夕凪


 入学早々、クラス委員を決める際に、校内整備委員の役割を振られたとき、織羽(おりは)には果たして何をするのか分かってはいなかったが、結局のところ、屋上にある掲揚台の校旗の上げ下ろしが主な仕事だった。一週間毎に交代で一年生は年に三回、二年生には二回その仕事が回ってくる。
 春に一度目のお役目が回ってきたときには、もう一人の委員も真面目にとは言い難くも、朝と夕方の仕事をこなしていたが、初秋に二度目が回ってきたときには、朝は寝坊、夕方は塾とかで、全く役には立たなかった。それでも、織羽にはたいした意味は無く、そもそも、そのクラスメイトの名前すら覚えていなかった。
 金曜日の夕方、織羽は屋上に通じるドアの鍵を片手に一人、階段を上っていた。
 確かに、この仕事は登校時間も早くなるし、下校時間も遅くなって、面倒なことしかないのだが、それでも屋上からの眺めは、そういった時間を引き替えてもいいくらいには良かった。
 折しも、その日は朝から良く晴れて、空気は初秋らしく乾いて冷えていたから、屋上から夕空を見るのを楽しみにしていた。
 がちゃりと鍵を開けて、外に出る。
 もちろん、余り長い時間、そこでのんびりはしていられない。鍵は30分以内に返さなくてはならない。管理はそれなりに厳しく、持ち出す際に学年とクラス、名前、そして、持ち出し時間を記録帳に記載しておかねばならない。そこに、注意事項として「30分以内に返却のこと」とあるのだが、それを破ったらどうなるのかは不明だ。
 午後5時半。
 グラウンドは、部活を終えて、用具を片づける生徒がちらほらいるだけで、先ほどまでの賑やかさが嘘のように静まりかえっている。
 まだ日が沈みきるまでには間がある。空は橙色から紫色への美しいグラデーションに彩られ、細くたなびく雲も、揺らめく色を映して輝いていた。手すりに腕を乗せて、薄闇に沈みゆく街を眺める。風は少し、肌に冷たい。
 ちらりと腕時計に目をやる。
 先に校旗を降ろしてからの方が、あわてずに済むかと、掲揚台から旗を降ろした。そして、手早く畳んだそれを腕に引っかけて、西の空に頭を巡らしたとき、織羽はぎょっとして動きを止めた。
 自分以外の人間が、屋上にいた。
 一応規則では、許可を得た者以外の屋上の立ち入りは許可されていない。
 校内整備委員以外で、この時間、この場所に、許可を得てまで用事のある生徒など、いるとも思えなかった。
 それに、そもそも、許可の得られる用事では無いに違いない。彼女は、フェンスをよじ上っていたのだから。
 運動神経は良いらしく、身軽な動作で向こう側に降りたものの、彼女はフェンスにしがみついたまま、其処に立ちつくしていた。
 織羽は、足音を忍ばせるでもなく、彼女に近づいた。
 フェンスを握りしめる手が、震えているのが見える。
「恐いの?」
 遠慮の無い言葉に、彼女はおずおずと振り向いた。
 おや。
 織羽は其処に意外な人物の顔を見た。
 同じ学年で、隣のクラスの委員長だ。成績も優秀、部活動でも既に主力、顔立ちも可愛らしいとなれば、いくら他人に感心が無い織羽でさえも、名前くらいは何度も耳にしているうちに覚えていた。
 綺麗な子だな。
 そんなことを思っている場合でもないのだが、しみじみと織羽は感じる。
 手だけでなく、全身が震えていて、青白い唇をしているというのに、その姿を織羽は壮絶に綺麗だと思ったのだ。
「……一緒に飛び降りてあげようか」
 何故そんなことを口にしたかも、分からない。何となく、そうしてもいいかと織羽は思っただけだ。
「どうして……」
「今、このタイミングで飛び降りられたら、私の立場って相当悪くなるだろうし、かといって、止めても、その責任、とれないし」
 それは、この上なく正直な気持ちだった。
 学年で成績トップクラスの生徒が投身自殺などしたら、いるのかいないのかも分からないような目立たない生徒の筆頭である織羽は、落ち度のあるなしに関わらず、何故そのタイミングで屋上にいたのかという一点において責められるだろうし、下手をすると、学校にいるのも辛い立場に追い込まれるかも知れない。けれど、この先の彼女の人生について関わる気もない以上、彼女の決断を止めるという行為も出来かねるのだった。
 それを伝えることは、ある意味、彼女にとって赤の他人に向けることのできる、精一杯の誠実さと言えないこともない。
「……あたしと一緒に、死んでくれる?」
「いいよ」
 ぽいっと校旗をコンクリートの上に放ると、織羽はフェンスをよじ登り、その上に腰掛けた。
「うん、いい眺め。世界が終わるにはもってこいの光景だ」
「世界が、終わる?」
 怪訝そうに彼女は織羽を見上げた。
「死ぬんでしょ」
「あたしが死んでも、世界は、知らん顔で続いていくよ」
 そう言って俯いた彼女の手は、全身は、震えたままだ。
「それは他人の世界であって、自分の世界じゃないんだからどうでもいいんじゃない?」
「他人の、世界?」
「うん」
「そ、っか」
 彼女は恐る恐る向こう側に半身を向けた。広がるのは、オレンジと群青の空だ。黒く沈んだ闇の中に、ぽつぽつと家の明かりが灯り始めている。しばらくすると、彼女はフェンスを上り、織羽の隣に座った。
 わずかに触れ合う腕から、かすかに互いの体温を感じてはいても、無言のまま、ただ二人は彼方を見つめていた。
 遠く、霞む稜線のその先に、夕陽は沈もうとしている。
 思うさま二人の髪を弄んでいた風が止んだ。
 赤く染め上げられていた世界に、あわい青紫色の光が満ちてくる。
 どれくらいそうしていたのか。
 おそらくは、ほんの十分程度だっただろう。
「何をやっとるか!!」
 教師の怒号で、その時間は終わりを告げた。
 数学教師の金本が、ドアの横で仁王立ちになっていた。
 屋上のフェンスによじ登り、あまつさえその上で腰掛けているなど、教師にしてみれば腰が抜けるほど驚く事態だっただろう。ただでさえ危ないのに、そのまま目の前で飛び降りられた日には、自分の教師生命だって危機に陥りかねない。
 二人は、わざとらしいほどあわてた様子で屋上の内側に飛び降りた。そして、殊勝にもしゅんとうつむいて、教師がずかずかとやって来るのを待った。
「お前ら、一体何を考えとるんだっ!」
 安堵と怒りで、髪の毛を逆立てそうな勢いで、彼は二人を怒鳴りつけた。
 教師生活早十年。可もなく不可もなく、そろそろ二人目の子どもが生まれる、ごく平和な家庭が、危うく壊れたかも知れないのだ。それに、目の前にいるのは、片方はともかく、片方は国立大学は確実と目されている生徒だ。地方の進学校としては、そんな生徒を失うわけには行かない。
「す、すみません……。あたし……」
 彼女は涙声を詰まらせた。
「……なんだ、何か、悩みでもあるのか」
 ただならぬ様子に、すこし怒りを引っ込めて、彼はそんな言葉を掛けてみる。
 だが、彼女は、涙をこらえようと身体を震わせて、何も言葉を発することは出来なかった。
「あの……先生にご心配おかけして、申し訳ありませんでした。気晴らしになるかと思って、萩野さんを安易に屋上に誘ったことも反省しています。もう、二度とこんなことはしません。どうか許していただけないでしょうか」
「……本当に、二度と、やらないだろうな」
 秘密めいたものを匂わせた、ささやくような織羽の口調に、金本もそれ以上言及するのは無神経だと判断したようだった。
「はい」
「あそこから落ちたら、ただじゃすまないんだぞ」
「投身自殺がどれくらいはた迷惑なことかは、良く知っています。身内で……いましたから」
 そう言って、うつむいた織羽に、彼はそれ以上強いことは言えなかった。
「分かった。今日のことは、俺の胸の内に納めておく。だけど、本当に二度とやるなよ。肝が冷えたぞ」
「ありがとうございます。本当に申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げると、織羽は校旗を拾いあげ、付いていた砂埃を払った。
「ほら、さっさと下に降りろ。施錠は俺がやっておく」
 二人が屋上から追い立てられると、それを待っていたかのように夏の終わりを告げるような、冷たい風が吹き始めた。
 既に暗くなった階段を慎重に降りながら、
「あたしの名前、しってるの?」
「E組の萩野花南(はぎのかな)さんでしょ」
 きょとんとした顔で織羽を見る本人は、自分が結構な有名人である自覚はないらしかった。
「あなたは?」
「F組の永瀬」
「永瀬、さん……。あの、さっきは、ありがとう」
「どういたしまして」
「でも、ホントのこと、言ってくれて良かったのに」
「私も成り行きで自殺に付き合うことにしました、って? 金本先生、卒倒するよ、それじゃ。というか、それじゃあ納まるものも納まらない。萩野さんが先生に一目置かれてて良かったよ。
 それにフェンスによじ登って、あの風景見てみたかったしね」
 口の端を、ほんのすこし上げて、織羽は笑った。
 あの風景を見て死ねるなら、それはそれで良かったような気もしていた。
 その後の処理などを想像すると、どうにもはた迷惑以外の何ものでもないにしろ、綺麗な夕焼けの中で自らの命を絶つ少女、なんていうのは、現実の現場はどうであれ字面だけはロマンティックだ。
 が、それがどれほど自分に似合わないかということも、織羽は十分に承知していた。
 そう、そういうのが似合うのは。
 横を項垂れて歩く花南の顔に、ちらりと目をやる。
 頭脳の容姿も器量も恵まれた少女にこそ、だな。
 そんなことを織羽が考えているなど、花南の方は考えもしていなかっただろう。
「じゃ、私、旗をしまったり鍵返したりがあるから」
 二階の踊り場で、軽く手を挙げて、織羽は花南に背を向けた。

