星月夜の森へ/番外編

──Redundancy

奥津城の姫(上)

 むかしむかしあるところに、とてもかわいそうなおひめさまがいました。
 おひめさまのおかあさまは、じぶんのこどもをつぎのおうさまにしたかったので、おひめさまがうまれたときに、おうさまに、おうじがうまれましたとうそをついたのです。
 おひめさまは、きれいなどれすをきることも、かわいいかみかざりをつけることもゆるしてもらえませんでした。そのかわり、りりしいふくと、つるぎをみにつけることをめいじられました。
 やがて、おひめさまはかわいらしいかっこうをすることをあきらめて、りっぱなおうさまになるために、いっしょうけんめいべんきょうにはげみました。
 やがておひめさまはおうさまになり、そのくにはとてもゆたかになって、みんなしあわせにくらしましたが、おひめさまはずっとかわいそうなままでした。

* * *  * * * 

 虫の音すらしない静寂に満たされた夜だった。
 マナークは死神を待っていた。
 皇宮と奥津城を隔てる扉が開く音がした。
 もちろん、いくら隔絶された場所とはいえ、特別に許可された使用人の為の通用口というものはある。しかし、そこは一日に三度、決まった時間にしか開けられることはない。
 寝間着にではなく、持ちうる衣装の中で一番気に入っている若草色の服を着て、マナークは穏やかな気持ちで、足音が一歩一歩近付いて来るのを待ち焦がれた。
 やがて、部屋の扉が開かれて、マナークの、この無為なる生を終わらせる存在が、姿を現すはずだったのに。
「久しぶりだ」
 が、そこに立っていたのは、死神などではなくサリューだった。
 およそ一年半ぶりに見た彼は、線の細さは残していたものの、しなやかな力強さを感じさせる青年へと成長を遂げていた。
 奥津城へ通じる扉の鍵は、皇王しか手に出来ないのだから、何もおかしなことではないのだが、死神の訪れを待っていた身には、むしろ非現実的な気がした。
「頼みがあって来た」
「なんなりと」
 まともに言葉を交わしたのは、ほんの数度のことだが、マナークはこのきょうだいのことが嫌いではなかった。もし母である側室同士がいがみ合い、皇位継承の争いなどなければ、きっと仲の良いきょうだいになれたと思う。けれどマナークが命じたのではないとはいえ、サリューの命が狙われたという事実は厳然としてそこにあり、その罪はマナークが背負うべきものだった。
 酷く辛そうな面持ちで、サリューは覚悟を決めるかのように息を吐くと、真っ直ぐにマナークを見据えた。
「どうか死んでもらえないだろうか?」
 特に驚くべき言葉ではなかった。
 なるほど、あの死神はこうして自分の元に死を遣わしたのかと思っただけだ。出来うる事なら、死神自身の手でそれをもたらして欲しかったなと残念な気持ちにはなったが、これも悪くはない。
「サリューの望むように」
 マナークはふわりと微笑った。

 その三日前の事だ。
 尋ねる者などなく、身の回りの世話は恙無く行なわれても、挨拶の言葉を交わす事すら憚られるような中で、奥津城で独り幽閉の身となったマナークは静かに時を過ごしていた。
 幽閉と言っても、暗く湿気った牢の中というわけではない。
 以前に比べれば格段に狭くとも、十分に余裕のある部屋は清潔で、ごてごてした装飾がない分、むしろ開放的な感じすらあったし、日当りもよく、小さいながらも四季の花を咲かせる庭に面している。
 膨大な量の蔵書が書庫には納められていたし、手慰みの楽器を持ち込む事も赦されていたから、マナークは意外にもこの静かな生活に慣れていった。
 母のシスリーは時折暴れたりすることもあり、鍵付きの部屋に閉じ込められていて、また下らぬ共謀せぬとも限らぬという理由で面会は許されていなかった。それが寂しいと思う事はあっても、もう誰かへの恨み辛みや呪詛めいた言葉を聞かずに済むようになったことで、マナークに安らぎをもたらしたのは皮肉な事でもあった。
 そんな無為な日々をどれだけ重ねれば、終わりが来るのかと考えれば絶望的な気分になることもあったが、もう、望みなど何もないのだと思えば、それも灯火が消えるように荒れた気持ちは鎮まった。
 稀にではあるが、サリューから短い文が差し入れの中に混じっていることがある。生活に不自由はないか、健康を害していないか、という気遣いは最小限で、庭のラスカレンが満開になっただとか、スーグの実が落ち始めただとか、ベルファーラの花が咲き始めたといった、ささいな話が大半を占めていた。そうして季節の移ろいだけは身近に感じながら、ふた巡り目を迎えようとしていた。

