星月夜の森へ
─ 1 ─
風の強い日の、午後のこと。
その月の和名に相応しく、早朝に霜柱が立つほどの冷え込みは、昼を過ぎても緩むことなく、冷たい北風が道行く人々の首を竦ませていた。
由井は雑踏の中、足を止めて空を見上げた。
如月という名のせいでもあるまいが、由井は冬が好きだ。凍えるような蒼の空も身を切るような冷たい風でさえも。
蒼穹を覆う鈍い銀色の雲は絶え間なく姿を変え、僅かに綻んだ隙間から光の筋が地上に降りていた。
──天使の梯子、だっけ。
兄の孝史が誕生日にくれた写真集にあった風景と言葉を思い出す。
その兄と、その日は久しぶりに出掛ける約束だったのだが、その間際、携帯電話に入った連絡にによって反故にされた。
──多分、あのひと、だ。
ゼミの教授からの頼まれごとで、と濁していたが、ほんの少し上擦った声から嘘と知れた。
大学に入学してからの兄は、いつも忙しそうで、それでもずっと由井との約束を優先してくれていた。
兄とは言っても、続柄は又従兄弟にあたる。事情があって秋津家で暮らすことになった由井を、周囲も呆れるほどに可愛がってくれている。母親の久美も由井を嫁に来させるつもりになっていて養子縁組を先延ばしにしているくらいだ。
それがどこまで本気の話かはともかくとして、孝史はそれなりにもてる。高校生の頃から彼女が絶えたことはほとんどない。が、長続きしたこともない。それは、孝史が彼女よりも由井を優先していたことが原因ともいえた。
けれども、大学三年になってから出来た彼女は、どうやらこれまでと少し違うらしく、最近はこうして後回しにされることも少なくない。同時に、過剰なほどのスキンシップも成りを潜め、少しよそよそしくなったように由井には感じられた。
寂しくないといえば、嘘だ。
でも、大切にされ過ぎている罪悪感が、ほんの少し和らぐ。
それでいて、これまで感じたことのない、黒々とした思いが胸の奥に蟠ってゆく。
ひとつの変化も、大きく影響していた。
半年前、久美の母親である奈美江が、軽い脳梗塞で倒れたのを機に同居することになったのだ。
『いつまで図々しく世話になっているつもりなの』
それまでも、彼女は顔を会わせる度に由井にきつく当たっていた。その度に久美は母親を窘め、由井を優しく慰めてくれたが、同じ屋根の下で暮らすようになってからは、さすがに久美の目も行き届かない。
『まったく、母親にそっくりだよ、あんたは』
蔑みを込めて言われなくても、子供を勝手においていなくなった母に準えられて、褒められているわけもないことは痛いほど感じた。由井の母は、随分と綺麗な見目をしており、異性に対する魅力に溢れていたという。本来なら褒め言葉にもなるそれが、奈美恵によって由井を貶めるだけの言葉となった。もっとも、親子にしては二人は余り似ておらず、ただ妄言に過ぎなかったのだが。
このごろ、孝史からのスキンシップがほとんど無くなったのは、そんな風に由井を傷つける奈美恵を、下手に刺激しない為だった。
『その歳で男を誑かすことを覚えるなんて』
などと由井が言われるのが、本人以上に辛かったのである。
もちろん、由井以外の者がいるところであからさまな態度をとるほど奈美江も愚かではないが、気付かぬほど家族も鈍くはない。結局、奈美恵の隠しようもない由井への嫌悪は、秋津家にぎくしゃくした空気をもたらしていた。
出来ることなら、由井は今すぐにでも秋津家から出ていきたかった。優しい人たちに仲良く暮らして欲しかった。その中には、奈美恵も含まれている。けれど、高校を中退したり家出などすれば、惜しみなく愛情を注いでくれる秋津家の人たちを悲しませることは分かっていたから、高校卒業後、公務員になることを希望していた。それならば、家を出ていくことを許してくれるのではないかと。
夕暮れまでにはまだ間があるものの、既に空気の色は暖かな色を帯び始めている。あと一時間もすれば、雲の端は黄金に輝き、世界をその色に染め上げるのだろう。
