星月夜の森へ

─ 59 ─

 ヴィスタリアたちと別れた後、フェンと由井は旅の途中にいた。
 妹がしでかした事の詫び代わりだと、アリューシャから相当の路銀は渡されていたし、過ごしやすい季節へと移っていることもあって、未だ体調が戻りきらぬ由井に無理をさせない、ゆるりとした行程だ。
 目立たぬように、フード付きのマントを着せて、大きな街道は避けた。
 それは、人の影にすら怯えた様子を見せる由井に、落ち着きを取り戻させ、やすららがせるためでもあった。
 旅の途中で、時折見かける美しい翅の蝶や、小鳥のさえずり、初夏の美しい花、そんなものに足を止め、表情を綻ばせるのを見れば、肩の怪我が順調に治癒している事以上にフェンをほっとさせた。
 それでも、ふとした瞬間に髪が風に揺れて、顔に残ってしまった傷痕を目にすると、首筋の産毛が総毛立つ。そんな時は、この先、そのことで揺らぐわけにはいかないのだと自分に言い聞かせ、手のひらに冷たい汗を握りしめて、胸の奥に凝る恐怖と向き合い、ゆっくりと鎮めた。
「まずは、王都へ行こう」
 由井に珍しく露骨に嫌悪の表情が浮かんだのを見て、
「住む為じゃない。幼馴染みに力を貸してもらうためだ」
 と説明すると、不思議そうに由井は小首を傾げた。
 幸い、自分にはただの石ころであっても、街では高値で取引されている玉石が出る土地を幾つか知っているし、彼を頼れば売る伝手もあるだろう。それで、ある程度人里からは慣れたところに僅かな土地と小さな家を手に入れて、細々と暮らしていければいい。
 安心させようと、その事を話したというのに、由井は深く俯いてフードの中にその顔を隠してしまった。酷く強張った背をなだめるようになで、その表情を確かめる為でなく、軽く鼻先を触れ合わせる為にフードの中を覗き込んだ。
「……森へ帰ろうか」
 差し伸べた手を、躊躇いながらも由井がとるならば、それで充分だった。
 例えその手が震えていても。
 フェンにとっては慣れ親しんだ縄張りの森は、その主たる彼が長く不在であったにも関わらず、彼を主として迎え入れた。けれど、彼が最初にした事は、森の外れにある荒れた小屋に手を入れる事だった。
 由井の為ばかりでなく、二度と獣の姿に戻る気はない彼にとっても、それは必要なことだった。
 草のしとねではなくベッドで眠り、森の恵みをそのまま口にするだけでなく、火を入れて調理したりと、人の生活として当たり前のことに、少しずつ馴染んでいった。
 何故?
 幾度となく、由井はこの生活の変化に対して無言で疑問を投げかけたが、フェンは何も答えなかった。
 二度と己の爪と牙が、由井を傷付ける事のないように。
 共に生きてゆく為に。
 答えは言葉となってそこにあったけれど、それを口にして、由井の背に負わせるつもりは無く、これで良いのだと不器用に笑ってみせた。
 そんな平穏な日々は、密やかにひび割れてゆく。
 晩夏にもなれば、枯色が少しずつ見えるようになる。それは実りと引き換えたものであって、無為ではない。獣同士が争い、喰い、喰われる事も当たり前のことだ。
 けれど、枯れ葉を見る毎に、獣の死骸を見る度に由井は顔色を変える。そんな日の晩は、決まって酷く魘される由井を胸の内に抱き込んであやしながら、その耳元に安心してここにいれば良いのだと囁き続ける事しかフェンには出来なかった。由井に刷り込まれた不安が、想像以上に根深いところにまで絡み付き、侵食しているのを止める術を持たなかったのだ。
 王都にいる幼馴染みには言伝鳥に伝言を託し、その返信も受け取っている。秋になる前に、一度出向くつもりではあったが、由井を伴うことをフェンは迷っていた。
 昨年持ち直した作物の収穫が明らかに減少したせいか、どことなく村の雰囲気は沈んでいたし、質の悪い風邪が流行していて、葬列を見かける事も多くなっており、そんな風景を見せたくはなかった。

