星月夜の森へ/番外編

── Redundancy

奥津城の姫(下)

 ルウェルト皇国前皇王ヒューベリの第三皇子マナークの病没の報が流れたのは、後にグローディ河畔の喜劇とまで評されるグリヴィオラとの中途半端な戦いからおよそ一年後、新皇王の即位式が行なわれた翌日のことだった。
 奥津城に幽閉されたということは、生きながら死者の列に加えられたと同義であり、簡素な形ばかりの葬儀が執り行われただけではあったが、皇子を唆し罪を犯させたとして同じく奥津城に幽閉されている母親であり第三側室であったシスリーの泣き喚く声は高らかで、いっそ華やかなほどだった。
 急な病、それも伝染性があるとして既に遺骸は焼かれており、強い殺菌作用のある薬草からつくり出された水で洗われた遺髪だけがシスリーの手に残された。
 巷では、マナークは幽閉された皇子の存在を疎む者の手に掛かったのだとか自害したのだという噂が真しやかに広がった。それでも、グリヴィオラとは、あの戦いを境にして友好的な関係を築きつつある新皇王サリューへの期待は高く、彼を亡き者にしようとしていた第三皇子への同情は酷く薄いものだった。
 そして、その暗い噂は前皇王ヒューベリの遺書に残したという皇女が見付かったという報によってあっさりと鎮火し、偶然居合せたグリヴィオラ王に一目惚れをされ、その場で求婚されたという話によって完全に払拭されてしまった。
 しばらくはルウェルトの皇都スノーウィの噂話はそれだけで埋め尽くされていたといっていい。あちらでもこちらでも、街角で交わされているのは、そのことばかりで、まるで見て来たように語るものさえいた。
「皇位争いに巻き込まない為に、前皇王が隠しておられたんですってねえ……」
「巡幸の際に見初められたって話だけれど」
「苛烈なご側室方に、冷たい皇妃じゃあ、田舎の素朴な娘に惹かれるのも無理ないと思うわ」
 大概が、無責任に根拠の無いものではあったけれど、悪意のあるものは少なかった。
「見付かった皇女様は、きっとお可愛らしい方なんでしょうね」
「即位式に参列したグリヴィオラ王が一目惚れして、口説く為に帰国を遅らせたっていうんだもの、きっと絶世の美女なのよ」
「そのまま連れて帰ってしまわれるなんて」
「お芝居よりも夢みたいな話よね」

 皇太后という称号を得て、皇都に程近い離宮に隠居したエイリィは、以前のような厳めしい衣装ではなく、動きやすい簡素な衣服を身にまとい、庭に生ったフィーグの実を摘んでいた。赤子の拳ほどの大きさのそれは、厚い皮の下にやわらかでねっとりと甘い蜜のような果肉が詰まっている。
「随分と大掛かりな茶番を仕掛けたものよな……」
 そう言って笑うエイリィに、人を寄せ付けない冷たい顔ばかりを向け、ヒューベリを影に日向に支えて来た皇后としての面影は薄い。そうしていると、まだ隠居などするような歳ではないことがよく分かる。皇后であったころは老成した雰囲気もあって年齢など感じさせる事などなかった。
 丁寧に摘んだ傷付きやすい実を、傍らでサリューが持つ籠に入れてゆく。
「その後、あの子は元気でやっておろうか」
 呟くように、囁くように言葉を零す彼女の顔は穏やかで、静謐だ。
 側室たちのような華やかな美貌はなくとも、造作そのものは整っていたし、重荷を背から降ろした彼女は、ふと心を和ませる空気を纏い、育ちの良いのんびりしたお嬢さんという風情さえあった。
 もともとは皇族の末席に名を連ねる宮家で、皇位継承争いとは無縁に育てられた彼女の本質は、こちらの方なのだろう。
「……ええ、そのようです」
 以前より頻繁に届くようになったグリヴィオラ王からの書簡には、必ず王妃の様子が綴られていた。親しい友人を得て、穏やかに暮らしているらしい。
「まこと、グリヴィオラの王には驚かされたが……存外に有り難い申し出だったようだの」
「ほんとうに……」
 今更ながら、よくもまあ、あんな無謀な事を実行した者だと思うと、苦笑が漏れた。
「あれの母は、己の欲を満たすことしか考えず、子を慈しみはしなかった……思えば、かわいそうな子よ」
 エイリィがヒューベリの妃となったのは、まだヒューベリが皇太子だった頃だ。それから数年を経ても子が授からず、周囲の圧力に負けて結局は三人の側室が彼に宛てがわれた。
 自分には訪れなかった幸福を、いとも容易く得ていった側室たちに、エイリィがどんな思いを抱いていたのか、マナークには知る由もない。
 ヒューベリとエイリィがとても仲睦まじい夫婦であった時期があった事も、エイリィが二度、その身に宿した子供を失っている事も。それがおそらくは、ヒューベリに側室を持たせようと画策する貴族たちの計略によって盛られた毒薬によってであろうことに気付いたからこそ、ヒューベリがエイリィを遠ざけていたことも。
「でも、幸せにやっていると思います」
「そうかの」
「イェグラン殿を信用したい、という私の浅はかな希望かもしれませんが」
 自嘲を交えてサリューは呟いた。

