星月夜の森へ

─ 8 ─

 そこは、確かに王都クレインの一角にあった。
 日当りは決して悪くない。けれど、薄暗い印象が拭えないのは、もう助からぬ命ばかりが集められているからか。
「……ヒナコ様」
 蒼褪めた顔のソナが、腕いっぱいの花を抱えた陽菜子の袖を引っ張った。
「本当に、おいでになるんですか?」
 案内人をかってでてくれた看護人のひとりに憚るように、ソナは囁いた。
「どうして?」
「だって……」
 ソナが言いよどむのも無理はない。呪詛のような呻き声が時折漏れ聞こえるドアの向こうには、華やかな王都から隠された死の匂いに満ちている。王立の施療院のほとんどが、貴族たちの寄付による恵まれた物資と手厚い看護によって、明るい空気と生への希望に溢れているのとは対照的であった。

 陽菜子が巫女としての生活に馴染んだころ、それはティレンから提案された事だった。
「施療院を訪問なさいませんか?」
 退屈出来るほどの余裕はまだ無かったものの、日に三度の祈祷と基礎的な勉学の繰り返しに、やや飽きを感じていた陽菜子は、一も二もなく頷いた。
 人の口にとは立てられぬという言葉通り、既に【金の小鳥】が降臨したという噂は城下にも広がり始めており、極秘裏に進められていたはずの巫女のお披露目の儀式の準備も、今では大っぴらに行なわれていた。
 あれほど【金の小鳥】を待ち焦がれていた王が、直ぐにその発表をせずに勿体付けたのは、陽菜子の身の安全を考えての事ではない。数年の間があったからこそ、これまでにない派手な演出で、神から遣わされた守護者の来臨を国内外に広め、己の治世をより安泰なものにしたいという目論見ゆえだ。
 諸外国からは、古くさい因習だと思われているこの【金の小鳥】という存在ではあるが、カーラスティン王室を揺るがすには、良い材料だと思われてもいる。ティレンとしては、降臨した事実が発表される前に、暗殺でもされたらどうするのかと気が気ではない。表立って戦を仕掛けてはこなくても、王室の混乱を狙って、そういうことをしでかしかねない国は、すぐ隣にあるのだ。
 その存在が広がってからでは、その報復に民衆までもが立ち上がり、戦ともなれば互いの国力の消耗は軽くでは済まない。が、知らないうちであるなら、王室の内々で処理され、次の【金の小鳥】降臨まで、愚昧な王は意気消沈して項垂れているだろうと。
 それならば。
 先に民衆を味方につけてしまおうと、ティレンはささやかな抵抗を企てたのだった。
 陽菜子の施療院訪問は、予想以上の効果を上げた。
 特に何をしたという訳ではない。何の言葉もなく、そっと手を握っただけのことだ。
 それなのに、奇蹟を賜ったと、あっという間に評判になった。
 動かなかった手が動くようになった、足の痛みが無くなった、目が見えるようになった……。
 まるで、時折現れる、怪しげな祈祷師の触れ込みに似ていたが、老若男女、分け隔てなく、しかも金銭も労働も何一つ要求しないこともあって、うなぎ上りの評判は留まるところを知らない。
 入院中の子供や、親を訪ねて来た子供たちと無邪気に遊ぶ姿も、それを助長したのかも知れない。手加減や容赦など知らぬ子供たちと力一杯遊んでいるうちに、気が付けば一緒に昼寝をしてしまっていたりと、ふと少女らしいあどけなさを垣間見て、身近さも感じるのだろう。
 そんなある日、陽菜子は
「ここはどうして行かないの?」
 と、施療院の一覧が記された文書を手にティレンに尋ねた。
 そこは、リストの中でも一番下にあった。
 すでに二度目の訪問を済ませている施療院もいくつかあり、意図的に避けている事は明らかだった。
「そこは……、もう、死を待つばかりの者しかおりません」
 言い淀んだティレンは、すっと陽菜子から顔を逸らす。
 場所も、墓所に隣接しており、王都の中で唯一忌まれている場所でもある。死を忌むというよりは、未来を閉ざされた者たちが醸す暗く淀んだ雰囲気が、誰をも寄せ付けようとしないのだ。
