星月夜の森へ

─ 10 ─

 それは、噂というにはあまりに静かなものだった。
 最近、墓所に詣でる人が増えている、という。
 もともとカーラスティンには、墓参りという風習はない。基本的に、土に還った命は神の手に委ねられており、そこに生者が介在する余地があるとは考えられてはいないからだ。自分の内側に根付く記憶と語らいたい時は、墓所よりもむしろ聖宮を選ぶ。
 そして、これこそ誰も声高には語ろうとしない密やかな変化なのだが──
 かの施療院は、砂に還るかのような虚無と孤独の中で逝く者たちの行き着く先でしかなかったはずだった。
 が、今ではほとんどの者が、家族や知人に看取られ、一輪の花を手に幸せそうな顔で逝くのだと。
 淀んだ死の匂いではなく、静謐でやわらかな光が、虚無と変わらぬ諦念ではなく、生を成し遂げたとという安らかさが満ちたその場所は、新たな聖地と生まれ変わろうとしていた。

◇ ◆ ◇

 時折、ラエルはお忍びで城下に降りる。
 他人の目や耳を通して見聞きする事は、客観視するには有効だが、他者の先入観や解釈の介入は避けられない。それに、ラエルは肌で感じる空気から読み取れる情報も重要視しているからだ。
 賑やかな市場だけでなく、薄暗い路地も時には通る。
 いくら城下の治安が良いとはいえ、危険な場所もある。だから、大っぴらに歩くときならいざ知らず、こんな時にサリューを連れて来たことは無かった。彼とて、一通りの武芸は身に付けており、己の身くらいは守れるはずだが、何せ身体は復調して間もない事だし、ラエル自身の危険に巻き込む可能性がないわけではない。この日も、拗ねるサリューを説得し、ついでに口裏合わせまで頼んで出てきたのだった。
 目立つ容姿は、カーラスティンの南部の風習であるターバンを巻く事で隠す事は容易かった。東部のタリニ砂漠付近の住人となると、砂を避ける為に全身をすっぽりと覆い、目元だけを出すような衣装を身にまとっている。砂漠で取れる美しい宝石や特産の香り高い花から取れる香油の取引などで訪れている彼らの姿を、この城下で目にする事は珍しくない。さすがにそこまで徹底せずとも、金色の髪を隠し、軽く目元を布で覆うようにターバンを巻いておけば、まず気付かれる事などなかった。
 先日、【金の小鳥】のお披露目が、大々的に行なわれた。古くからの友好国であるルウェルト皇国や隣国のグリヴィオラ、サルーファを始め、近隣の小国からも祝いの言葉と品を携えた王の代理人たちが続々と訪れ、秋の大祭と重ねたこともあって、それは華やかで賑やかしいものになった。特に、祭りの山場で空へと捧げられる歌には、国中から優れた歌い手を集めた。厳しい稽古を重ねた成果は圧巻で、伝説として語り継がれるだろうとまで言われている。
 広場には、城下に住むほとんどの人間が集まったのではないかと思われるほどの民衆が詰めかけ、そこを見渡せるように張り出した王城の露台に、王に伴われた陽菜子が姿を表した時には、空をも割るかというほどの歓声が上がった。
 陽菜子が纏っていたのは透き通るような薄いヴェールを幾重にも重ねた白いドレスだ。春のやわらかな光で染め上げたような金の髪、若葉色の瞳を引き立てて、より陽菜子を清楚で神秘的に見せていた。
 それを思い出すと、ラエルはまた顔を顰めずにはいられない。
 ドレスを作るための布は、王が宰相に命じてサルーファから取り寄せさせた。一見すると白だが、光に透かすと、水晶のように様々な色をはらむそれは、高位の貴族ですら入手が困難な一品だった。そして細い首周りを彩った、群青に金が散った小さな石を綴った二連のネックレス。あれは、かつてツァルト王国から友好の証として献上され、王族の宝物庫に秘蔵されていたものではなかったか。ツァルト王国の背骨となる連山でしか取れぬその石は、あの小指の先より小さな一粒ですらとんでもない値がつく。
 ここまで【金の小鳥】にのめり込まれるとは。
 確かに、この秋の収穫はここ数年の不安を払拭した。火山の活動もすっかりなりをひそめ、どうやら再び休眠期に入ってくれたようだ。荒天続きで滞っていたグローディ河の堤の修復がも今年に入って順調に進んでいると聞く。
 確かに、【金の小鳥】が現れてからというもの、塞き止めていた何かが取り払われたかのように、全てがうまくいっている。
 だが、長期に渡る不作や荒天があったとしても、終わりが無いはずがない。客観的に見れば、単に帳尻が合っているだけの事なのではないか。