 それは二つの月、クレイアは西の空に、パエンナは東の空に互いに欠けた姿を晒していた夜更けの事。
 こつこつと窓ガラスを叩く音にマナークは目を覚ました。
 こんな時間に、というよりも、この隔絶された場所を訪れる者などいるはずがない。もし、忍び入った事が知れたら、事情など関係なく死罪だとされているからだ。
 夢でも見たのかと思いながらマナークは身を起こし、窓を開けた。
 さすがに夜気を冷たく感じて上着を引き寄せる。
 窓の外には誰もいなかった。
 やっぱり夢だったのかと残念な気はしたが、思いがけず綺麗な月の様子に誘われて、夢心地な気分で、ふらりと庭に出た。
 素足のまま、やわらかな草を踏むのは存外に気持ちが良い。
 以前ならいざ知らず、今はそれを咎める者はいない。  もともと肩の辺りまでは伸ばしていた髪は、翼の名残のような骨を覆うほどになっていて、風に揺れる音が耳もとでする。
 静かな夜だった。
 遠くで小夜啼鳥の声がしているばかりの。
 だから、かさりと草を踏む足音に気付くのは容易い事だった。
「……誰?」
 もしかすると、罪人として幽閉されているとはいえ、生きてここにいる事を面倒に思った大臣から遣わされた刺客かもしれないとは思ったが、不思議と自分のきょうだいたちの手の者だとは疑いもしなかった。
 現れたのは、刺客としてこんなところに忍び込むには随分と体格の良い大柄な男だった。月光に映える青銀の髪は冷たい炎のように見え、顔には人を喰ったような笑みを浮かべている。
 一体、何者なのかマナークにはまるで見当も付かなかった。
「ここから出たいか?」
 不意の問いに、マナークはその意味を受け取りかねたが、答えに迷うことはなかった。
 いくら望んだところで、死ぬまでここを出ることはない。
 それに、もう何かを望む事は止めたのだ。
「いいえ」
 微笑みすら浮かべて、マナークはそう答えた。
「何か望みは?」
「ありません」
 男は少しばかり困ったようだった。
「何もないのか?」
「はい」
 重ねて問われても、答えは同じだ。
「何も望まず、ここでただ朽ちて逝くつもりか? それが望みか?」
 男の言葉に苛立たしげな棘が混じったのを不思議に思いながら、マナークは微笑う。
 ここで、何を望めと言うのだろう?
 ああ、でも、ひとつだけ望むなら。
「この無為なる生が終わる日を──」
 零れた、微かな独り言を男は聞き逃さなかった。
 男はマナークの細い顎を掴むと、獰猛な笑みを向けた。
「いいだろう。お前の、この生を終わらせてやる。三日、待っているが良い。その代わり、その後のお前を俺がもらうぞ」
 ああ、彼は死神なのか。
 湧き上がったのは、恐怖ではなく安堵で。
 マナークはうっとりとした気分で目を閉じた。
 やがて男の気配は消え、マナークは独り、夜明け間近の庭に立っていた。

 約束通り、死神の死者は訪れた。  それがサリューであった事は、もしかすると死神なりの贈り物なのかも知れないと思う。 「来てくれたのがサリューで良かった。ありがとう」  その言葉が余程意外だったのか、思い切り目を見開いたサリューの顔は、やがて悲痛に歪んだ。何か言おうとしたようだが、それも言葉になるまえに、吐息とともに消えてしまった。
 手にしていた小刀の束を握り直して、サリューはゆっくりと近付いてくる。
 刃が向けられるのを、マナークは静かに待った。