「えーっと、伝染病とか、そういうの?」
「いいえ!」
 ティレンは強く否定した。
「非情と言われようと、治る見込みの無い伝染病に冒された者は王都にいる事はできません。それは王族ですら例外ではありません」
 ひとりを見過ごしたことが大禍を呼んだ歴史によって定められたそれは、この国では殺人よりも重い罪となり、現に百数十年前に行なわれた王朝の交代は、その決まりを王が破ったためだと記録されている。
 もちろん、はじめから血も涙もなく見放して打ち捨てるのではなく、王都からほど近いところに、専門の施療院があり、治療とともに研究も行われていて、所定の手続きを踏めば見舞いも可能だ。
「それならね、尚更行かなくちゃいけないって思う」
 思いもよらない言葉に、ティレンは絶句した。忌むべき場所に自ら赴こうなど、彼女の思考では在り得ない展開だ。
「もし、移る病気なら、みんなに迷惑が掛かるかもしれないから、行きたくても行っちゃいけないけど……」
 もどかしそうに言葉を継ぐ陽菜子に、ティレンは冷たいほどの声音できっぱりと言った。
「陽菜子様が足を運ばれたところで、死は平等です。神の御手から逃れる事はできません」
「そういうことじゃないの!」
 駄々を捏ねる子供のように、陽菜子は首を横に振る。
「よく分かんないけど、まるでもういない人みたいに避けられてるなんて、寂しい」
「ですが、ここは、最も死に近い場所として忌まれております。そんなところに陽菜子様をお連れするわけには参りません」
「死に近いっていうのは、神様にも近いって事よね? それっていけない事なの?」
 今ひとつ、言わんとする事が飲み込めず、ティレンは問うた。
「ヒナコ様のお国では、そのように言われているのですか?」
「人は死んだら閻魔様のところで裁かれて、それからまたこの世に生まれてくるんだって。おばあちゃんの国では、死んだら神様のところに召されて、幸せに暮らすんだって言ってた」
 カーラスティンでは、人は死んだ後、精霊によって冥府へ導かれ、大地の女神の手で再び新たな生命として送り出されるのだと言われている。陽菜子の話と近い物はあったが、少なくともティレンには、死と神が近しいものという感覚はない。逆に言えば、常に神の存在が近しいのだともいえた。陽菜子の存在が、まさにそれだ。
 が、陽菜子の言葉を否定する気持ちにはならなかった。
 ルウェルトやグリヴィオラもカーラスティンと異なる信仰を持っていたことを頭の片隅で思い出しながら、ティレンはゆっくりと頷いた。
「分かりました。そうおっしゃるのであれば、次の訪問先はこの施療院にいたしましょう」

 そうして、陽菜子は、その扉を開いた。
 入院者たちは、きちんと看護を受けていたし、寝具も寝間着も清潔に保たれている。院内の環境も、ほかの施療院と変わりはない。
 けれど、看護人の案内で、中へ入って来た陽菜子に、視線を向ける者は誰もいなかった。しんとした中で扉が開き、足音も少しはしているのだから、気付かぬはずが無い。歓迎されていない事は一目瞭然だった。慌てたように、
「巫女様が、お見舞いに来てださいましたよ」
と案内の看護人が、わざとらしいほど明るく告げても、身じろぎ一つしようとしない。ただ、白けた雰囲気が広がるばかりだった。
「申し訳ありません、いつもは、もう少し……」
 ぽそぽそと尻すぼみになる言葉通り、実のところ普段もさして変わる事が無いのだろう。
 まるで時間を止めようとでもしているかの如く、凝った空気の中、聞こえるのはくぐもった呻き声のみ。
「こんにちは。陽菜子です」
 笑顔とともに、陽菜子はお辞儀をすると、ひとりひとりに花を差し出したが、その手で受け取る者はひとりとしておらず、枕辺におかれた花は、そっと萎れていった。

 
2008.08.07


inserted by FC2 system