そんなことなど構うこと無く、人の流れの中で小石のように佇む由井にちらと視線を向ける者もいたが、大概はほとんど認識することすらなく、人々は行き交っていた。
私鉄やJR、地下鉄のターミナル駅であるそこは、デパートだけでなく家電量販店などもひしめき合っていて、平日の昼間であろうと賑わいが途切れることが無い。立ち並ぶビルが窮屈そうにその地を埋め尽くしていても、駅の西口を出た先は、五叉路のスクランブル交差点になっていて、開けた空間が広がっているのだが、だからといって、そこで暢気に空を眺める物好きなど、滅多にいるものでもないだろう。
地上に降りていた光を内包した鉛色の雲のが金色に輝き始めて、由井は流れの中に戻った。
交差点の信号が点滅し始めても、律儀に足を速める者などいないが、さすがに赤に変われば自動車のクラクションも鳴らされる。ようやく小走りになった歩行者たちの中に由井もいた。
小さな悲鳴に振り返ると、よほど慌てたのか、まだ横断歩道の半ばで少女が転んで踞っていた。
雲の隙間から地上に落ちる光と影が目紛しく踊り、その少女をほんの一瞬、照らした。その偶然が、いつもなら、その他大勢と同じく、そのまま知らぬ顔で去ってしまう由井に、気まぐれを起こさせたのかも知れない。
「大丈夫?」
差し出した手を握った少女は、中学生くらいだろうか。幼さを残した愛らしい顔は恥ずかしげに赤らんでいる。
抗議するようにクラクションを鳴らす自動車を一瞥し、由井は少女の手を引いて横断歩道を渡りきった。
コートの裾に付いた土埃を由井は丁寧に払ってやると、厚手の生地が守ったのか、幸いにも膝に傷はついていないようだったが、道路に手をついた時に傷つけてしまったのだろう、指先に血がにじんでいた。以前、献血した時にもらったウエットティッシュがあることを思い出して、カバンからそれを引っ張り出して、丁寧に傷を拭ってやり、絆創膏を巻いてから、らしくない親切だなと由井は内心自嘲する。
「あの、ありがとう、ございます」
少女は声は、か細い。
着ているものや、そのあどけない表情だけでも、育ちの良さが見て取れる。指先もまるで荒れた様子が無く、手入れが行き届いている感じだった。
「どういたしまして。気を付けてね」
口角を僅かに上げて、由井がそういうと、少女は勢いよく頭を下げた。
「じゃあ」
由井は少女に背を向けた。
「あ、ありがとうございましたっ」
さっきよりは遥かにはっきりとした声に、肩越しに振り返ると、はにかんだ笑顔を添えて躊躇いがちに手を振っている。
たまのおせっかいも悪くないなと思いながら、由井も軽く手を振り返して、そのまま雑踏の中に紛れ込んでしまえば、すぐに忘れてしまうような、些細で刹那の行き会いで終わるはずだった。
けれど、由井の足はその場に縫い止められたように動けなくなった。
すっかり雲に覆われていた空から、前触れも無く細い一本の光が降ってきたかと思うと、瞬く間に無数の光が少女を囲い込んだのだ。
周囲の人間は、まるで気付かないのか、関心が無いのか、その光景に足を止めることも無い。
いくら、雲の様子が激しく変化しているからといって、こんな風に地上に光が降りてくる光景など、有り得ない。
見る間に、無数の細い光は収斂して、少女を閉じ込めるように一本の柱と化した。
その中で少女が、すがるような目で由井を見ていた。
光の柱は、ひときわ激しく輝くと、虹が消える時のように、光が淡くなり始めた。
この異様な現象が単に終わりを告げようとしているわけではなく、少女の身体も光と共に消えようとしていた。まるで実体のない映像のように、身体の向こうに日常の風景が透けている。
少女も何か感じているのだろう、今にも泣きそうな顔で、由井に向かって腕を伸ばした。何か言っているようだが、それはまるで届かない。
こんな異様な光景に、何故誰も反応しない?
