時のはざま


 暮らす場所は遠くなってしまうけれど、いつもそばにいると思ってね。
 卒業式を終えて、名残惜しみながらの別れ際、彼女はそういった。
 少女らしい、現実を知らぬ言葉だ。
 けれど、見知らぬ人々の中、新天地での生活で、その言葉が何度も折れそうになる心の支えだった。


 リビングは、早春の光に満たされていた。
 庭で風に揺れている洗濯物の影が、ゆらゆらとレースのカーテンに映っているのを、涼子の息子、翔は、さも不思議そうに見ている。
 二階の掃除のついでに、部屋の模様替えを思い立ったのはいいけれど、なかなかキリが付けられず、ふと翔は一人で何をしているのだろう、うたた寝でもしてやしないかと覗いてみれば、さっきまではどうやら子供向けの図鑑に夢中だったらしい。
 今年から小学生、ようやく、少しくらい目を離しても安心していられる。
 頑固なところはあったが、きちんと言い聞かせれば、いつまでもぐずる子供ではなく、幼稚園や近所の母親から聞く話からすると、比較的育てやすい子供のようだ。でもそれは、客観的な目から見ての場合で、やはり、生まれたばかりの頃は、一時ノイローゼになるかと思うほど大変だったし、風邪を引いたりお腹を壊したり、迷子になったり、幼稚園で友達と喧嘩したり……、楽だったとはとても言えない。
「おかーさん」
 涼子に気がついて、翔はにこりと笑う。
「もう少ししたら、おやつにしようね」
「うん!」
 午前中に、涼子がプリンを作っていたのを見ていたから、翔はその日のおやつをとても楽しみにしていたのだろう。でも、勝手に冷蔵庫を開けて食べたりは絶対にしない。
 翔の幼稚園の友達が何人か遊びに来た時、他人の家にもかかわらず、勝手に冷蔵庫を開ける子供がいた時には驚かされ、影響されやしないかと不安にもなったが、翔は翔なりに、行儀やルールというものを理解しているらしかった。
 しばらくすると、一人でいるのが寂しくなったのか、二階でごとごとと片づけを続けている涼子のところへやってきた。
「どうしたの」
 えへへ、と笑って「お手伝いする」と涼子の傍らにちょこんと座った。
「これ、なあに?」
「翔の小さい頃の写真や、お父さんとお母さんの、若い時の写真よ」
 なかなか片づかない理由はこれだった。
 この家に引っ越してきて以来、開けることもなく押入の奥に仕舞ってあった段ボールから、うっかり古いアルバムや整理していない写真を出してしまったのだ。こういうものは、ついつい見てしまって、手が止まってしまう。
 翔も、自分の知らない両親の姿が面白いらしく、目を輝かせてアルバムをめくりはじめていた。
 そういえば、あの写真、どこにやったのだろう。
 整理していない写真の束の中にあるはずの一枚が見つからないことに、涼子は小さな苛立ちを感じていた。
「この人、僕、会ったよ」
「え?」
 翔は無邪気な笑顔とともに、アルバムの台紙の中に挟まってしまっていたらしい一枚を手にして、涼子の方に向けた。さっきから無意識に探していたものだ。
「……人違いよ」
 即座に涼子は断言した。
「ううん、僕、会ったよ、この人に」
「そんなはず、ないのよ、翔」
 意識して、出来るだけ優しくその写真を翔の手から取り上げて、ポケットに仕舞うと、涼子は翔を抱きしめた。
「おやつにしようか」
 こっそりとエプロンのポケットに忍ばせた写真に映っていたのは、涼子と友人の日月(かづき)だった。高校を卒業したあと、ずいぶんと離れた土地で暮らすようになって、疎遠になっていた時期もあったが、涼子が結婚した翌年の秋、再会を兼ねて日月が遊びに来た時に撮ったものだ。
 普段とどことなく違う表情に気付いてか、翔はそれ以上、写真の人物について尋ねなかったし、イチゴと生クリームの添えられた、ちょっと豪華なプリンを前に、母親の見せた表情のかげりのことは、忘れてしまった。
 
