星月夜の森へ

─ 58 ─

 天から流れ落ちた光の奔流と、上流から襲い掛かった竜の如き濁流が、全てを終わらせた凄まじい光景を、フェンはアリューシャとクリシュナの傍らで、奇妙なほど冷静に眺めていた。
 血管の中に砂でも流れているようなもどかしさに苛立ちを覚えてはいたけれども、我を失った一瞬が何をしでかしたのかを忘れてしまえるほどの愚かな激情家ではなかったし、すぐ隣に立つ二人の、張り詰めた静けさに引き摺られてもいた。
 ありふれた色彩を捨て、闇を纏う本来の姿で事の顛末を見つめる彼らの目は酷く冷めていて、まるで面白くもない劇でも鑑賞しているかのようでもあった。何故そこまで完全な傍観者足り得るのか、不思議に思いはしたが、己の理解が及ぶ範疇にある存在でないことが分かっていれば充分で、特に詮索する気にもならなかった。
 両軍が撤退して行くのを見届けた後、直ぐにアズフィリアの元へ向かうかと思えば、二人はその近くの森でで野宿の準備を始めた。
 野宿そのものに異議はない。
 だが、目と鼻の先に由井を攫った張本人がいるというのに何故、と疑問と抗議が綯い交ぜになった視線を向けると、
「街に入るより都合がいいんだ」
 というクリシュナの答えに、フェンは了解した。
 夕闇が落ちると、タラダインの街の外に焚火の灯りが幾つも見え、そこにグリヴィオラ軍が駐屯しているのが分かる。グローディ河を挟んだ対岸の街レクサーの方も同様で、ルウェルト軍が帰還の旅に出る前の束の間の休息をとっているのだろう。
 携帯食料で夕食を済ませたあと、小さな焚火を囲むようにして、三人は話す事も無く座っていた。誰も眠ろうとはせず、火の番をどうするかという当たり前のことも口にしなかった。
 静かな夜だった。
 密やかな獣たちの気配さえもが遠く、ぱちぱちと、時折火にくべた枯れ枝がはぜる音と、緩い風に揺れる葉の微かなざわめきがなければ、時の流れに置き去りにされたような寄る辺ない気持ちにすらなるほどに。
 揺らぐ炎をぼんやりと眺め、火勢が弱まる前に枯れ枝をくべながら、クリシュナの話を、フェンは脳裏で反芻する。

 最初に、
「あの子を取り戻して、どうする?」
 彼はそう言った。
 直ぐに答えあぐねたのは、彼の質問の意図を掴み損ねたからだった。
 フェンの無言をどうとらえたのか、クリシュナは問いを重ねはせず、穏やかな面持ちのまま、ゆっくりと語り始めた。
「本来、【闇月】が、あの子がこちらへ堕ちることなどないのだが、この世界が【金の小鳥】を必要としなければ、こんなことは起きなかったのだから、責任の一端は我らヴィスタリア一族にあるのだろうね」
 何の前置きも無く始まった話に、フェンは目を細めた。
「一族の罪は、世界を滅ぼそうとしたとか、大仰な事じゃないんだ。一人の娘が恋する王子の為に、その力を使ってしまっただけのことなんだけど、その影響は小さくなくてね、調和が乱れてしまった。そうだね、世界を支える台座の一部を欠けさせてしまったようなものだ。それを補うのに、【金の小鳥】が必要なんだよ。だから、ある程度【金の小鳥】には幸せな運命を用意している。でも【闇月】には、何もない」
 寧ろ、不幸が付き纏っている。
 フェンが視線だけでそう訴えると、
「歓迎すべからざるものだからね」
 やわらなか口調で辛辣な言葉が返された。
「早急にあの子を元の世界に帰すことが、【闇月】に対して僕らが出来る唯一の贖罪だ。でも、あの子自身が帰還を望まない以上、どうしたものかと迷っている」
 真意を問うように、クリシュナはフェンの目を見据えた。
「だから、君の意思を尊重しようと思う。
 あの子が、存在に耐えられなくなったなら、君が願いを叶えてやるのもひとつの方法だろう。
 もし、あの子を元の世界へ帰してやりたいと思ったなら、僕の名を呼ぶと良い。いつでもその願いを叶えよう。ただし、【闇月】の影響の咎は君が負うものだ。相応の代償は支払ってもらうよ」

