星月夜の森へ

─ 5 ─

 その夜、銀月楼の楼主タランダは常になく上機嫌だった。
 久しぶりにトラトスが連れてきた珠玉。
 手付けを払うどころか、肝心の珠玉を見もしないうちから、手に入れた気になっていた。
 こんなお気楽者で、世知辛い浮き世を渡っていけるのかというと、これでも以前は城下でもその名の知れた両替商だったというのだから恐れ入る。もし、長兄が流行病で早世し次兄がどうしようもない放蕩者でなければ、豪商として歴史に名を残したかもしれない人物ではある。
 彼は、亡き父の後継として楼主の座につく際、潔く店を番頭に譲り渡した。その時は正気を疑われたものだが、親の臑を齧っていた頃に遊学した、隣国のサルーファやグリヴィオラで得た知己は、いまだ商売上の協力者であり、銀月楼の上客でもある。つまり、単に商いの幅を広げたに過ぎないと知って、今では彼を侮るものはいない。
 あれは、商品になる。
 頭からフードを被されて、まるで中身は分からなかったが、長年の勘がそう囁いていた。
 まだ金のない若かりし頃、行商人をしていたこともあり、各国で様々なものを目にしたことは、品定めの確かさの自信に繋がっていた。
「あなた、お酒が過ぎますよ」
 ひとり、顔を緩ませているタランダに、伴侶のアーウェルは呆れ気味に言う。
 銀月楼の上臈たちも霞むほどの美女だが、遊郭とは縁も所縁もない。タランダがまだ行商人をしていた頃、この人と見込んでやってきた押し掛け女房である。それなりに善良で商才に恵まれていても、小柄で小太り、よく言えば愛嬌のある顔という男と、この美女の組み合わせを周囲は未だに不思議がる。
「いいんだ、前祝いなんだ。お前も一緒にどうだ」
「私はいいですよ。それよりも、いいんですか、そんな浮かれていて」
「トラトスが連れてきた珠玉だぞ? 上玉に決まってるじゃないか」
「商品を見もしないうちからそんな事を言うなんて、あなたらしくありません。酔い覚ましにカムレンのジュースでも飲んで、さっさと寝て下さいな」
 目の前に差し出されたガラスのコップには、鮮やかなオレンジ色の果汁がなみなみと注がれている。翌日の二日酔い予防にはもってこいだが酸味が強い。きっと甘味付けにムムルの果汁は加えてくれてはいないんだろうなと、やや情けない顔でそれを受け取ったタランダは、よもや妻の言葉が予言になるなど、露ほども思っていなかった。

