星月夜の森へ

─ 2 ─

 カーラスティン王国を支える要のひとつである聖宮は、王都クレインにほど近い湖の傍にあった。
 そこは、古くから創造神ウェルディーンが禊を行なった場所として、加護を最も強く受けている聖域と言われている。
 聖宮の奥深くに秘されている天球石が示すところによれば、【闇月】が【金の小鳥】をこの世に堕としてくれるのは、その夜であった。
 天球石の守護と解読を担う【地の星見】たちはもちろん、空に瞬く星から天候や吉凶を読み取る【天の星見】たちまでが、湖のほとりでその時を待っていた。
 雲ひとつなく晴れ渡った星空のもと、静寂に包まれた湖面に生まれた波紋が、篝火を映して煌めく。
 やがて、波紋の中心に現れた淡い光に、星見たちは一斉に息を飲んだ。
 湖面に浮かぶそれは、蓮の蕾に似て、ゆっくりと花が開くように光はほどけてゆく。
「ようこそ、【金の小鳥】」
 【天の星見】の一人、ティレンが前に進み出て、光の花から生まれ出たばかりの少女に手を差し伸べた。

◇ ◆ ◇

 ぱしゃんと軽い水音に誘われて、少女は目を開けた。
 さっきまで、街中の雑踏にいたはずなのに、湖のほとりに立っていた。
 薄闇の中、湖面は淡く金色に輝いている。
『ようこそ、【金の小鳥】』
 人の声に振り向くと、歳の頃は二十代後半から三十代にさしかかったくらいだろうか。たおやかな女性が立っており、その背後にはさらに十数人の人間が静かに佇んでいた。
「……ここ、何処?」
『ここはカーラスティン王国です』
 耳に心地良いアルトの声で紡がれる言葉がまるで分からず、少女は首を傾げた。そのことは承知済みなのか、女性は少女を安心させるようににこりと微笑い、己の首に掛かっていたペンダントを少女の首に掛けた。
『これで言葉もお分かりになりますでしょう。私はティレンと申します。
 ようこそ、【金の小鳥】』
 改めてそう言うと、恭しくその場に跪いた。

