星月夜の森へ

─ 3 ─

 それは、温かな水底から、ふわりと浮き上がるような目覚めだった。
 優しい手のような風に揺り起こされて、目の前に広がっていたのは、満天の星。
 プログラムの最中に眠ってしまったんだっけ?
 ふとそんなことを由井が思ったのは、プラネタリウムを見に行く約束をしていたからだ。
 背中に感じるのは、プラネタリウムの座席のシートのような柔らかさではない。コンクリートのような無慈悲な硬さでもなく。
 そこが何処なのか、考えたのはほんの一瞬の事。
 見知らぬ星座しかない空を、由井は見つめていた。
 やわらかな下草は朝露に濡れていたが、厚手のコートとマフラーのおかげか、寒くはなかった。真冬のはずなのに、頬に触れる空気は優しい。
 闇色から藍色へ、群青色へと変わる空の中で、星がひとつ、またひとつと姿を消して行き、薄紫色の空に最後の星が消えて、ようやく由井は身体を起こした。
 どうやら森の中にいるというのは分かっても、周囲の様子がはっきりしてきたのは、日の出を迎えて、曙光が射してきてからのことだった。
 寿命が尽きたのか、落雷でもあったのか、苔むした倒木の周囲はまだ背の低い木がひょろひょろと伸びるばかりで、遮る木の枝葉がなく、たっぷりと陽光を浴びているからだろう、青々とした草地が広がっていた。
 樹々の様子から、季節は初夏といったところか。まだ瑞々しい葉が陽光を透かしてきらきらしている。
 季節が変わるほどの間、眠っていたのだろうか。
 それとも、まだ、夢を見続けているのか──。
 だとしても、その後見たのは、悪夢に違いなかった。
 人の姿を、集落を探して森の中を彷徨い、ようやく道らしきものを見つけた時には、既に太陽は中天に差し掛かっていた。
 不意に声を掛けられ、振り向いた先にいたのは、農夫と思しき二人の男たち。ほっとしたのも束の間、彼らの表情は明らかに不穏なものだった。
「××××××」
 しかも、言葉がまるで分からなかった。
 剣呑な様子に、思わず後ずさると、二の腕をがっちりと掴まれ、振りほどこうともがいていると、もう一人の男が、にやりとした笑みを口許に浮かばせて、取り出したナイフで由井の髪を一房を切り取った。
 ぶつっという、髪が断たれる音に、由井は無我夢中で暴れたことまでは覚えている。
 気が付けば、森の中に逃げ込んでいた。袖は何カ所か破れて、枝で打ったのか、頬にも傷ができていた。
 由井は、初めて、この状況に恐怖を感じていた。
 一体自分が何処に居るのか、想像もつかない。
 いや、バカバカしい想像ならつくのだが──。
 それを否定しきれないのは、自分の身に起きた変化だった。
 そのひとつは、些細な事ではあるのだが、特に目立つこともなかった黒茶の髪が、漆黒に、日に透かすと紺青に見えるようになっていた。
 意識的に、変化からは目を背けた。
 邪魔にならないようにと言うよりは、見えなければ気にせずに済むという理由で、髪を後ろでひとくくりにしている。それでも、切られた髪はこぼれてしまい、頬に触れる度、嫌でもその変化を由井に突き付け、また、その時の恐怖を思い出させる。
 しばらくは、バッグに入れていたチョコレートを少しずつ齧りながら、森の中で恐る恐る口にした果実で飢えを凌ぎ、眠りから覚めた草地からほど近い所にある泉で乾きを癒して日々を過ごした。
 やがて、男たちに遭遇した場所からさほど離れていないところに村があるのを知った。
 見つからないように、遠くから見る限り、そこは由井の知る国の風景でもなく、暮らしている人々も馴染みのない人種だった。
 例えるなら、欧州の片田舎。しかも、かなり時代錯誤な。
 田舎であればあるほど、異端者は厭われる。それは、由井が子供の頃住んでいたところも同じで、転校生が酷い苛めにあったり、新しい住民が地元の住民から全く受け入れられず、早々に出て行ったりするのは珍しいことでもなかった。
 そのことを、由井は身をもって知っている
 魔女狩りという言葉を思い出して、由井は恐怖ばかりを募らせ、絶望に侵食されていった。
 やがて食べるものを探しにいく気力も失われ、ただ耐え難い乾きを癒す為に泉で喉を潤し、そのままほとりに横たわって過ごすようになって幾日かした頃。
 黒い影が落ちたことに気付いて、のろのろと目を向けると、手を伸ばせば届くようなところに、獣がいた。一見するとヒョウのようだが、白銀に輝く毛並みにはヒョウの特徴たる斑模様は無い。
 青紫色の瞳が、探るように由井の顔を覗き込む。
 そのまま喰われるのだろうと、由井は目を閉じた。
 人に殺されたり傷つけられるよりは、この美しい獣に喰われる方が遥かに良いと、自らその喉頸をさらけ出した。
 鼻先が押し付けられて、さすがに恐怖に身がすくんだ。もし、声が出たなら叫んでいただろうし、身体が動いたなら逃げ出していただろう。
 どちらも叶わぬまま、固く閉じていた目を開けると、目と鼻の先に獣の顔があり、べろりと鼻先を舐められた。
 そして──
 獣は、するりと身体を寄せ、由井の回りを一周すると、確認は済んだとばかりに傍らに身を横たえて、大あくびをしてのけた。
 猛々しい牙と鋭い爪。
 彼が気まぐれを起こせば、由井の命など一瞬で消え去るだろう。
 けれど、それ以来互いに寄り添って泉のほとりで午睡をむさぼるのが、当たり前の日常となっていた。
 あまりにやせ細った由井を見かねたのか、はたまた食べごろになるまで肥らせようという魂胆なのかはともかく、森の中を歩き回るだけの体力を失っていた由井に果物を届け、小雨が降って冷え込む夜には、いつの間にかやって来て、その身体を温めるように寄り添って眠った。
 ウサギに似た小動物が置かれていたこともあった。彼が獲物を分けてくれたのだろうと感謝しながらも、食べる術を由井は知らなかった。火をおこす事も出来なかったし、よしんば起こせたとしても、捌く道具も、その度胸も無く、途方に暮れているところを、別の獣に攫われてしまった。そのとき感じた情けなさは自分の名をど忘れしてしまった以上のもので、以来、そういった恵みは無いことに、少しだけほっとした。
 ある程度体力が回復すると、彼は森の中で由井を連れ回した。
 夜を過ごすのにちょうどいい洞穴も見つけ、森は豊かで、食べられる果実を見つけるのはさほど難しくないことを知り、こんこんと湧く泉の水は美味しさにコーヒーも紅茶も恋しいと思わなくなっていたことに気付いた。
 由井にとって、彼はただの獣ではなくなっていた。
 その彼が、ぴんと耳を立て、頭を上げた。
「フェン?」
 由井が勝手に付けて呼ぶようになったその名を当たり前のように受容した彼は、普段ならちらと視線くらいは寄越すのに、森の方を睨んだまま、尻尾すら動かさない。
 身を起こして、由井もそちらを見やった。
 かすかな違和感。獣の気配だ。
 緊張に固まる身体を、フェンは尻尾で軽くはたき、ゆっくりとその体躯を起こすと、するりと森の中へ姿を消してしまった。
 やがて聞こえて来たのは、低い咆哮と枝が折れ、幹に何か重々しいものがぶつかる音。その激しさは争いを想像させた。
 否応無く研ぎ澄まされつつある由井の感覚に、酷く緊張した空気が痛い程伝わって来て、身動きが取れない。以前、フェンが鹿を仕留めた時には、ひたすら静かであったというのに、そこにあるのは殺気と言っても差し支えない凶暴さだ。
 やがて、弱々しくも甲高い叫びが一声上がると、静寂が訪れた。
 無音を破ったのは、口許を血に染めたフェンだった。
 低木の茂みから、悠然とその体躯を現すと、何事もなかったように由井の傍らに寝そべり、べろべろと自分の身体を舐め始めた。
 テリトリーに入って来た同種との戦いだったらしい。血に汚れた爪も口の回りも、綺麗に舌で舐めとる姿は、王者の貫禄だ。勝利を誇るでなく、喜ぶでもなく、ただ当然の事を済ませて来たという力強さ。
 彼の存在が、この森を『魔の森』たらしめて、近隣の住民の侵入を拒む要因となっていることなど、由井は知らない。
 夕方になって、雨が降り出した。
 そんな夜は、昼間の暑さが嘘のように冷え込む。枯草を敷き詰めた洞穴の中で、コートに包まってがたがた震えて眠れずにいると、不意に暖かなぬくもりに包まれた。
 食事の後なのだろう、少しばかり臭いも雰囲気にも生臭さがまとわりついていた。
 それでも、ぬくもり以上の安心感を覚えて、由井は眠りについた。