 かさりと、やわらかな下草を踏む音で、回想は断ち切られた。
 下弦の月の淡い光に、女の影が映っている。
「姉様、ご心配をお掛けしました」
 そういって、深々と頭を下げた女がアズフィリアだと言われるまでもなかった。
 覚えのある声音ではあったが、そこにはもう、思惑に染まった色はない。
 アリューシャは険しい表情で何か言おうとして、そして、軽く頭を横に振ったアリューシャは、すとんと肩を落とすと、疲れ果てて放り出したような諦念を漂わせた。
「満足した?」
「ええ」
 にっこりと、それでいて哀しそうにアズフィリアは微笑った。
「そう」
 傍らでクリシュナは軽く肩を竦めただけで、何も言おうとはしなかった。
 この連中に振り回されたのかと思うと業腹だが、彼らには彼らなりに抱えるものが在るらしい事を思えば、ここで責める言葉を差し挟む事は躊躇われた。己の不甲斐なさがこの事態を招いたと言えなくもないのだ。そんな微妙な引け目もあった。
「あの子をお返しせねばなりませんわね……」
 黒い巻き毛を揺らして振り返ったアズフィリアは、悪びれた様子も無く小首を傾げて笑みを向けると、纏っていたマントをふわりと広げた。
 旅芸人が見せる手妻のように、由井の姿は現れた。
 夢うつつにたゆたう瞳には、まだ誰も映っていない。そのままゆらりと倒れそうな身体をフェンはそっと抱き込んだ。
「そんな厄介なものを、どうなさるの?」
 純粋な疑問に過ぎないようで、彼女の声音には悪意は感じられない。
 尤も、フェンにして見れば大きなお世話だが。
「いずれ、互いに追い詰められるのは目に見えていますのに」
 そう呟いて、由井を見る眼は決して無慈悲なものではなかった。
 やがて夜明けを迎え、朝靄の向こうへ三人は旅立っていった。



 昨晩、自分の傍らで何が行われようとしていたのは、陽菜子は知らない。
 ティレンは少し疲れた顔をしていたものの、普段通りだった。
「医師の見立てでは、疲労から来る発熱だろうということです」
 朝の挨拶に訪れるなり、陽菜子の体調の変化を見て取ったのも彼女だ。朝食に消化の良い薄味のものを出すように指示すると、すぐに医者の手配をした。
「少し苦いですが、薬湯をお飲みください」
 ティレンの側には、いまだ疲労の色が濃いソナが心配そうに立っている。その手にカップの乗った盆があった。
 飲みたくないとも言えず、渋々薬湯を飲んだ後、陽菜子は言った。
「ソナも休んで。酷い顔色してる」
「ですが、」
「何かあったらお願いするから。それともネイアスに」
「分かりました、分かりましたから、それはご勘弁ください!」
 唐突にソナの声がひっくり返った。青ざめた頬が一気に赤らんでいる。
 あまりのうろたえように、ティレンまでがくつくつと笑いを堪えきれずにいた。それが治まると、ティレンはソナの方に向き直った。
「ソナ、しばらく私が付いていますから、あなたも部屋で休んでいなさい。倒れられては困りますし。あなたの代わりはいませんから」
 その言葉に、ソナは感極まったようだった。それは、侍女としては得難い評価だったのだろう。深々と頭を下げると「お言葉に甘えさせていただきます」と部屋を辞した。
「ティレンも疲れてるでしょう」
「いいえ、さほどには」
「でも、目の下に隈が出来てる」
「そういう体質なのです。さ、陽菜子さまもお休みください」
「……熱なんか出してごめんなさい」
「騎士団の方々も強行軍で相当にお疲れのようですし、しばらくここで休めることを有り難いと思っていますよ」
「そっか、ならいいや……」
 ひとつ、とても聞きたかったことがあったけれども、そっと口を噤んで、陽菜子は目を閉じた。
 熱が上がってきていたのか、眠りは意識する間もなく、あっさりと訪れた。