「セルフィナ様?」
 まだ幼さを僅かに残す甘い声に、とろりとした眠気をまとったままセルフィナは目を覚ました。
 午後の穏やかな日和に、ついうつらうつらしていたらしい。
 まだ春と言うには早い時期だが、セルフィナが生まれ育った国に比べて、グリヴィオラの王都ラリッサは冬に雪が降る事などないほどに温暖だ。
 未だ慣れぬセルフィナという名に、起きぬけの頭は少しばかりぼんやりとしていた。
「せっかくの午睡をお邪魔してしまってごめんなさい。でも、焼きたてのお菓子が届いたから……ゆるしてくださいましね?」
 と、無邪気な笑みで温かな菓子の入った籐籠を見せるナディアは、セルフィナよりも年下で、それでももう十七になるという。
 お茶の誘いに、そのまま立ち上がろうとして、膝の上に置いていた本が床に落ちた。
 慌てて拾い上げたナディアが不思議そうな顔で表紙を開く。
「絵本、ですか?」 「書棚にあったものなの。アズフィリア様が置いていかれたものなんですって」
「あたくしも読んでみたいな。お借りしてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
 ツァルト国から取り寄せたという、清々しい後味が特徴のお茶を淹れると、侍女は直ぐに部屋を下がった。過剰に世話を焼かれる事を自分の主人が好まない事を、彼女はよく知っていた。
 まだ温かな焼き菓子を切り分けると、中にはフィーグのジャムが練り込まれていた。
 セルフィナの故郷ルウェルトでは日常的に食される果物で、収穫時期の晩夏には厚い皮を剥いて、中のやわらかでねっとりと甘い蜜のような果肉を食すが、保存用に干した実やジャムは一年中で回っている。だが、グリヴィオラでは、まだ珍しいものだ。
「王が取り寄せてくださったんですね、きっと!」
 一度だけ、どんな食べ物が好きかと問われた時に、フィーグの焼き菓子だと答えたことがある。その時にはさしたる意味など考えもしなかったが、ごく稀にこうしてお茶の時間に差し入れられると、ほわりと胸の内が温かになるような気がした。
 それに。
 目の前にいる少女、このナディアは、グリヴィオラの北方にある小国から、王の側室にと送られて来た姫だった。グリヴィオラ王の愛妾アズフィリアが忽然と姿を消したという噂は瞬く間に国境を越えて広がり、そうして献上品とと共に送られて来た姫君の数は両の手の数を下らない。だが、豪放磊落、型破りを絵に描いたようなグリヴィオラ王イェグランにしては珍しく、献上品は有り難く頂くがと、姫君には相応の土産を持たせて返したのだという。
 その唯一の例外がナディアだった。

 一国の姫として充分な教養を持ち、上品な所作を身に付けていたが、贈られた姫君の中では大変に平凡な容姿であったし、おそらく他の姫君たちは自分の何処が彼女に劣っているのか全く分からなかっただろう。
 それは、当のナディアも同様ではあった。
 尤も、イェグランはナディアを側室にはしなかった。行儀見習いとして預かり、もし望むなら自分以外の王族か、高位の貴族との縁を結んでやろうという提案に、ナディアの生国は諸手を上げて歓迎した。
 大国グリヴィオラとの繋がりさえ出来るなら、何でも良かったというのが本音だとナディアは知っている。なんにせよ、彼女にしてみれば、送り返されずに済んで、心の底から安堵していた。
 ひたすら肩身の狭い思いをし、周囲の視線に居たたまれない気持ちで過ごしていた日々になど、戻りたくなかったのだ。女が余計な知識を身に付ける必要はないと、物語や絵本以外の本を読もうとすれば咎められ、城の外に出る事は許されず、行儀作法だの刺繍だのと、くだらない習い事に終始していた毎日は、好奇心の旺盛な彼女にとって耳も目も塞がれ、周囲の視線に口をも塞がれていたようなものだった。
 ここでは、蔵書室へ自由に出入りする事が許され、修学所へ通う事も知識欲の赴くままに本を貪っても咎められるどころか、イェグランは笑って褒めてくれる。
「分別を弁えるというのは、立派な美徳だぞ」
 そんなことをナディアがイェグランに言われたのは、セルフィナがルウェルトから正妃として迎えられる前のことだ。
 自分のことを卑下していたわけではないが、何故自分だけがこんなに恵まれているのかという疑問を抱えているのを見抜かれていたのだろう。
 時折、夕食や午後のお茶を共にする機会があり、そういうときの彼は、まるで身内のような親しげで、ナディアが子供の頃にいたら良いのとこっそりと願っていたやさしい兄のようだった。
「高慢ちきな、美貌だの教養だのを鼻にかけているような女なぞ、近くにいるだけで鬱陶しい。まあ、女に限らないがな」
 気に入らない大臣や官僚を躊躇いもなく切り捨て、裏切りを企てた者は一族もろとも粛正するという苛烈さを持ち、深い緑の目の奥に獰猛な光を湛えるイェグランをやさしいというには、やや荒々しさはあるものの、ナディアに向けられているものはやわらかで温かい。
 おそらくは、ナディアが生国で「妃の不貞の実」と言われていることは知っているだろう。それを憐れんで、この国に居場所を作ってくれたのかも知れないとは思うが、それを敢えて口にする気にはなれない。
「近く、ルウェルトから正妃を迎えるつもりだ。仲良くしてやってくれ。頼んだぞ」
 実は、まだ大臣にもそのことを話していなかったことを真っ先に告げられて、ナディアが感じたのは落胆などではなく、純粋に喜びだった。
 ナディアにとってイェグランは、憧れこそあるものの、本当の兄がこの人だったら良いのにと願い、慕う対象ではあっても、恋愛の対象からはしっかり外れていたのだ。だから、誰よりも最初に、そんな大切な事を告げられ、あまつさえ「頼んだぞ」とまで言われて、天にも昇る心地になってしまったのだった。
 後になってみれば、自分たちがそういう関係にはならないだろうという事までも彼は見越していたのだろうとナディアは思う。言葉を交わす機会に、辟易した様子で姫君たちの攻勢について零したりと、どこか気を許していたのはナディアに対してだけだったのだから。
 ルウェルト皇国から皇位継承の儀に招待され、半月ほどの不在の後、予定よりやや遅れたものの、イェグランは言葉通り正妃を連れて帰って来た。
 女性にしては珍しく髪が肩に付くか付かないほどの長さが凛とした雰囲気に似合っていて、泉のように澄んだ印象を持ったセルフィナを、一目でナディアは好きになった。幸いにも、セルフィナも同様だったようで、二人が姉妹のように仲良くなるのにさほど時間はかからなかった。
 姉妹のようといっても、イェグランの正妃セルフィナとナディアに対しての接し方は明らかに違っていた。一見、自分との方が親しげで、セルフィナと共に居るときの空気は独特で緊張感すら漂っていたというのに、不思議な緊密さがあった。それはナディアにはまだ理解の出来ないものだったけれど、それが少しずつ解けてゆくに従ってセルフィナの表情がやわらかく艶やかになってゆくから、きっと二人は幸せなのだろうと思っている。