 朝、目覚めたときにはもうフェンの姿は無い。
 それもまたいつもの事。
 洞穴の壁面に、また一本、線を引く。
 日付代わりの印だ。
 泉で顔を洗い、リンゴに似た果実をひとつもいで齧った。まだしばらくは朝食に困る事は無さそうだ。それでも、食料の当ては多ければ多い程良い。
 そろそろ、あのブルーベリーに似た果実は熟し始めているだろうか。
 数日前に見つけた果実の様子を見に行くことにした。
 道などはなくても、比較的歩き易いルートがあるのを、ここでの暮らしで覚えた。いわゆる獣道というものなのだろう。気配ばかりでなく、齧られた木の芽、足跡やフンなどはしょっちゅう見かける。
 目印になる木や、岩場、倒木も随分覚えて、おぼろげながら頭の中で地図を描けるようになると、随分と行動範囲は広がった。村とは反対方向にばかりにではあるが。
 ここでは、かつてのコンビニまで歩いて五分などという生活とは無縁だ。目的の場所までは、たっぷり三十分ほど掛かる。階段状の岩場から白い斑のある葉に黄色の花の群生地を抜けてたどり着くと、どうやら果実が熟れるのを待っていたのは由井だけではなかったらしく、ほとんど食べられた後だった。
 わずかに残された、宝石にも似た小さな紫の実を口にすると、思っていた以上の甘さが口に広がり、徒労感を癒してくれた。それで、満足だった。
 当ては外れたが、帰りに小さな緑の味が房になっている葡萄に似た実を見つけた。まだ白い花を付けている枝もあって、食べられるようになるには、まだ時間が掛かりそうだが。
 日も高くなって来て、由井はシャツの袖をまくった。
 この気温なら、Tシャツ一枚でも十分だが、日が落ち始めると、途端に肌寒くなるのと、折れた枝や、薄い刃のような草で、不注意な怪我を避ける為にも、なるべく肌は晒さないようにしていた。
 ふと、自分の腕に目を落とす。
 もともと肉付きが良い方ではなかったが、すっかり骨と皮ばかりになっていた。
 フェンのおかげで食べるのには困らないけれど、さすがに肥るというほどではない。
 ──これじゃあ、まだ食べても美味しくないよね。
 そんなことを由井は思って苦笑した。
 泉にまで戻って来たのは、太陽が中天に差し掛かる頃だった。
 いつもより暑かったせいもあって、すっかり喉はからからで、早く水が飲みたいと思うばかりに警戒心がすっかり薄らいでいたのだろう。先客がいる事など、まるで気付きもせず。

2008.07.22


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