 いつものようにフェンを送り出すと、由井は森の中へ出掛けた。
 特に目的などない。
 ただ、こじんまりとした家の中にひとりでいるのが居たたまれないだけだ。
 森の王たるフェンの匂いを纏わせた由井を襲うような獣はいない。宛てもなく彷徨い、行き着く先は大抵、彼と初めて出会った泉だ。
 着ているものを全て脱ぎ落として身を浸し、汗ばみ火照った身体を冷やしてから帰路に付くのがいつの間にか習慣になっていた。
 どうして彼が常に人の姿をとり、人としての生活をするようになったのか。
 無論それは由井が少しでも安全で快適に暮らせるようにする為だとは分かっていても、かつてのように、獣姿の彼に寄り添いその日の糧を得ることだけ考える日々が懐かしかった。
 人里に降りれば否応無く自分がこの世界が在るが故に起きている事象を目にする。
 お前のせいではないのだと繰り返し言い聞かされてはいるが、果たしてそこに虚言の匂いを感じないではいられるほど感覚は麻痺してはいなかった。
 何もかもが空事なのだ。
 その象徴のような己の身体を見下ろす。
 受け入れることは出来ても、決して新しい命を宿すことはない。
 この世界に堕ちてから月のものがこないのは、慣れぬ環境へのストレスと食事のせいかもしれないと思っていたが、やはりどちらの性に属すとも言い難い身体の変化は、見かけだけではなかったらしい。
 此処に在るべき者ではないから、
 存在そのものが厄災となるから、
 ──最初から、この世界から存在を拒否されている。
 フェンの隣は居心地が良い。
 まるで秋津の、孝史の側にいるかのように。
 このままずっと側にいられたらと思うほどに。
 けれど、安穏とした幸福を享受して生きていくことは出来ないのだ。
 泉から上がり、異形を自分の目から隠すように衣服を身に付けると、由井は乾いた草の上に身を横たえた。
 ならば。
 もう、解放しよう。
 ──彼を、自分という鎖から。
 その決意は、とても心を軽くした。

 その日は、食料の調達から帰って来ると由井の姿が無かった。
 ふらりと森を彷徨うのはよくあることで、フェンの手の届かぬところへ行きたがっている事も薄々気付いてもいた。それが、生へと向かうものであったなら、その手を離す事も考えたかも知れない。
 特に焦るでもなく、ゆったりとした足取りで気配を辿って行った先は、初めて由井と会った泉だった。その時と同じように、やわらかな草の上に横たわっていた。
「さら?」
 呼び掛けると、久しぶりに、穏やかな微笑が返されて、少し、安心した。
 以前と同じように、傍らに寄り添う。
 あの頃なら、やわらかな毛皮ですっぽりと包み込む事が出来たのにと、少し残念に思う。人の姿は便利で器用ではあるが、硬くてどこかよそよそしい気がする。
 そんな事を思っていると、
「あのね、お願いがあるの」
 由井が、真っ直ぐにフェンを見ていた。
「初めて会った時みたいに……あの銀色の姿、見たい」
 躊躇いは無くはなかったが、甘えたように乞われては否とも言えなかった。
 久しぶりに白銀の毛皮を纏った森の王者たる姿を目にして、由井の顔が心から綻んだことに安堵する。あの怪我の記憶が甦って、怯えられたらどうしようかと不安だったのだ。
 フェンはのたりと傍らに寝そべった。
 まだ温もりを求めるには早過ぎる季節だが、由井もまたあの頃のようにフェンの胸のあたりにもたれ掛かり、身を委ねた。
 のんびりとした午後だった。
「元々、いらない子だったんだよ、私」
 やわらかな毛皮に顔を伏せたまま、由井は呟く。
「でも、秋津の家族がとっても大事にしてくれた。けど、私のせいでもめ事が起きちゃった。だから、もう、帰れないよ。秋津の家族に迷惑かけたくないもの」
 ほんの少し声が掠れているのは、涙を堪えているからだろう。
「フェンにも、たくさん迷惑かけてる」
 さすがにその言葉は否定すべく、フェンは身を捩る。
「それに、私、ここにいちゃいけないんでしょう?」
 ゆっくりと由井は身を起こすと、
「だからお願い」
 ふわりと花のように微笑った。
「私を喰い尽くして」