 喉の渇きで目を覚ましたとき、まだ夢の中にいるのだと陽菜子が思ったのは、傍らにいたのがティレンではなくラエルだったからだ。
 ラエルは陽菜子が少し身じろいだことにすぐ気が付いて、
「目が覚めたか。気分はどうだ?」
 と陽菜子の顔を覗き込んでいた。
 凍てついた冬空の瞳に、気遣わしげな色が宿っている。
「お水……」
 喉が掠れて、まともな声は出なかった。
 陽菜子が身体を起こすのを手伝い、その背にクッションと枕をあてがうと、ラエルは小引き出しの上に用意してあったコップをその口にあてがってやった。
 そんな親切を受けるとは思ってもいないから、陽菜子は余計に夢の中の出来事だと思ったのかも知れない。
「食事はどうする?」
 首を振って、いらないという意志を表したが、
「熱が高い。解熱作用のある薬を処方してもらったから、少し何か腹に入れてから飲め」
 いかにもラエルらしい言いようだった。
 すぐに根菜が細かく刻まれた粥が運ばれてきて、拒否する元気もなく陽菜子は半分ほど口にした。そして、当然のように丸薬が渡された。
 この世界では薬は高価だ。飲むのが嫌だなどというのは我が儘なのは分かっていても、色もさることながら匂いからして苦そうなそれに、どうしても躊躇してしまう。
 もしかすると、苦そうなのは見た目だけで、実はとっても美味しいとか……などとぐるぐる考えていると、さっさと飲めとばかりに非難がましい視線をラエルから向けられた。
 しばらく親の敵かというくらいにそれを凝視したあと、覚悟を決めてえいやと勢いで口に放り込み、水で流し込んだ。
 が、やはり苦い。融ける間もなく喉の奥に流したはずなのに、じんわりと苦さで舌が痺れるような気さえする。
 陽菜子は背にあてがわれていたクッションを押しのけて、ごそごそと布団の中に頭から潜り込んだ。熱で怠い体も、苦い薬も、なにもかも持てあまして、逃げ出したいような気分だった。
「ヒナコ?」
 怪訝そうなラエルの声を最初は無視していたものの、繰り返し名前を呼ばれて、陽菜子は布団の隙間から目だけを出した。
「それでは息が苦しいだろう。もう苦い薬は無い」
「……ほんと?」
 疑わしそうな目つきに、珍しくラエルは苦笑を零す。
「ああ、本当だ」
 ようやく顔を出した陽菜子に、
「口を開けろ」
 もう苦い薬は無いといった先からそう言われて、陽菜子は鼻の頭に皺を寄せた。
「ほら、騙されたと思って」
 尚もの催促に、おそるおそる口を開ければ、転がり込んできたのはムムルの実だった。
 既に皮は剥かれていたそれは、舌で押しただけでも甘い汁がにじみ出してきて、舌に染みついた苦みを押し流してくれる。
 気候の変動に強く、痩せた土地でも豊かに実るムムルは、干したり酒に漬け込んだりして主に保存食として利用されている。決して珍しくはないが、収穫時期が極端に短い。だから、案外、生で食べる機会は少ない果物でもあった。
「まだあるぞ」
 巣でエサを待つ雛鳥よろしく、陽菜子は口を開けた。
 何度かそれが繰り返されて、
「もう終いだ」
 ぐずる陽菜子の口許を拭いながら、
「夕食の時には、また別の果物を用意しておく」
 とラエルは約束した。
「さ、眠れ」
 そう言って、ラエルは陽菜子の掛け布団を整え、顔に掛かった髪をそっと払う
 それを不安げな若草色の瞳が追っていた。
「なんだ? まだ何かして欲しいことでもあるのか?」
「……帰って良いの?」
「何?」
「あたし、王都に帰っても、良いの?
 一瞬、ラエルは動きを止めた。
 陽菜子が疑う気持ちは、ラエルにも充分分かる。
 彼女なりの覚悟も何もかも無視して、グリヴィオラへ供物のように送られた経緯を思えば、王都に帰ったとして、受け入れられるとは思えないのだろう。
「当たり前だ。そうでなければ、わざわざ迎えになどくるものか」
「うん……」
 納得したようなしていないような、曖昧な返事を残して、陽菜子は再び眠りに落ちた。

 次に陽菜子が目覚めたのは、翌日の朝だった。
 あのやたらと苦い丸薬が効いたのか、怠さは残るものの、随分と身体は楽になっていた。
「おはようございます」
「おはよ……、ソナ、ずっと付いていてくれたの?」
「いえ、先ほどまでティレンさまが。あたしは、昨日はずっと休ませていただいていました」
 なんか、変な夢を見たような気がする。
 夢でなかったらと考えるのが恐ろしいような。
 だから、陽菜子は何も聞かなかった。
 朝食の後、やはり苦い丸薬が待っていたが、口直しに甘酸っぱいコレットの実が用意されていて、あまやかな香りを漂わせていた。
 結局、陽菜子の体調が旅に耐えるほどに回復したのは、それから二日後のことだった。
 いよいよ王都への帰路へ着くというその日は、朝から緊張感が漲っていた。
 身支度を整えた陽菜子を迎えに来たのはラエルだった。
 特に挨拶らしい挨拶もなく、彼は無言で手をさし出した。
 陽菜子は不思議と躊躇うことなく、その手をとった。

 それから数日後。
 王都クレインに凱旋した聖宮騎士団への民衆からの歓迎ぶりは凄まじかった。
 門をくぐるなり、彼らを迎えたのは天を突くほどの歓声と、祝福の花。
 グローディ河畔の戦いにおいて【金の小鳥】がもたらした奇跡の話は、まるで風が伝えたかのような早さで、国中に広まっていたのだ。
 まだ街道の向こうにいる聖宮騎士団の影を物見櫓から認めた少年は、それこそ大きな手柄を立てたかのような興奮ぶりで、彼らの帰還を触れて回った。
 王城へ続く道の沿道は、王都中の人間が集まったに違いないと確信させるほどの人々で溢れかえり、騎士たちの髪や肩、陽菜子を乗せた馬車の屋根には、雪のように花が降り積もったのだった。

2008.01.08(2010.07.15加筆)


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