 軽やかに自分の横から去ってゆく織羽の後ろ姿に、花南はまるで置き去りにされたような気分を味わっていた。
 つい、追いかけようとして、足を止める。
 気持ちは既に落ち着いていて、危うく見知らぬ同級生に、多大な迷惑を掛けるところだったことにも思い至っていた。
 何が辛いのかと尋ねられたとしても、明確な答えを彼女自身が持っていない。真綿で緩慢に首を締められていくような、もどかしい苦痛を、どう言い表していいのか分からないからだ。
 既に、狂おしいほどの焦燥感は去っている。
 憑き物が落ちたかのように、虚無を求める気持ちはもうない。
 それは、夕暮れに沈む町並みの風景を見て、感情が鎮まったからかもしれないし、共に死んでくれるという、奇矯な同級生のおかげかもしれない。
 屋上の掲揚台の校旗の上げ下ろしの為に、校内整備委員が毎日出入りしていることは知っていたから、安易にその後をつけて、目論見通り屋上に入り、高いフェンスを乗り越えるまでは、計画通りだった。ただ、最後の一歩が出なかっただけだ。
 よく、フェンスの上になんか、座って風景なんか眺めていられたな。
 今更になって、あの高さを思い出して、膝が震える。
 フェンスを乗り越えたときは、夢中だったのに、その向こう側に辿り着いて、眼前に広がる世界の広さに、そう、高さにではなく、無限とも思える地平までの果てしなさを、恐れたのだった。
 自分のクラスにカバンを取りに行き、最終下校時刻五分前を知らせるチャイムの音を聞きながら、昇降口で靴を履き替える。電気の消された廊下の向こうから、織羽が来ないだろうかと、ほんの少し、踏み出すのをためらってから、花南は帰路についた。