 その細い喉頸を無防備にさらけ出した由井に向かって、思わず牙を剥いていたのは怒りに任せてのことだった。
 何を莫迦なことをと、人の姿であったなら、その横っ面を叩いた可能性は大いにあるにせよ、言葉で叱責する事が出来たのだが。
 脅し付けるように、低く太い咆哮を上げ、禍々しい牙を首筋に宛てがうと、さすがに、生命を絶たれる恐怖に耐えかねたらしい。意識を失った由井の身体は哀しいほどに軽かった。

「クリシュナ・アルヴ・カーマイン・ヴィスタリア、この子を、帰してやってくれ」
 そう虚空に向かって呼び掛けた場所は、泉からさほど離れてもいない、開けた草地だった。そこは由井が堕ちて来た場であり、忘れ去られた聖地でもある。何かに導かれるように、フェンは意識の無い由井を抱えてこの地に足を踏み入れたのだった。
 言葉を違えること無く、クリシュナは黄昏の中、何処からとも無く現れた。
「手放す覚悟は決まったかい?」
 フェンはクリシュナを剣呑な目を向けた。それを意に介することも無く、クリシュナはくたりとフェンに身を預けたままの由井の顔を覗き込んだ。何処まで信用して良いのか不安になるほどの軽々しさだが、その目に痛ましいような光を見て、フェンは自分の選択が正しいことを悟った。
「この子には、帰る場所が無いわけじゃない。君の我が儘に付き合って、ここに居続ける理由はないからね」
 直裁な言いように怒りを覚えたが、確かにそれはひとつの真実だった。
 いくら帰りたくないと口にしていようと、由井には大事な、迷惑を掛けたくないという理由だけで自分の身を顧みないほどに大事な家族が、いるのだ。その事に目をつぶっていたのは、単に彼が由井を手放したくないという自分勝手な我欲故だ。
「でも、本当に良いの? 代償は、君の生命だ」
 迷い無く頷く。
 それは特に予想の範疇を越えるものではなかった。
「では、君の望み通りに」
 その言葉の余韻も消えぬ間に、クリシュナの手に胸を貫かれ、心臓を鷲掴みにされていた。
 痛みよりも、目に映るものの不気味さが先に立った。  最期に見たのは、花びらのような淡い虹色の光に包まれた由井の姿だった。