 半年ほど前の、皇位継承の儀が行なわれた晩のことは、今でも鮮やかな記憶だ。
 数百年以上前から繰り返されて来た儀式は、夜も空けぬ時間からの禊に始まり、日が暮れて夜の帳が降りきった頃、ようやく終わった。それでも簡略化されたというのだから恐れ入る。とはいえ、十日間の潔斎は行っていたし、儀式を滞りなく済ませるために覚えるべき作法や手順などは山のようにあったから、準備期間だけでも結構なものだったが、家臣たちの労力を考えれば、文句など言えようはずも無かった
 儀式に招待した各国の王やその使者からの言祝ぎを受けているうちに、既に満ちた月が高く昇るほどの時間になっていた。
 最後はグリヴィオラ王だった。本来なら筆頭であるべきだったのだが先方からの要求では致し方ないことだった。
 戦場での鎧姿は軍神かと讃えられたものだが、豪奢な衣装に身を包んだ姿もまた神々しいほどの王。何か企みでもあるのだろうかと、サリューが友好的な微笑を湛える裏で警戒するのは無理からぬ事だ。隙を見せた途端、獲物を捕らえる野獣のように襲い掛かって来るに違いないのだから。
 いっそ白々しいほど形式に則った祝いの言葉を紡ぎ、続いて祝いの品の目録が手渡された。
 それで、ようやく長い一日が終わるはずなのだが、予想通りと言うべきか、不敵な笑みを浮かべて、グリヴィオラ王イェグランは、
「人払いを願いたい」
 と言った。
 いったい何事かと周囲は浮き足だ立ち、ざわめきが細波のように広がった。
 無論、拒む事は簡単だ。このような場でそんなことを申し出る非常識さは、イェグランも分かっているだろう。だからこそ、サリューは静かに手を払った。それは、近従の者たちに場を外せという意味だった。
「……ですが」
「よい。下がれ」
 静かだが、有無を言わさぬ強さで命ずると、祝賀の縁起物に彩られた広間の扉は閉ざされ、しんとした空間に二人きりとなった。
「手間を掛けさせて申し訳ない」
 露ほどもそうは思っていないことがありありとした顔で、しゃあしゃあと言ってのけると、それなりに行儀良く座っていた椅子の背にもたれ掛かった。そうしてくつろいだ様子でいると、この部屋の主が、彼のように感じられ、サリューは器の差を思い知らされる。
「奥津城の姫を貰い受けたい」
「は?」
 唐突な言葉に、あまりに間抜けた間投詞がサリューの口から飛び出した。
「どうせ死ぬまで幽閉しているのだろう。ならば、俺にくれ」
 グローディ河畔での戦いの締め括りに、グリヴィオラ王の残した、
 ──友好の印として、貴国の姫を娶ろうか。いつまでも隠してはおけまい?
 という言葉の意味を正確に理解して、サリューは意識を失うかというほど驚いたのだ。
 ルウェルト皇家の皇位継承争いを引っ掻き回す為(としか思えない)に、第三皇子とその母を唆した者がグリヴィオラ王の手先であったなら、それを知られていたとしても不思議ではないにせよ、何を思って、そんな提案のしたのか、その場である程度の判断をするには、あまりに動揺が大きかった。
 その後、グリヴィオラ王からはその件に関して何の音沙汰もなかったから、揶揄されただけだと思っていたのだが、まさか、今、この時にそんな話が蒸し返されるなどと思いもしていなかった。
「昨夜、ちょっと顔を見に行って来た」
「な、んですって?」
 一体警備の者たちは何をしていたというのか。
 グリヴィオラ王の行動よりも、そちらの方に怒りを感じてサリューの顔は真っ赤に染まった。
「俺の噂は皇王もお聞き及びの事だろう。忍び込むのは得手でな」
 悪戯が成功した子供のような得意げに言われて、サリューは脱力して、両手で顔を覆った。
 確かに、元々王位など継ぐ気などなく世界各地を流浪していたというグリヴィオラ王に関する噂は、武勇伝から実に情けない笑い話にまで多岐に渡っている。その全てが真実だとは思っていないが、本人にそういわれてしまえば納得する他ない。
 幸い、単純な怒りは冷めるのは早い。ひとつ小さく息を吐いて、サリューは改めて正面のグリヴィオラ王に向かい直した。
 が。
「三日後に迎えに行くと約束もしたんだ」
「勝手な事を……!」
 一度は平静を取り戻した感情が、瞬時に激しく波立った。
「どのみち、あそこは死者の館みたいなものだろう」
「ですが、」
「第三皇子マナークは死ぬんだ。そして新たに皇女が見付かったことにすれば良い」
「簡単に言わないでください!」
「この先、利用しようと画策する者が出て来ないとは言えまい? そんな火種を抱えていても良い事など何もないだろう?」
 確かにその通りだ。
 マナークとシスリーがいくら謀られたとはいえ、グリヴィオラの者と通じ、第二皇子たるサリュー殺害を企てたという罪は、本来なら死を持って贖われるべきものだったのを、奥津城への幽閉としたのは、きょうだいを失いたくなかったサリューの我儘だ。カーラスティンへの逃避行にも付き従った献身的な側近には、愚かな判断だと責められ、未だに嫌みを言われ始末だった。
「だが、あのままにしておいても不幸なままだろう」
 そんな事は分かっている。
 数年は無理でも、マナークの存在が忘れられた頃に、何処かへ逃がしてやれればとは思っていた。
 ほんの少し話しただけだが、道を間違えたとはいえ、心根は真っ直ぐで悪事を好むような性質には見えなかった。それはきょうだいの欲目だったかも知れないが。
 それに、本来の姿に戻ったなら、おそらく正体も見破られる事なく暮らして行けるに違いない。
 ならば。
 覚悟を決めるべきだろうか。
 サリューは眉根を寄せて、目を閉じた。
 その場で決心をつけるにはあまりに問題は大きく、簡単にいってのけるグリヴィオラ王が憎らしくさえなってくる。
「おもしろそうな話をしておるの」
 不意にした声の方向を見るまでもなく、いつからそこにいたのか、ひっそりと立っていたのは、サリューの即位と同時に皇太后となったエイリィだった。
「あの哀れな子を連れて行ってくれるというのならば、お頼みいたそう」
「エイリィ様!」
「そなたもわかっておろう?」
 慌てふためくサリューに、エイリィは冷徹なほど落ち着いた視線を向けた。
「さすがは皇后陛下。段取りはお任せしてもよろしいだろうか」
「確かに承った」
 そう答えたエイリィの顔は、どこか悪戯に加担する少女のような無邪気な顔をしていた。

