて逃げようとする由井を、安心させるようにそっと手を差し伸べた。その手を掴んでしまったのは、やはり人恋しかったのだろう。振り向くと、フェンはそれでいいよと言うかのように、ゆったりと尻尾をひと振りすると、音も無く森の奥へ消えてしまった。
 親切にしてもらったと、感謝はしている。どうやらここに売り飛ばされてしまったらしい事も仕方がないと諦めてもいる。
 でも、あの時、あの手を取らなければ、フェンと穏やかに暮らせていたのにと、由井は後悔する事をやめられない。
 まるで悲しいものを見るようにそっと引っ込められる手を見つめる由井に、リシェはいつも笑いかける。誰もがそんな顔をする何かを抱えてここにいるのだと、いつか由井にも知って欲しいと願いながら。

2008.08.12
 

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