◇ ◆ ◇

 長い夢から醒めたような、不思議な目覚めだった。
 目の前には、手を伸ばせば届きそうな満天の星が広がっていた。
 きらびやかな、冬の星座たち。
 オリオン座、牡牛座、大犬座……。
 やがて、東の空から明るんで、星々の姿が曙光の中に融けて消えてゆく。
「この回の投影プログラムを終了いたします──」
 アナウンスとともに周囲がざわめき始め、次々と足音が通り過ぎて行った。
 亜鈴型の黒い躯体とそれを支える数本のアーム。
 宇宙船を連想させるその特異な機体は、プラネタリウム投影機だ。
 結局、ひとりでプラネタリウムに来たものの、途中で眠ってしまって、何か夢でも見ていたらしい。プログラムの内容は欠片も覚えていなかった。
 視界が歪んで、自分が泣いている事に気付いた。
 すん、と鼻をすすって、コートのポケットから引っ張り出したハンドタオルで涙を拭いながら、どうして泣いているのだろうと自問する。
 何が哀しいのだろう?
 約束が反故にされたことが?
 自分よりも優先する彼女が出来たことが?
 よく分からないまま、次から次へと涙が溢れて来る。
 そろそろ席を立たなくてはと思うのに、息をまともに整えることすら出来ない。
「さら?」
 懐かしい声──ほんの数時間前に、携帯電話越しとはいえ聞いたはずの声に、何故かそう思った。
「ごめん、さら」
 走って来たのだろう、掠れて乱れた声が耳に届くのと同時に、涙に濡れたままの頬がダウンコートに押し付けられた。
 幼い頃のように髪を背を撫でる優しい手が、よく分からない哀しさを拭ってゆくのが分かる。
「ごめん、約束破って」
 暖かで力強い拘束に戸惑いながら、由井は、自分の腕を恐る恐る伸ばして、その胸に縋った。
 再び周囲にざわめきと足音が満ち始め、次回投影の客が入って来ていることに気付いた。恥ずかしさも相俟って、腕を突っ張らせて孝史から身体を引きはがす。
「孝にい、もう出ないと」
 しゃくり上げながらそう言い、立ち上がる。出入り口に立っている係員に、ばつの悪そうな、それでいて非難がましい視線を向けられるのが、酷く居たたまれない。手を引く孝史の背に隠れるようにして、由井は投影室を出た。
 外はもう、すっかり暗くなっていた。
 気の早いクリスマスイルミネーションの灯が溢れる駅前のコンコースからでも、ふと見上げれば、爛々と輝く星がある。
 どこもかしこも、華やかに飾り付けられて、行き交う誰も彼もが笑いさざめいているようだ。  そんな中で、不意に孝史は立ち止まった。何事だろうと見上げる由井の前髪をそっとかきあげて、額をさらした。
「こんなところに──」
 頬に手を添えて、眦を親指でそっと撫でる。
 まるで獣の爪にでも裂かれた痕のような、赤い筋が二本、ショーウィンドウの鈍い灯りに浮かび上がっているように、一瞬見えたのだ。
 それは、何故か酷く孝史の胸をざわめかせた。
「孝兄?」
 不思議そうな目を向ける由井の顔を改めて見れば、傷痕など何処にもない。
「何でもない。さ、帰ろうか」
 頷く由井の手を、返事の代わりに強く握り返して、再び歩み始めた。

◇ ◆ ◇

 三人がいたはずの草地には、クリシュナがただ独りが立っていた。
 親指の先ほどの白銀の光を放つ球体を指先で弄ぶ姿に、
「本当に人の悪い……」
 溜め息とともに姿を現したのはアリューシャだ。
 夕闇の中、仄かな光が二人の姿を、この世に在らざるものが如く微かに映し出す。
「代償なんて言わなくても、きちんと話してやればよかったのに」
「それじゃあ、癪に障るじゃないか」
 軽く肩を竦めると、それ以上の不毛な会話をするつもりは無いらしく、アリューシャは手のひらを地に向けて腕を伸ばした。
 あえかな燐光がひとつ、ふたつと立ち上り始めると、それは次第に数を増し、草地であった場所は星の海と化した。今、頭上に広がる星空を映し込んだ泉のようでいて、星の配列はまるで異なっている。その中に、クリシュナは手にしていた球体を落とした。
 表面に波紋を描いて、それは静かに沈んでゆき、数多の星に紛れて分からなくなった。
 不安げに見つめるアリューシャに、 「面白いものを見せようか」
 と、クリシュナは星の海の中に無造作に手を突っ込み、光の束を引き出した。それを捌いて丹念に解す。
「ああ、やはり……」
 満足そうに、クリシュナは微笑った。
「織り直す必要はないよ」
「この糸は……」
 一際強い光を放つ白銀の糸を手にとって、思わずアリューシャは息を飲む。
 少し手繰れば、艶やかな黒い糸と美しい模様を織りなしていた。
「あの子がこちらにいられないなら、と取った手段だけれど、操られたのは僕の方かも知れない」
 ──お前、名前は?──
 そう言って、幼い少女の傍らにかがみ込む少年の姿が、ぼんやりと浮かぶ。
 その手を引き、懐に仔猫でも入れるようにして、大切に大切にする様子は……
「星の巡りは、時をも遡る?」
「さあ」
 二人の声も姿も、闇に風に紛れて消えた。
 まるで幻であったかのように、残されたのは僅かな燐光の残照だけだった。

2008.01.08
……fin


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