 その後、カーラスティン国随一の権威を誇る神殿で、この国の守り神の巫女として召還されたことを聞かされた。
 【金の小鳥】、という呼び名も、自分の髪を見て納得した。
 少女──蔵前陽菜子(くらまえ ひなこ)──の祖母は北欧出身の人で、それは美しい金髪と碧い瞳をしていたから、父は当然として、姉もいとこたちも、明るい金茶色の髪とオリーブグリーンの瞳をしていたのに、陽菜子だけは母に似た、日本人でも珍しいくらいの黒々とした髪を受け継いでいた。
 それが、この地に来て、輝くばかりの金の髪に、若葉のような緑の瞳に変わっていると知って、密かに姉たちの容姿を羨んでいた陽菜子は、少しばかりくすぐったいような気持ちでもある。
 【古き叡智】と呼ばれる魔法の掛かったペンダント無しでも、言葉に不自由しないように、少しでも快適に暮らせる知識を身につけられるようにと、専属の教師がつけられ、身につける物も口に入れる物も、少女の好みに合うよう厳選された物が与えられた。
 陽菜子は、いきなり日常から引き離されたことに、最初のうちこそ戸惑ってはいたものの、下へも置かぬもてなしぶりと、ティレンのきめ細やかな気遣いで直ぐにカーラスティンでの生活に馴染んでいった。
 そう、陽菜子にとって、ティレンの存在は大きい。
 家に帰りたいと泣く事もしばしばだったころは、周りの人間は遠巻きに見るばかりで、余計に陽菜子を寂しくさせた。
 星見としての責務もあるだろうに、泣き止むまで黙って側にいるティレンに陽菜子が懐くのにさしたる時間は掛からなかった。過ぎるほど可愛がってくれているのは分かっていても、基本的に性格が合わない姉と違って、胸の内に抱いていた理想の姉像に重なったからかも知れない。。
 笑顔さえ戻れば、可愛らしい顔立ちを淡い金色の髪と若草色の瞳が引き立て、誰も彼もがこぞって彼女を大切にするようになった。
 廊下を歩いていれば、笑顔で声を掛けられ、頼み事をすれば、何をおいても応えてもらえる。いや、頼む必要すら無いほど常に満たされているのだ。
 求めなくても、人々の好意はそこに在り、寂しいと言う事を忘れていられた。
 一日に三度の祈りを捧げる以外、ことさら義務も負わされず、穏やかな日々の中で気にかかるのは、かの人のことだった。
 転んだ自分に手を差し伸べ、怪我の手当までしてくれた、あの人。
 光に飲み込まれてしまう前に、必至に縋ろうとした手を取ろうとしてくれたのに。
「どうかされましたか?」
 心配そうに問いかけられて、陽菜子はティレンと午後のお茶を楽しんでいる最中だったと意識を引き戻された。
「あの、あたしの他に、ここに来た人は、いないの?」
 怪訝そうな瞳に問いを重ねられて、ぽつりと疑問を口にする。
 教師が優秀だったのか本人の才能と努力なのか、二ヶ月余りで日常生活に不自由しない程度の言葉を習得していたが、陽菜子はペンダントを手放さない。トラベル英会話的なものが出来たところで、他愛ないおしゃべりを気軽に楽しめる訳でないことを身をもって知ったこともあるが、言葉が分からない環境は、やはり否応無く陽菜子を不安にさせるからだ。それを知ってか知らずか、ティレンはペンダントを陽菜子に預けたまま、何も言わない。
「そういった報告は受けておりませんし、その可能性も極めて低いと思われます」
 ティレンは、初めて陽菜子を迎えたときと変わらぬ、優しい笑みを向けて答えた。
 その瞳の奥底が、かすかに揺れたことなど陽菜子は気付かないし、彼女も気付かさせない。
「何か心当たりでもおありですか?」
「あのね、ここに連れて来られたとき、すごく眩しい光に包まれたの」
 その時の様子は、神官長や国王に請われて何度もしていたから、ティレンも何度も耳にしているし、聖宮に残されている金の小鳥に関する記録とも一致していた。
「ほんのちょっと、指先が触れたと思うの」
「え……?」
 それは、初めて聞く話だった。
「だって、すごく怖かったのよ。怖くて、助けてって腕を伸ばして……もしかして、一緒にこっちに来てないのかなって」
 だとしたら、いくら分かってなかったとはいえ、関係ない人を巻き込んでしまったのではないかという考えは、どんどん胸の奥に重く沈んで行き、口にすることが出来ないでいたのだが。
「だとしても、聖地にしか召還された者を降ろすことは出来ませんから、知らせがないということは、やはりヒナコ様の杞憂だと思いますよ」
「ほんとに?」
「ええ。ご心配なら、再度確認させましょう。念のため、どんな方だったかお聞きしてもよろしいですか?」  こくこくと頷いて、思い出しながら口にしてみる。
「えーとね、歳はあたしよりも上で、ソナくらいかな」
 仲の良い侍女の一人の名を挙げると、ティレンは微笑って頷いた。
「それから、背丈はグラムドくらい」
 歴史の教師が時々伴っている助手は、男性にしてはやや低めの身長で、ティレンと陽菜子のちょうど中間くらいだ。
「それから……」
 言葉を継ごうとして、陽菜子は愕然とした。
 もう一度会えたら、ちゃんと分かる自信はあるというのに、どんな人だったか説明出来ない。
「えーと、とっても、親切だったの」
「ああ、その人なんですね」
 道路で転んだ時、助けて怪我の手当までしたという人の話は、陽菜子に、こちらの世界に渡って来た時の状況を尋ねた時に既に聞いていた。ただ、さほど重要だと思っていなかったから、念頭になかったのだ。
「髪の色は?」
「黒。あのね、あたしの暮らしていた国は、基本的には黒髪なの。茶色とか金色とかって、染めてるか、外国の人くらいで」
「ヒナコ様も黒髪だったとおっしゃってましたね」
「うん」
 それならば、髪と瞳の色は、情報としてはあまり当てになりそうにないとティレンは思ったが、口にはせず、肝心の質問をした。
「女性でしたか、男性でしたか?」
「たぶん、女性」
「たぶん?」
 ティレンは、努めて穏やかに聞き返した。
 陽菜子の方はいうと、改めて尋ねられると、どちらだったか確信が無くなっていた。
 顔立ちは中性的で、髪は長めだったような気はするけれど、マフラーでぐるぐる巻きになっていて、よく分からなかったし、声は少しハスキーだった。着ていたコートはユニセックスなデザインで、体型も分かりにくかった。
「……分かんない。」
「それは、どちらにも見えるということでしょうか」
 こくんと陽菜子は頷く。
 ティレンも、男性並みの身長がある事で、少女時代は男性と間違えられた事はしばしばあり、それなりに傷付いた記憶がある。そんな些細な事で、胸を痛めた時期もあったなと思いを過去に飛ばし、黙ってしまったことを、怒らせたと誤解して、
「ごめんなさい。ちゃんと覚えてなくて」
 申し訳無さそうにうなだれる陽菜子に、
「大丈夫ですよ。念のためにお聞きしているだけですし、こちらに渡って来ているなんてありえないことですから、ご心配なさらず」
 さらりと答えてみせたものの。
 金の小鳥を召還する為には、闇月と呼ばれる者が必要だ。と言っても、その存在が媒介となって、その者がいる空間にカーラスティン国の聖宮に伝わる術によって接点を作り出し、金の小鳥の捕獲を可能にする、というだけだ。闇月は自分が闇月である自覚は無いし、世界を渡る力も無い、と伝えられている。
 それは本当だろうか?
 聖宮に残る記録はに膨大で、重要なことを読み落としているのかもしれない。
 異界を渡った者が堕ちる先は聖域に限定され、陽菜子が降り立った場所もその一つだ。
 聖域とされる場所のほとんどは、聖宮の管理下に置かれており、穢されることのないよう監視し、守り、祈りを捧げる神官が派遣されていて、特に変わった報告も無いとはいえ。
 ……一度、徹底的に調査すべきかもしれない。
 おだやかに陽菜子と歓談しながら、ティレンは調査計画を練り始めていた。

2008.07.22


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