 翌日の夕方、まるで示し合わせたかのように楼主たち十数人がトラトスが逗留する茶屋に集まっていた。彼らを前にして、当のトラトスは酷く渋い顔でキセルを吹かしている。
「正式なお披露目は後日としても、顔見せくらいはいいだろう?」
「そんなに焦らすほどの上玉なのかい」
 好き勝手なことを言う楼主たちを横目に、トラトスは、襖の向こうにいる珠玉をどう見せたものかと思案していた。
 なまじフードで隠してしまったが故に、楼主たちの期待を煽ってしまったのだが、かといって隠さないわけにもいかなかった。そもそも、お披露目に出すつもりが無いのなら、連れてこなければよかったのだ。いずれにせよ、ここまで自分の連れて来る珠玉がもてはやされていた事に無頓着だったのが面倒を呼んだ事には違いない。
 いっそ、享楽の街ネペンサにでも連れて行けば良かったかと、今更苦々しく思う。今からでもそうするのが、商売人としては正しい。慈善事業をしているわけではないし、手に入れるのに相当の金を払っているのだから。けれど、まさに熟し切り、甘い中に腐臭が混じるような街に、珠玉を放り込むことを想像すると、さすがに肚を括るしかないかと、軽く音を立てて灰吹きに灰を落とした。
 不意に煙草盆を横にやり、居住まいを正したトラトスに、楼主たちもそれに倣う。
「せっかくお集りいただいてるんで、先に申し上げておきます。今回の珠玉はちっと訳ありで、本来ならネペンサに落とす方が相応しい」
 楼主たちは互いに顔を見合わせ、ざわめいた。トラトスが、そんなことを言う事自体始めてのことで、動揺は大きいようだった。
「異国の者なので言葉が通じませんし、随分と辺境で生まれ育ったのか、この国の生活様式をまるで知らないようです。躾は根本的なところから施さねば使い物にならないでしょう」
「いや、そのくらいなら、うちで引き取って、立派にやってるのがいるよ」
 楼主の一人が言う。
 食うや食わずの生活で、身体は骨と皮ばかり、性格もすっかり強情になって、およそまともな上臈になりそうにない少女が、艶やかで手練手管に長けた美女に生まれ変わるというのは、珍しくもない話だ。この程度の理由で、楼主たちを諦めさせることは無理だとトラトスは覚悟を決めた。
「皆様、傘持ちは連れておいでで?」
 いくら治安の良いアトール内とはいえ、楼主が用心棒を兼ねた荷物持ちを連れて歩くのは、箔付の意味でも常識的なことだ。揃って、頷くのを見届けると、
「じゃあ、銀月さんと東雲さんとこの傘持ちを、ちょっとお借りしたい」
 まだ事情も飲み込めていないから暴れるかも知れないと、借りた二人の傘持ちを連れて、トラトスは襖の向こうに一度姿を消した。
 ほどなく、お披露目の際に着る衣装をつけた少女が、傘持ちの一人に羽交い締めにされて現れると、楼主たちからは一斉に感嘆の溜め息が零れた。
「その髪は……染めているのかい?」
「いや、生まれつきのようです」
 まるで忌むべき事のようにトラトスは答える。
 娘の肩を覆う艶やかな黒髪。
 伝説の存在だという意識がある故に、手に入れようとした事もないが、もしお披露目に出たなら、どれほどの高値が付く事か。
 楼主の誰もが、店の身代を傾かせでも、と喉を鳴らす。
「略式だが、お披露目をしましょう」
 トラトスは、厳かと言ってもいい声音で告げた。
 本来なら、その年の灯衛(あかりもり:町内会長みたいなもの)を担う楼閣で行なわれるのが習わしになっている。それは、闇取り引きを防ぐ為でもあるし、上臈となる者への配慮でもあった。例外は、楼主八人以上、灯衛を勤める楼主が在席していることという条件で認められている。この場は、その条件が十二分に揃っており、異議を唱えるものは誰もいなかった。
 もう一人の傘持ちが、少女の顎に手を掛け、正面を向かせた。
 理不尽な扱いに怒る少女の目も、深い泉のような黒。
 歪んだ表情からでさえも、顔立ちは充分に整っている事が窺える。女性らしさは感じられないのが難点と言えば難点だが、化粧と仕草で幾らでも化けられるだろう。
「こんな上玉、なにが訳ありなものかい」
「それとも、まさか身体に酷い傷痕でもあるのかい?」
 折檻や虐待、権力者の慰み者にされて、衣服で覆える部分に限らず、見るに耐えない傷痕を抱える者は、アトールにも何人かいた。上臈でなく、飯炊きや仕切り女といった裏方になることが出来るからだ。
 トラトスは、軽く首を横に振ると、二人の傘持ちに、顎で合図をした。
 お披露目用の衣装とは、珠玉を引き立たせる為だけでなく、その中身を披露しやすくする為に身につけるものだ。淡い空色に銀糸で細やかな模様が織り込まれたそれは、派手さはないが、見る者が見れば、滅多に手に入らないサルーファ産の織物だと分かる。帯も同じくサルーファ産で、しかも手の込んだ染めが施されていた。
 それだけのものを身につけさせて、これが上玉でなくてなんだろうと、楼主の誰もがトラトスの意味深な前振りを、彼にしては珍しい勿体付けだと思い始めていた。
 しゅるりと帯が解かれ、左右をあわされていただけの身頃の襟は傘持ちの手で開かれて、そのまま床の上に落とされた。
 いきなり十数人の男たちの前で裸身を晒されて、少女は身を隠そうと暴れた。傘持ち二人の力に敵うはずも無く、各国の言葉に長けた楼主たちにも分からぬ言語で、おそらくは罵詈雑言の類いを喉が嗄れるまで叫び続けた。
 その激しさに気圧されたこともあったが、目にしたものに、一同は静まり返っていた。
 トラトスが出し渋った理由を、ようやく理解していた。