 あの後、仕方が無いとはいえ、シスリーを納得させる材料を得る為に、ようやく女性らしく伸びていた髪をぶつりと切り落とさねばならなかった事は、今でも申し訳なく思う。
 いったい、何がどうなっているのか混乱もしていた。
 もし、マナークが嫌だというのなら、グリヴィオラへは行かさないでおこうとも思っていたのだが、驚くほどあっさりとグリヴィオラ王に口説かれて、慌ただしく旅立って行った。
 その間、たった五日。
 前皇王ヒューベリの遺書に皇女の存在が記されていた事をでっち上げ、ようやく見付かったのだと、新皇王即位の祝賀に湧く中、どさくさに紛れて発表し、エイリィが重々しくそれを承認した。
 グリヴィオラ王が皇宮で偶然にも皇女に遭遇し、一目惚れしたなどという噂は知らぬうちに勝手に流れていた。そこに作為があったのかどうかは分からない。
 今後、火種になるかも知れない者を、まんまと大国グリヴィオラとの縁を持つのに利用したという陰口もあったが、そんなことはサリューにはどうでもよいことだ。
 失ったマナークという名の代わりに暁の女神の名を贈った彼女が、どうか幸せであるようにと、共犯者であるエイリィとともに祈るばかりのもどかしさが、真実そうであることで拭われる日を、彼は切望していた。