確かに少女を避けて通って行くのに、何が起きているのかまるで気付いていないかの様子に、そこで起きている異様な現象に対してよりも、恐怖を感じて由井は身を震わせた。
光が消える。
少女も、消えてしまう。
咄嗟に由井は手を伸ばしていた。
消える直前の光に手が届いたことは、覚えていた。
微かに、指先くらいは、触れただろうか。
その月の和名に相応しく、早朝に霜柱が立つほどの冷え込みは、昼を過ぎても緩むことなく、冷たい北風が道行く人々の首を竦ませていた。
由井は雑踏の中、足を止めて空を見上げた。
如月という名のせいでもあるまいが、由井は冬が好きだ。凍えるような蒼の空も身を切るような冷たい風でさえも。
蒼穹を覆う鈍い銀色の雲は絶え間なく姿を変え、僅かに綻んだ隙間から光の筋が地上に降りていた。
──天使の梯子、だっけ。
兄の孝史が誕生日にくれた写真集にあった風景と言葉を思い出す。
その兄と、その日は久しぶりに出掛ける約束だったのだが、その間際、携帯電話に入った連絡にによって反故にされた。
──多分、あのひと、だ。
ゼミの教授からの頼まれごとで、と濁していたが、ほんの少し上擦った声から嘘と知れた。
大学に入学してからの兄は、いつも忙しそうで、それでもずっと由井との約束を優先してくれていた。
兄とは言っても、続柄は又従兄弟にあたる。事情があって秋津家で暮らすことになった由井を、周囲も呆れるほどに可愛がってくれている。母親の久美も由井を嫁に来させるつもりになっていて養子縁組を先延ばしにしているくらいだ。
それがどこまで本気の話かはともかくとして、孝史はそれなりにもてる。高校生の頃から彼女が絶えたことはほとんどない。が、長続きしたこともない。それは、孝史が彼女よりも由井を優先していたことが原因ともいえた。
けれども、大学三年になってから出来た彼女は、どうやらこれまでと少し違うらしく、最近はこうして後回しにされることも少なくない。同時に、過剰なほどのスキンシップも成りを潜め、少しよそよそしくなったように由井には感じられた。
寂しくないといえば、嘘だ。
でも、大切にされ過ぎている罪悪感が、ほんの少し和らぐ。
それでいて、これまで感じたことのない、黒々とした思いが胸の奥に蟠ってゆく。
ひとつの変化も、大きく影響していた。
半年前、久美の母親である奈美江が、軽い脳梗塞で倒れたのを機に同居することになったのだ。
『いつまで図々しく世話になっているつもりなの』
それまでも、彼女は顔を会わせる度に由井にきつく当たっていた。その度に久美は母親を窘め、由井を優しく慰めてくれたが、同じ屋根の下で暮らすようになってからは、さすがに久美の目も行き届かない。
『まったく、母親にそっくりだよ、あんたは』
蔑みを込めて言われなくても、子供を勝手においていなくなった母に準えられて、褒められているわけもないことは痛いほど感じた。由井の母は、随分と綺麗な見目をしており、異性に対する魅力に溢れていたという。本来なら褒め言葉にもなるそれが、奈美恵によって由井を貶めるだけの言葉となった。もっとも、親子にしては二人は余り似ておらず、ただ妄言に過ぎなかったのだが。
このごろ、孝史からのスキンシップがほとんど無くなったのは、そんな風に由井を傷つける奈美恵を、下手に刺激しない為だった。
『その歳で男を誑かすことを覚えるなんて』
などと由井が言われるのが、本人以上に辛かったのである。
もちろん、由井以外の者がいるところであからさまな態度をとるほど奈美江も愚かではないが、気付かぬほど家族も鈍くはない。結局、奈美恵の隠しようもない由井への嫌悪は、秋津家にぎくしゃくした空気をもたらしていた。
出来ることなら、由井は今すぐにでも秋津家から出ていきたかった。優しい人たちに仲良く暮らして欲しかった。その中には、奈美恵も含まれている。けれど、高校を中退したり家出などすれば、惜しみなく愛情を注いでくれる秋津家の人たちを悲しませることは分かっていたから、高校卒業後、公務員になることを希望していた。それならば、家を出ていくことを許してくれるのではないかと。
夕暮れまでにはまだ間があるものの、既に空気の色は暖かな色を帯び始めている。あと一時間もすれば、雲の端は黄金に輝き、世界をその色に染め上げるのだろう。