 教室に置きっぱなしのカバンを取りに行ったついでに、理科準備室に立ち寄った織羽は、
「まだそんなところにいたんですか」
 呆れたように、薄闇に向かって言った。
「うーん、自宅より、ここの方が落ち着くんだよ」
 のんびりとした声が帰ってくる。
「最終下校時刻、過ぎますよ。私はさっさと帰ります。金本先生に見つかったりしたら、今度こそ、大事になってしまいますから」
「何かやらかしたの?」
「……自殺幇助のような、自殺阻止のような。ちょっと微妙なことなんですけどね」
「地味なくせに、ほんとに面白いな、お前」
「名城先輩に言われたくないですよ」
 本気でむっとした様子に、名城は、からからと笑った。
 先だっての体育祭での分団は、学年を縦割りにしたものだったから、やたらと交友関係の狭い織羽ではあるのだが、同じF組ということで、三年生の名城と知り合った。別に何をしたというわけでもなく、ほんの二言三言、日常の挨拶程度言葉を交わしただけなのに、名城の方がすっかり織羽を気に入ったらしく、ことある毎に声を掛けてくる。
「また学校に泊まり込んで、清水先生ともめないでくださいね」
「う、それはちょっと避けたいな」
 学校内で生徒から飛び抜けて嫌われている筆頭が、生活指導の清水だ。そもそも生活指導を担当しているだけでも、嫌われる条件に入っているというのに、その上、暑苦しい容姿に、粘着質で、ひがみやすい性格となれば、好かれる要素を探す方が難しい。そして、彼に今、一等、目の敵にされているのが名城なのだった。
 ほとんど荷物が入っていないことがあからさまな、うすべったい学生カバンを手に、名城は立ち上がった。
「んじゃ帰るか」
「そうですね」
 最終下校時刻を告げるチャイムの音に押されるように校門を出ると、織羽はふと立ち止まり、薄闇の中に立つ校舎を見上げた。
 あのまま成り行きで全てを終わらせていたとしても、惜しむべき何かは思い当たらない。
 トップレベルの成績と、優れた容姿、見かける時は大抵友人たちと一緒で、表情は朗らかだ。嫌でも聞こえてくる噂では、中学生の時はバスケットボール部でキャプテンを務め、県大会の決勝にまで駒を進めたのだという。
 そんな彼女でも、傍目には分からぬ彼女なりの懊悩があるのだろう。
「さっき、物騒なこと言ってたよな」
「え?」
 不意に、怒っているような声音で問われて、織羽は名城の方に向き直った。
「自殺幇助とか阻止とかって。何をしようとした?」
 怒っているよう、ではなく、明らかに彼は怒っていた。
 普段から軽佻浮薄を絵に書いたような雰囲気を持ち、なまじ見た目がいいだけに、印象としてはちゃらんぽらんな名城が、そんな顔を見せることは滅多にない。
「お前、まさかとは思うけど、」
「なんとなく成り行き。結果オーライだからいいじゃないですか」
「莫迦者」
 ごん、と、さすがに手加減はされていたものの、それなりの勢いで拳骨が落ちた。
「……ったぁ!」
 涙目になっている織羽を冷たく一瞥して、さっさと名城は先を歩き始めた。
 追い付いて横に並ぶと、ぐしゃぐしゃっと頭を撫でられる。
 ここにまだ在りたい。
 そう思うのに、余りにささやかで、それでいて確かな理由が、そこにあった。
 
(了)
2010.01.21


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