 無論、そういう見解を持つ大臣もいるが、基本的に、彼らにとって【金の小鳥】の正体がなんであろうと、都合良く利用出来る存在であるうちは、どうでもよいのだ。王が腑抜けにされていようと、多少の散財をさせようと。
 まるきり平民の格好で、城下を歩いているうちに、その話を耳にしたのは、ほんの偶然だった。
「あら、今日も行くの?」
「少しでも、側にいてあげたいなって、思うのよ。うちでは世話出来ないんだけどさ」
「なんだか変わったわねえ」
「んー、変わったのは、おじいちゃんの方よ。多分、ヒナコ様のおかげだわ」
 通りかかった長屋の井戸端で、当たり前に交わされる女同士の会話に陽菜子の名を聞いて、ラエルはその女の後をそっとつけたのだった。
 辿り着いたのは、町外れにある、ほとんど誰も訪れる事もないという施療院。
 残り僅かな生を、ただ消費する為だけに過ごすべく作られた場所。
 それまで聞いていた話から聞いていた雰囲気とは違い、建物の窓は開け放たれて、午後の温かな光と空気を取り入れているようだ。
 近くにはみすぼらしい馬車が一台とまっていた。御者がひとり、ぼんやりと番をしている。
 ラエルは、気配を消してそっと窓辺に近付いた。
 ずらりと並んだベッドは、それなりの間隔を保っており、今は片隅に寄せられているが、仕切りとなる布もあるようだった。白い寝具は、遣われた日々によって多少黄ばんでいたりもしているようだが、汚れなどはなく、きちんと清潔に保たれている。そして、ベッドサイドにあるそれぞれの小さなチェストの上には、可愛らしい花が一輪、生けられていた。
 こんな場所の施療院ですら、きちんと行き届いた世話がされているなら、他も推して知るべしだな、ラエルは安堵する。こういうところから、綻びは始まるものなのだ。
「あら、ヒナコ様! いらしてたんですか?」
 先ほどの女の声が聞こえた。
「まあまあ、どうぞ少しは休まれて下さいな!」
 声の方に目をやると、奥まったところにあるベッドの傍らで膝立ちになっている陽菜子の姿があった。
 それでは、あの馬車は陽菜子が乗って来たものなのだろう。聖宮からここまで、徒歩でこれないことはないが、安全面の事を考えれば、無難な判断だ。そのベッドの主の手を彼女は両手で包み込むように握り、さっきまで話しかけていたようだ。女の声に賛同するように、ベッドの主はそっと陽菜子の手から自分の手を抜き取ると、そのまま陽菜子の髪を撫でた。
「ほら、エルダーさんもそうしろって。え、今日はお茶菓子があるんですって? じゃあ、みんなでお茶会と洒落れこもうじゃないですか!」
 ここが、本当に死にゆくばかりの人が集められた場所なのかと、ラエルは疑ったが、そこにいるのは、老いさらばえた者や、骨と皮ばかりにやせ細った者など、確かに死の陰を背負った者たちばかりなのだった。
 穏やかに、陽菜子は微笑っている。
 誰かに話しかけられる度、直ぐに振り向いては駆け寄り、惜しむ事なく笑みを与えていた。
 まるで彼らに望まれるままの、【金の小鳥】。
 誰もが、彼女を愛しているように見えた。
 やがて時間が来たのだろう、王城でも時折見かける侍女が、陽菜子の袖を軽く引っ張った。
 暇の挨拶を告げる陽菜子に、誰もが惜しむ声を送る。
 あと、もうひとときでいいから。
 そんなことを言う入院者には、陽菜子は、またすぐに来るからと、そっと手を握る。むしろ、そうして欲しくて、皆、我が儘を言ってみるのだろう。
 最後に、陽菜子はドアのところで振り返り、はにかむように微笑って手を降った。
 ぱたりとドアが閉じ、陽菜子の姿が見えなくなると、一様に溜め息が零れたが、空気が変わるようなことはなく、彼女の残して行った明るい光は、そのままそこに留まっていた。
 ふと気になって、建物の正面の方へ回ると、ちょうど陽菜子が馬車に乗り込むところだった。
 その横顔に、ラエルは酷く驚いた。
 いや、がつんと胸を殴られたような、そんな感覚だ。
 さっきまで微笑っていた少女は、どこへ行った?
 蒼白になった顔を強張らせていた陽菜子は、続いてソナが馬車に乗り込むのを待ち構えていたかのように抱きついた。
 その場所からは確かめる術はなかったが、彼女がソナの肩に顔を埋めて声を殺しながら、堪えきれぬ涙を流しているのだろう。いくらラエルでもおそらく真実に近いその想像に辿り着くのは、難しい事ではなかった。

2008.08.09


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