 一見すると少女の身体には、十五、六の娘なら、どれほど貧弱だろうとあるはずのまろい双丘が無かった。第二次性徴が始まる少女でさえも、もう少し丸みを帯びた身体をしているのではないだろうか。まるでそれは、幼年期から少年期に移り変わる時期の男子のものに見えた。では少年なのかといえば、下腹部の薄い茂みに隠された場所に、あるべきものはない。
「……陰花はあるのかい?」
 おそるおそる楼主の一人が尋ねた。
「形ばかりは。機能するかどうかは分かりません」
 トラトスの答えに、次々と溜め息が連鎖してゆく。
「双成りを見た事はあるが、これは……」
 そう、もし両の性を併せ持つ者ならば、神の愛し子として聖宮に迎え入れてもらうことができる。俗世に留まりたいのであれば、保護や後見を申し出る貴族は引きも切らないだろうし、このアトールでも最上級の傾城として名を馳せる事も可能だ。
 だが。
 どちらでもない者など、誰ひとりとして見た事も聞いた事も無い。
 そして、ここにいる誰もが密やかに感じたのは、不吉かもしれないいうことだ。双成りが神の愛し子なら、これは、まるで神から見放された者ではないかと。
 けれど、子供の頃に誰もが聞かされるおとぎ話に登場するのは、悪魔から人々を守り、王となる勇者を助けたという黒髪の賢者。
 ここにいるのは、果たして禍なのか福なのか、彼らは見定めかねていた。
「これで納得いただけたなら、お引き取り願えませんか」
 床に落とされていた衣装を、傘持ちに支えられてようやく立っているだけの少女の肩にかけ、トラトスはその身体を引き取る。
 出来れば、ネペンサに落としたくはない。けれど、ここでもこの異形を売り物にして見世に出されるのであれば、いっそ、異形の集う街にいた方が、まだどこかに救いがあるかもしれないとも思う。いくら悪徳の街と陰で言われる場所でも、それなりに良心的な店主の知り合いに心当たりがあった。
「ちょっと待ってくれ、正式なお披露目はするんだろう?」
 禍福いずれなのかはともかくとして、このアトールで、異形を売りにする事は非難を免れず、下手をすれば客が離れて見世を傾かせる事にもなりかねない。無論、その個人を否定するものではないから、飯炊きや仕切りと言う、裏方の仕事に就かせる事は可能だろう。でも、身体を商品にせずして、その身に追わされた借財を返す事など出来はしないし、トラトスの連れてきた珠玉なら尚更だ。
 見世に出せないなら、意味は無い。でも、この世にも珍しい黒髪黒瞳をただ諦める事は余りに惜しい。納得もしくは決断する時間が欲しいと、一部の楼主は言外に訴えた。
「いえ、そのつもりはありません。明日にでも、ここを立ってネペンサにでも連れて行きます」
「そんな! 仮にも黒髪黒瞳だぞ?」
「これでも元手が掛かってるんです。それとも何ですか、見世を傾けてまで、引き取って下さるとでも?」
 冷たくトラトスは言い放った。
 しんと静まり返った場に、外の騒がしい声が聞こえてくる。
 この茶屋の下働きの少女のようで、客がもめ事でも起こしているのか、何か静止しようとしているようだ。それが、だんだんと近付いてきて、さすがに一同が何事かとざわめき出たところに、ぱん、と小気味良い音を立てて障子が開いた。
「トラトス、その子をどうするつもり?」
 普段着姿のヴィリスが、禿も連れずにそこにいた。普段着とはいっても、町娘には手の出しようも無い絹織物のワンピースに、レース編みのショールを羽織っていたりするのだが、城下町を歩いていても違和感のない格好だ。それでも匂い立つような美しさは際立っており、凝りかけていた場の空気をやわらかく解かす。
 たとえ着飾らずとも女神の如く優美なその姿を、楼主たちは眩しげに見つめた。唯一、タランダだけが、この跳ねっ返りが何かしでかさないわけがないと、既に頭痛すら感じているような面持ちで深々と溜め息をついていたのだが。
「ネペンサに連れて行く」
 そのヴィリスを相手にしても、トラトスはきっぱりと言い切った。
 それを軽く鼻で笑ってみせると、
「その必要は無いわ。わたくしが、その子を買います。あなたが支払った倍でいかが?」
 ヴィリスはとんでもない事を申し出た。
「何を巫山戯たことを……」
 とうに年季も明け、馴染みにはこの国の宰相もいるとさえ噂される彼女なら出せない額ではないだろうが、あまりに常識外れな申し出に、トラトスは不快感を隠さない。
「巫山戯てなんかいないわ。どうせ楼主たちはこの子を手にする度胸なんてありはしないんでしょう」
「……聞いていたのか」
「ええ」
「それなら、楼主たちの判断が賢明だということは分かるだろう」
「そうね。でも、わたくしがこの子を欲しいのよ。もちろん、裏方なんかには回さない。新造として仕込むけれど、異形を求めて来るような下種の相手なんかさせない。それならば、文句はないでしょう?」
 大した啖呵だった。
 さすがアトール随一の傾城だと、観念せざる得ないほどに。
「銀月さんに異存は?」
 半ば投げやりにも聞こえるトラトスの問いに、さらに情けないような溜め息とともに軽く肩をすくめたのが、返事であるらしい。
 そして全てを納めたのは、婉然とした微笑とともにこの場の一同に向けられた言葉だった。
「お集まりの皆様、この珠玉、ヴィリス・シュティーク個人が買い取る事に、賛同して下さるかしら」

2008.07.29


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