 夜も遅くになってから、ようやく寝室へと戻って来たイェグランは、酷く難しい顔をしていた。軽く湯浴みを澄ませ、食後の獅子のように寝椅子にだらしなく寝そべっても、眉間の皺は深いままだった。
「どうなさいました?」
 卓上に、リゴル酒と小さな硝子の杯を用意しながら微笑みかけるセルフィナの方をちらと見遣ると、やっとイェグランはやや愁眉を開いた。
「……いい考えだと思ったんだがな、あやつ、そんなものは必要ないと豪語しおった」
「リテルセ様が……?」
 建築現場に出向く事も多く、貴族にしてはよく日に焼けて厳つい体つきをした彼の、培われて来た知識と経験に裏付けされた高貴な自尊心に満ちた顔を思い浮かべた。確かに彼なら、そういうの頷ける。形が無いだけでなく、実のところ、家格が高いからといって、その家の者の人格までがそうであるわけではないことを、彼はよく知っていて、そこに価値観が見出せないのだろう。
「ああ。家格など関係なく、相応しいだけの功績をあげてみせるだと。その前にナディアが婆になってしまうわ」
「それでも、あの子はきっと笑ってその日を待ちますわ」
「全く、俺も焼きが回った。ナディアの生国のことなぞ気にして、家柄だの何だのと考えるとはな」 「それだけナディア様のことを大切に思っておられるのです」
「が、ナディアが幸せでなければ意味が無い」
「ええ」
 口調は拗ねているのが丸分かりなのに、父親のような顔をする、とセルフィナは思う。セルフィナ自身も、年下といってもほんの二、三年の彼女に、見ていると慈しまずにいられない、そんな雰囲気を感じていた。
 ふと視線を感じて顔を上げると、イェグランが複雑な顔をして、じっとセルフィナを見ていた。
 怒っているような、困っているような、珍しく戸惑っているような、何とも言えない表情に、セルフィナは不意に不安になる。
 何か悪い知らせでもあるのだろうか。
「なあ」
 酷く言い辛そうに、ちらちらと視線を外しながら、イェグランは問いかけた。
「はい」
「……お前は、ここにいて、その、なんだ……不自由は、まあ、あるとは思うが……、」
 彼らしくなく言い淀み、その歯切れの悪さが、実は気恥ずかしさからきているらしいことに気付くのに、数瞬の間が必要だった。
 政治的価値など皆無な自分が享受するには、もったいないほどに大切にされていることは、春の光が肌に沁み入るように、常に感じていた。それ以上を望む気などさらさらない。いきなり正妃の座に就けられた当初は、神経を張り詰めさせていたが、イェグランは共にある事しか求めなかった。正妃らしい事は、この国をきちんと知ってからで良いのだと、厳しいが優秀な教師をつけてくれている。
「とても、幸せです」
 心の底から、そう言える。
 グリヴィオラへ来てからの日々を思い返すと、自然と顔がほころんでしまうほどに、温かな光と心地良い風、清らかな水を存分に与えられている植物だって、これほど幸せではないだろうと思えるほどに。
「そう、か。ならば、よい」
 何故かばつが悪そうに、ばりばりと頭をかきながらイェグランはそう言うと、リゴル酒を満たした杯に手を伸ばした。
 さすがに、度の高い酒を一息に飲み干すのは、身体に良くないだろうとセルフィナは僅かに表情を曇らせる。咎めることは簡単だが、それはさすがに憚られて、杯に注ぐ量を控えめにすると、気付いたイェグランは苦笑を向けたが何も言わなかった。
「……無理矢理攫って来たようなものだからなあ」
 今度は、何やら貧乏くさくちびりちびりと杯の酒を舐めながら、ぽつりと呟く。
 笑ってしまっても良いだろうか。
 セルフィナは、込み上げて来る感情を抑えながら、ゆっくりと首を横に振る。
 嬉しくて嬉しくて、胸の奥に灯った熱が体中に巡り始めた。
「とても熱烈に口説いていただいたのだと思っておりましたが?」
 その言葉に驚いて顔を上げたイェグランは、セルフィナの満ち足りた笑みを見て破顔し、遠慮もなくその身を抱きしめた。

 ずっとずっと前のこと。
 各国を放浪していた頃に、ふと興味本位で忍び込んだルウェルトの王宮の庭影で見かけた、人目を忍び、声を殺して泣いていた少女の姿を、イェグランがずっと忘れられなかったことは、誰も知らない秘密だ。

* * *  * * * 

 おひめさまのおかげで、とてもゆたかでしあわせになったくにに、あるひ、となりのくにがせめこんできました。となりのくには、とてもりっぱなぐんたいをもっていたので、おひめさまのくにはひとたまりもありません。
 おひめさまは、じぶんのいのちとひきかえに、ひとびとのいのちをたすけてくれるように、となりのくにのおうさまにおねがいをしました。
 おうさまは、おひめさまのねがいをききとどけ、そのくにをじぶんのくにして、だれもきずつけるようなことはしませんでした。
 それから、おうさまはおきさきさまをむかえました。
 おきさきさまがほんとうは、かわいそうなおひめさまだったことには、だれもきづきませんでした。ほんとうは、おしろでないているおひめさまをおうさまはたすけたかったのです。
 そうしてふたりはずっとずっとなかむつまじく、しあわせにくらしました。

(了)
2009.02.15


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