 先日、城下に降りた侍女から聞いた、街中での話を披露するナディアの言葉に、思わず笑みを零しながら過ごす穏やかな時間はあっという間に過ぎてしまう。
「そろそろリテルセ様がいらっしゃる時間ね」
「はい」
 気持ちが弾んでいるのが、その短い返事だけでも十分に感じとれた。
 ユーグ・リテルセは国土省の高官で代々灌漑事業を司ってきた一族の末子だ。彼のグローディ河の氾濫によって破壊された石橋の復旧作業についての報告を、イェグランと一緒に聞いたナディアが、その話をもっと聞きたいとせがんで以来、十日に一度ほどの割合で王宮を訪れているのだった。
 ──ナディアは、あれで隠れた才能の持ち主らしいぞ。
 ほんの数日前、イェグランが我が事のように嬉しげに語ったことをセルフィナは思い出した。妬心を持つにはナディアは無邪気過ぎたし、何よりも目の前にいる彼女がリテルセに夢中なのは明らかだ。
 ──書きかけの橋の図面を見て、あいつが指摘したところを検討し直したら、全体の設計も変える羽目にはなったが、随分と良いものになったんだと。本格的に勉強させてみたいと真顔で言われたが、どうしたものか悩むところだ──
 そういいながらも、数学と物理学の教師をつけてやろうか、などと話す彼は楽しそうだった。難を言うなら、リテルセの一族はもとは石橋を組む職人で、高位の貴族ではないということだ。
 ──ユーグはリテルセ家の中でも特に使える奴だからな、近々それなりの地位につかせようとは思っているが、家格はな、さしもの俺も簡単には触れられる領域じゃない。悪行を暴いて取り潰すのは簡単なんだがな──
 王位についてから、彼の王位継承に反対し謀殺を企てた貴族だけでなく、過剰な税の取り立てや賄を受け私腹を肥やしていた地方貴族にまで彼の粛正の手は及んだ為、貴族の数は七割になったとさえ言われている。それはさすがに誇張された数字ではあるが、取り潰された家の数は両の手足の数では足りないはずだ。だが、無造作なようで、絶妙なさじ加減というものを心得ていた。
 ──ならば……いっそ新たに興してみたら……?──
 それは、ほんの軽い思いつきだった。
 彼に伝えようなどと思いもせず、ただ、口から零れただけの小さな呟きだったのだが。
 その思いつきを、イェグランは大変に気に入ったようだった。

to be contiued.
2009.02.15


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