「時の環」にて。

幸と不幸のあわい


 古ぼけた煉瓦に見せかけた六階建てのビルの二階に、その店はある。
 ドアの前に「時の輪」とだけ彫り込まれた木のプレートが掛かっているだけで、知らぬ者には何の店かは分からない。
 その日訪れていたのは、女性だった。
「息子の命は、十歳まで持たないだろうと医者に言われています。今年、もう八つ、何とかならないかと……」
 ペールグレイの品の良いスーツ、耳許を飾るエメラルドのピアスに揃いのデザインのネックレス。この古びたビルに足を踏み入れるには場違いな品の良い身なりをしている。四十を越えているとは思われないが、施された化粧では隠せぬほど酷くやつれた顔をしていた。
「私は占い師であって、医者ではありませんよ」
 オークのテーブルを挟んで、女性の向かい側に座っているのは店の主だ。細かな刺繍の施されたチュニック、細かに編み込まれた長い髪、そして何よりも特徴的なのは両の目を覆う黒い布だ。
「……でも、あなたは、運命を変える力があると……聞きました」
 自分で言っていても、半信半疑なのだろう、女性の声は、小さくとぎれがちだった。それでも、こんなあやふやな噂にすがらねばならないことに、苛立っているようにも見える。
「そんな大層な力など持っていませんよ。しがない裏通りの占い師なんですから」
 占い師はため息をつく。
 そんな世迷い言を言われても困ると言わんばかりに。
「……私、あの子が死んだら、追い出されるんです……」
 テーブルの上で組まれた指は細かに震えていた。
「他にお子さんは?」
「いません。でも、私のせいじゃないわ。だって……」
 要するに、旦那は既にこの女とは別れたがっているらしい。さっさと外で子供を作ろうとしていたがことごとく失敗に終わっているのが、唯一、女にとっての救いだった。
「あの家が必要としているのは跡取り息子だけで、いえ、もう本当は、先の見えた息子も……。ただ、世間体の為に……」
「失礼ですが、そんな家、出られた方がよろしいのでは?」
「それではあの子の治療費が出せません!」
 拳を握りしめて、女性は占い師を睨み付けた。
「仮に、息子さんが健康を取り戻したなら、それは気にする必要はなくなりますね」
 般若のごとき面相をみていないからか、甚だとぼけた口調で、占い師は言った。
「……何もかもお見通しだとでも? そうよ、今の生活を手放したくなんてないわ。そんなこと出来るくらいなら、こんなところに来るものですか!」
 修羅の形相で女性は叫んだ。
 まるで動じた様子もなく、占い師は軽く肩を竦める。
「あなたの望みは、息子さんの健康を取り戻すこと? それとも……」
 その先は、濁された。こちらを見られていないという安心感からか、それこそ全く遠慮の何もなく、憎々しげに占い師を睨みつける女は、やがて答えた。
「……息子のことをお願い」
「代償はそれなりにありますよ。その覚悟はありますか?」
「もちろんよ」
 おそらく、彼女はあまりに占い師を見くびりすぎていた。単に信じていなかったのかも知れないが。
「いくらお支払いすれば良いの?」
 占い師は、テーブルの上にあったベルを、ちりんと鳴らした。奥の部屋から十六、七歳と思われる少年が現れた。
「相談料は、一件につき五千円。ただし一時間を超過した場合は、十分に付き千円の超過料金が加算されます。お客様の場合は、こちらにいらしてから一時間と十八分になりますので、七千円になります」
 少年はにこやかに説明を済ますと、領収書を差し出した。
「なな、せんえん、ですって?」
「はい。そんな驚かれるほど法外な料金ではないと思うのですが……」
 今にも目玉が転げ落ちるのではと危惧されるほど目を見開いて、女は少年を見つめた。
 少年は、助けを求めるように占い師にちらと目配せを送ったが、気付く様子はない。
 がくりと肩を落とした女は、何か諦めたように薄く笑うと、
「……ばかばかしい。まあいいわ。おつりは結構よ」
 一万円札をテーブルの上に置き、領収書も受けとらず出ていった。

「かずみ、お茶ちょうだい」
「チーズケーキあるよ」
「それも」
 既に用意してあったのだろう、すぐに少年はお茶の用意を一式をトレイに載せて表れた。
「真詞(まこと)、どうするの、さっきの依頼。あの人、全然信用してなかったみたいだけど」
「それで良いのよ」
 うんざりしたように真詞は言った。

 その女性が、その店を再び訪れたのは、三年後の事だった。
「まだ、あったのね、このお店」
「おかげさまで」
「……なくなっていれば良かったのに」
「残念でしたね」
 たった三年で、これだけ老けることが出来るものかと感心するほどの変わり様だった。シワが増えたばかりでなく、肌も髪も明らかに手入れが疎かにされている。
 尤も、相変わらず目を黒い布で覆っている占い師にとっては、纏う空気が随分と貧相になったと感じさせただけだが。
「息子さんは?」
「生きてるわよ。おかげさまで、すっかり健康を取り戻したわ」
「それはおめでとうございます」
「何がめでたいものですか。あれから義父が事故で亡くなって、遺産は夫の兄弟に根こそぎ持って行かれたわよ」
「それは大変でしたね」
「義父が起こした事故に、夫も巻き込まれたのよ! 生死の境を彷徨ってる間に、弁護士をどう丸め込んだんだか、気が付いてみたら、会社の株も預金も別荘も、全部あいつらのものになってたわ」
 その割に、身に付けている物はいわゆるブランド品だ。しかも最新のラインで揃えられていて、経済的には以前と変わらないように見える。
「いっそ見切りをつけられては?」
「……出ていきたくてもいけないわよ。半身不随の夫を見捨てて出ていったら、なんて言われるか分からないじゃないの。これでも世間的には献身的な良妻賢母なの」
 諦めたように、占い師は切り出した。
「……今日は、どういったご用件で?」
「あの家を出たいの」
「以前と正反対ですね」
「自由になりたいのよ」
「何から?」
「何もかも」
「以前も申し上げましたが、それなりの代償を払う覚悟は?」
「あるわよ」
「今度は、おそらく前よりももっと大きなものになりますよ」
 暗に、今の事態は、かの願い故に引き起こされたのだと言ってみても、彼女はまるで意に介した様子はない。
「この状況から逃れられるなら、何だって良いわ」
「あまりお引き受けしたくはないのですが……分かりました。ただし、どんな代償を支払うことになるか分かりませんよ?」

「真詞、どうして引き受けたの」
 かずみは、眉間にしわを寄せている。
「ここの扉をくぐった以上、それも運命だし」
「結末は見えてる?」
「どのみち、このままじゃ、あの女、息子を虐待で殺すわよ」
 半身不随となった彼女の夫は、通いの家政婦の前では物わかりの良い顔を見せる影で、深夜でもかまわず、ことあるごとに彼女を呼びつけては、気に入らないと怒鳴りつけ、どうにか動く方の手で物を投げつけたりテーブルから食器を払い落としたりと、やりたい放題をしていた。そして彼女は、そのストレスを息子にぶつけていたのだ。
「あのまま、離婚していれば、慰謝料ももらえて、今頃、再婚も出来ていたでしょうにね。まあ、旦那名義の株とかは無事みたいだから、息子もあの母親から解放された方が幸せってものかもよ」
 かずみは、眉を顰めて深々と溜め息を吐いてみせると、店のドアにCLOSEの札をかけて、お茶の仕度を始めた。
(了)
2009.01.02


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