星月夜の森へ

─ 7 ─

 ──どうしよう。
 ソナは、真っ青になっていた。
 一昨年の洪水で家族と帰る家を失った彼女は、運良く、視察中の衛目(もりめ:聖域を巡回して管理、保全する神官)に神殿の下働きとして拾われた。
 同い年ということもあってか、国の守り神から遣わされたという巫女に偶々気に入られ、侍女として取り立てられたソナが得たのは、これまで袖を通した事もないような手触りの良い服、確実に日に三度というだけでなく、これまで以上に豪華な食事、寝心地の良いベッドとやわらかな枕という、夢のような待遇で、日々、一層職務に精を出していたのだが。
 ──どうしよう。
 今、それを失いかねない危機にあった。

 目を離したのは、ほんの僅かな時間だ。
 前回、王城に呼ばれた時に、ひと騒動おこしていたこともあって、ティレンから決して目を離さないようにと言い含められていたとはいえ、巫女の為にお茶をいただこうと、ほんの少し控えの間を空けただけなのだ。
 既に用意中だというので、すぐ隣にある取り次ぎの間で待機していた侍従の青年ネイアスと、ほんの少し言葉を交わし、届けられた芳しいお茶を手に戻った時には、もぬけの殻になっていた。
 【金の小鳥】と呼ばれる巫女の存在は、まだごく一部を除いて秘匿されている。だから、表立っての警備はしていない。
 ──どうしよう。
 探そうにも、ソナとて王城内は不慣れだ。何処を探していいのか見当すら付かない。
 いくら王城内だからって、無防備に歩き回って、もし何かあったら……と押し寄せる不安に、微かな苛立ちが寄り添う。
 どうしてあの方は、大人しくしていて下さらないのだろう。周囲の者が、わたしが心配するとか迷惑が掛かるとか考えもしないのだろうか。
 それに。
 薄々だが、ソナは陽菜子が方向音痴ではないかと疑っていた。
 たまに、おかしな方向へ歩き出すこともあるし、聖宮の中でさえ、時々、思いもよらぬ場所にいて、迎えにくるのを待っている。
 部屋の入り口で、盆を手にしたまま固まっているソナを不審に思ったネイアスは、無礼を承知で後ろからソナの肩越しに部屋の中を覗いた。
「巫女様は?」
 咎めているのではない、優しい声音だったが、ソナはびくりと肩を震わせた。
「あ、えーと、その、」
「また脱走なされた?」
 かちゃかちゃと派手に鳴った食器が、返事代わりだった。
 危なっかしい様子に、ネイアスは横からそっと盆を受け取る。
 先日の騒動にはネイアスも当然駆り出されており、またか、と溜め息を吐きたい気分は満々だが、ソナの様子が哀れに思えて、溜め息の代わりに極上の笑みを引っ張り出した。とりあえず、王族の側に仕えるものとして、他者から怯えられるような容姿ではない自覚はある。
「大丈夫。少なくとも、先ほどまではおられたのでしょう?」
 こくこくとソナは頷く。
「この部屋から抜け出すとなると、取り次ぎの間を通る以外には……」
 ふと気が付いて、ネイアスは部屋の奥へ向かい、ソナも慌てて後に続いた。
 庭園に向けて大きく開かれた窓から露台へ少し身を乗り出したネイアスは、ソナを手招きした。
 広々とした露台の片隅で、手すりに身を乗り出すようにして、下にいる誰かと話をしている陽菜子がそこにいた。安堵のあまりに脱力したソナを椅子に座らせて、ネイアスもそっと息をつく。
「良かったですね」
「え、ええ、はい、お騒がせしました……」
 落ち着いて考えてみれば、ネイアスの言いかけた通り、取り次ぎの間を通らずして、外に出る事など出来ない。それに、ひとりで出歩くと周囲が心配するからと、ティレンにもしっかり言い聞かされていたはずで、素直な質の彼女が、そうそう考え無しな行動をとる訳もなかったのだ。
 ソナは自分の早合点に、今更のように真っ赤に顔を紅潮させて俯いた。
「まあ、部屋の中にお姿がないのですから、慌てるのも無理はないと思います」
 気を使ってか、露台の方へ目を向けたまま、ネイアスは言った。
 先日の騒ぎを思えば、また、と思うのも仕方がない。
「はい……」
 それでも、現在の恵まれた状況から、ただの下女に逆戻り、悪くすれば、放り出されるかも知れないとまで一瞬の間で考えてしまったソナは、居たたまれない気持ちでいっぱいだった。
 こんな自分を側に置いてくれている巫女様に、なんて失礼な誤解をしてしまったんだろう、と。
「巫女様は、とてもお幸せな環境でお育ちになったんでしょうね」
 不意に言われて、ソナは思わず顔を上げ、ネイアスの顔をまじまじと見つめた。
 決して非難している訳ではない。そこにあるのは、羨望のような妬みのような不思議な微笑だ。
 陽菜子がどんな環境で育って来たのかといった話は、会話の練習も兼ねてこれまでたくさんの事を聞いていたから、ソナにはその問いなのか呟きなのかもわかりかねる言葉に、答える事は出来たけれど、すべきかどうかの判断が、咄嗟には出来なかった。
「ほんの僅かな油断が命取りになるのだとお分かりになっていないというのは、そういうことだと思いまして。だから、あなたが苛立つのも無理はありません」
 全て見透かされていたのかと思うと、それこそ、湯気が立たないのが不思議なほど、ソナは顔を上気させた。労るような優しい視線から逃れる事も出来なかったことも、それに拍車を掛けたかも知れない。