そんなことなど構うこと無く、人の流れの中で小石のように佇む由井にちらと視線を向ける者もいたが、大概はほとんど認識することすらなく、人々は行き交っていた。
私鉄やJR、地下鉄のターミナル駅であるそこは、デパートだけでなく家電量販店などもひしめき合っていて、平日の昼間であろうと賑わいが途切れることが無い。立ち並ぶビルが窮屈そうにその地を埋め尽くしていても、駅の西口を出た先は、五叉路のスクランブル交差点になっていて、開けた空間が広がっているのだが、だからといって、そこで暢気に空を眺める物好きなど、滅多にいるものでもないだろう。
地上に降りていた光を内包した鉛色の雲のが金色に輝き始めて、由井は流れの中に戻った。
交差点の信号が点滅し始めても、律儀に足を速める者などいないが、さすがに赤に変われば自動車のクラクションも鳴らされる。ようやく小走りになった歩行者たちの中に由井もいた。
小さな悲鳴に振り返ると、よほど慌てたのか、まだ横断歩道の半ばで少女が転んで踞っていた。
雲の隙間から地上に落ちる光と影が目紛しく踊り、その少女をほんの一瞬、照らした。その偶然が、いつもなら、その他大勢と同じく、そのまま知らぬ顔で去ってしまう由井に、気まぐれを起こさせたのかも知れない。
「大丈夫?」
差し出した手を握った少女は、中学生くらいだろうか。幼さを残した愛らしい顔は恥ずかしげに赤らんでいる。
抗議するようにクラクションを鳴らす自動車を一瞥し、由井は少女の手を引いて横断歩道を渡りきった。
コートの裾に付いた土埃を由井は丁寧に払ってやると、厚手の生地が守ったのか、幸いにも膝に傷はついていないようだったが、道路に手をついた時に傷つけてしまったのだろう、指先に血がにじんでいた。以前、献血した時にもらったウエットティッシュがあることを思い出して、カバンからそれを引っ張り出して、丁寧に傷を拭ってやり、絆創膏を巻いてから、らしくない親切だなと由井は内心自嘲する。
「あの、ありがとう、ございます」
少女は声は、か細い。
着ているものや、そのあどけない表情だけでも、育ちの良さが見て取れる。指先もまるで荒れた様子が無く、手入れが行き届いている感じだった。
「どういたしまして。気を付けてね」
口角を僅かに上げて、由井がそういうと、少女は勢いよく頭を下げた。
「じゃあ」
由井は少女に背を向けた。
「あ、ありがとうございましたっ」
さっきよりは遥かにはっきりとした声に、肩越しに振り返ると、はにかんだ笑顔を添えて躊躇いがちに手を振っている。
たまのおせっかいも悪くないなと思いながら、由井も軽く手を振り返して、そのまま雑踏の中に紛れ込んでしまえば、すぐに忘れてしまうような、些細で刹那の行き会いで終わるはずだった。
けれど、由井の足はその場に縫い止められたように動けなくなった。
すっかり雲に覆われていた空から、前触れも無く細い一本の光が降ってきたかと思うと、瞬く間に無数の光が少女を囲い込んだのだ。
周囲の人間は、まるで気付かないのか、関心が無いのか、その光景に足を止めることも無い。
いくら、雲の様子が激しく変化しているからといって、こんな風に地上に光が降りてくる光景など、有り得ない。
見る間に、無数の細い光は収斂して、少女を閉じ込めるように一本の柱と化した。
その中で少女が、すがるような目で由井を見ていた。
光の柱は、ひときわ激しく輝くと、虹が消える時のように、光が淡くなり始めた。
この異様な現象が単に終わりを告げようとしているわけではなく、少女の身体も光と共に消えようとしていた。まるで実体のない映像のように、身体の向こうに日常の風景が透けている。
少女も何か感じているのだろう、今にも泣きそうな顔で、由井に向かって腕を伸ばした。何か言っているようだが、それはまるで届かない。
こんな異様な光景に、何故誰も反応しない?
確かに少女を避けて通って行くのに、何が起きているのかまるで気付いていないかの様子に、そこで起きている異様な現象に対してよりも、恐怖を感じて由井は身を震わせた。
光が消える。
少女も、消えてしまう。
咄嗟に由井は手を伸ばしていた。
消える直前の光に手が届いたことは、覚えていた。
微かに、指先くらいは、触れただろうか。
2008.05.31
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