 半ばパニックを起こして、ぐるぐるしていた頭は、それでも侍女の職務をどうにか覚えていたらしい。
「あ!」
「どうしました?」
 いきなり立ち上がろうとして、よろめいた彼女を支えながら、いったい何事かと尋ね、
「もし、不審者相手にお話なんかされてたらっ!」
 今度は、ネイアスの方がちょっと脱力したい気分だった。今頃気付いても、さすがに手遅れだと思うのだが。こんなおとぼけさんに【金の小鳥】の侍女など任せて大丈夫なのだろうかと、若干心配になる。
「大丈夫でしょう。この部屋の下というと、おそらくお話し相手はルサリア様かと」
「ルサリア様って……あの、噂の?」
「ええ」
 こそりと落とした声音に、おそらく、ソナの聞いている噂というのは、王太子のご学友になり損ねた貴族の子息さまどもが悪意を込めて流している類いだろうとネイアスは、こっそり嘆息する。
「王太子のお気に入りの方です」
 わざと、そういう言い方をしてみると、ソナはばつの悪そうな顔をした。
「なんでも、亡くなられた皇太后さまがお輿入れの際、ルウェルト皇国から付き従っていらした侍従のお孫さんだそうです。ルウェルト皇国の名門貴族に連なる方で、非常に学識も高く、王太子の側付きとなられるのに、充分に相応しい方ですよ」
「……噂とは、全然違うんですね……」
 何気ないソナの呟きに、ネイアスはやや首を傾げた。それは、単に分かってもらえればなによりという意味でしかなかったのだが、どうやらソナはそう思わなかったらしい。さっと顔の色を失って、ソナを支えていたネイアスの腕から慌てて逃れると、ドア際の壁を背におろおろと立ち尽くした。逃げようにも逃げ場など無いのだ。
「何処の馬とも知れない生まれのくせに、ルウェルト貴族の名を騙って王子に取り入った小悪党、ですか?」
 今度こそ、ソナは真っ青になって竦み上がった。確かに彼女が耳にしていたのはそういう噂で、それ以上にえげつないものさえあったのだ。
 あまりに怯える様子にネイアスはくすりと微笑った。つい悪戯心が湧いて余計なことを言ってしまったと満足ついでに反省してみる。直ぐに安心させてやる事など容易い事なのに、くるくる変わる表情が面白くて、なんとなく突いてみたくなったのだった。
「すみません。意地悪をするつもりはなかったんですが」
 まなじりに零れんばかりの涙を溜めて唇を噛むソナの髪をそっと撫でてやりながら、ネイアスはさすがに気が咎めていた。何も、泣かすつもりはなかったのだ。レースに縁取られた手巾で、そっとソナの目元を拭ってやると、ほっとしたのか、ほろほろと涙が零れてゆく。
「あなたの耳にまでそんな噂が入るのは、王太子とルサリア様ご自身が、放置しているからなんです。信ずるに足る人間かどうかを見極めるのに、ちょうどよい機会だとかで」
 ついに本格的に泣き出してしまったソナを、子供をあやすように宥めていると、
「ソナに何してるの!」
 びっくりするほど甲高い声が室内に響いた。
 頬を真っ赤に染めた陽菜子が、窓辺で棒立ちになって、身体の両脇で拳を握りしめている。
 御歳十四、まっとうな反応かなと、ネイアスは頭の片隅で思う。ここで、平然とされていても、困りはしないが可愛げが無さすぎる。
 端から見れば、ソナがネイアスに抱きしめられていると勘違いしても無理はなく、唐突に目にするには、やや刺激が強かったかも知れない。
「巫女様が、ルサリア様と楽しそうにお話なさっているのが羨ましくて、ソナを口説いておりました」
 言い訳になっているのかいないのか微妙な答えに、ぴたりとソナの嗚咽がとまり、赤く腫れた目が、よくもまあそれだけ開けられるものだと感心するくらい、大きく見開かれて、ネイアスを見上げた。それにネイアスはにっこりと笑みを返す。
 その様子に、のけ者にされたような気がするのか陽菜子が癇癪を起こした。
「な、あたしは、ただおしゃべりしてただけよ!」
「そうでしょうね」
「お庭が綺麗だったから、そこから眺めてたら、ルサリアが!」
「おしゃべりに夢中になって、ソナがお茶を持って戻って来た事にもお気づきにはならなかったんですね」
「だって、勝手に外に出たら、みんなに心配かけちゃうし、でもお庭は気になるし……」
 ちょっと旗色が悪くなって来たせいか、陽菜子の声が尻すぼみになる。
「ええ、それは分かりますとも。国内外に誇れるものだと庭師も自負しておりますから」
 にっこりと笑うその中で、目にはむしろ剣呑なものがあることに、陽菜子はようやく気付いた。
「……もしかして、泣いてるの、あたしがソナに心配かけたの?」
「とんでもございません! ヒナコ様のせいなどでは決して!」
 自分の名に敏感に反応したソナが、弾かれたようにネイアスの腕から飛び出して、陽菜子に駆け寄った。
「じゃあ、あんたがソナを苛めてたんじゃないの!」
 俄然、勢いを取り戻して陽菜子はネイアスに食って掛かる。
「ヒナコ様、それも違うんです、あの」
 その言葉をノックの音が遮った。
「そろそろお時間です」
 王付きの侍従が、厳めしい顔で立っていた。
「では参りましょうか」
 何事も無かったかのような顔で、ネイアスは陽菜子を促した。

 
2008.08.05


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