 小学校に通うようになって、新しい友達も出来た頃、日差しが強くなって、影もすっかり濃くなった並木道を一人で歩いていた時のこと。
 あの人だ。
 翔は並木道の途中に置かれたベンチに座っている女性に気付いた。
 母と一緒に映っていた、あの女の人。
「こんにちは」
 知っている人には挨拶をすること。
 母の言葉の通り、翔は元気良く彼女に挨拶をした。
「こんにちは」
 言葉と共に笑顔が返ってきて、安心した翔は、思い切って尋ねてみた。
「あのね、お姉さん、お母さんのお友達?」
 軽く首を傾けて、彼女は微笑んだ。
「……早く帰りなさい。お母さんが待ちわびてるから」
「うん。さようなら」
 ぴょこん、と翔は身体を折り曲げるようにして別れの挨拶をすると、彼女もまた、子供相手に丁寧すぎるほどのお辞儀をして、「さよなら」と言った。
 一度目に翔が振り向いた時、彼女は軽く手を振って見送っていた。二度目に翔が振り向いた時には、もう、そこに姿は無かった。
 少し不思議な気はしたけれども、道の向こうに母親の姿を見つけて、翔は駆けだした。
 そのままの勢いで、飛びついてきた身体を涼子は受け止めた。
 こんなにもこの子は大きくなったのかと、感慨を覚えるのは、こんなふとした瞬間だ。
「翔、お出かけの支度、しなさい」
「どうしたの」
「静岡のおばあちゃんがね、倒れたの。お父さんとは駅で待ち合わせしてるから、さ、急いで」
 ほとんどの支度は既に整えられていて、翔は涼子の用意した一張羅に着替えるだけだった。帰りのラッシュの反対方向の電車に乗ったとはいえ、乗り換えのターミナル駅は、酷く混雑していて、翔は両手で涼子の手を握りしめていた。
 新幹線の改札口で、既に切符を買って用意していた涼子の夫、仁志が青ざめた顔で待っていた。
 正月に帰省した時には、うるさいくらいに世話を焼き、少なくとも体調の悪さなどみじんも感じさなかった。つい最近も翔の入学祝いを送ったからと、辟易するほどの長電話をしてきたばかりだというのに、その母が倒れたというのだから、それも当たり前のことだろう。
 新幹線に乗った後も、弁当をつつく箸は進まず、黙りこくっていた。普段、陽気でおしゃべり好きな男だけに、涼子は、軽々しい慰めを口にすることが出来なかった。
 常ならぬ様子に、翔も弁当を食べる間は神妙な顔で黙っていたのだが、やはりそこは年端もいかない子供、だんだん退屈になってきたのと、あの話の続きをしたかったのだろう、小さな声で涼子に話しかけた。
「あのね、今日、あの人に会ったよ」
「あの人?」
「前に、お母さんと一緒に写真に映ってた人」
「……似た人が近所にいるのかしらね」
「違うよ、だって、お母さんのお友達?って、僕、聞いたもん」
 ダメだわ。誰と勘違いをしているんだろう?
 涼子は、無理矢理笑みを顔に貼り付ける。
 一度言い出したら、この子は頑として曲げないんだから。
「どこで会ったの?」
「いつもの並木道。僕、ちゃんと挨拶したよ」
 誇らしげな様子に、涼子の表情も緩んだ。
「えらいわね」
「今度、遊びに来てくれるといいね」
「そうね……本当に」
 でも、それは、絶対に有り得ないことを、彼女は既に知っている。
 流れる窓の風景にはしゃいでいた翔も、やがて穏やかな寝息を立て始めた。

 幸いと言うべきか、涼子の義母は軽い脳梗塞で、多少の入院は必要だったが、日常生活を送るのに支障を来すような後遺症も残らずに済んだ。
 だが、それから三年後、義父の方が先に逝った。突然の事に、当初は酷く落ち込んでいた義母だったが、三回忌も済ませた頃には、すっかり一人暮らしの気楽さを満喫するようになっていた。東京に出ていた義弟が戻ってきて嫁をもらい、近所で暮らすようになったことで安心もしたのかもしれない。
 小学五年生になった翔は、サッカーに夢中になっていた。塾に通う子たちに比べると、やや劣る成績に不満を覚えはするが、だからといって、塾には行かないと言い張る翔からサッカーを取り上げてまで勉強をさせようと涼子には思えなかった。そのかわり、授業をしっかり受けること、宿題は絶対にやることは約束させていたし、翔もそこは生真面目に守っていた。細かなことを言えば、実のところ、私立の中学を目指す子供たちに比べて、やや劣るだけのことで、決して成績が悪いわけではなかった。それに、その年の子供にしては珍しく、マンガよりも本が好きで、最近は背伸びをして涼子の持っているミステリ本に挑戦している。
「翔、読書感想文は、その本で書かないでよ」
「えー、なんで?」
「学校の推薦図書ってあるでしょ」
「つまんないよ、それ」
 といわれても、ざっくざく人が殺される物語の感想文を提出された日には、担任教師から、何を読ませているのかと言われそうで恐い。とりあえず、友達から借りた課題図書を読んで書いたものを提出していたようで、胸をなで下ろしたのだが。
 主婦としてはありきたりかもしれないが、彼女の趣味のひとつは読書だ。仁志が四畳間を趣味のプラモデル作製及び保管用として占有しているように、彼女も居間に置かれた本棚ひとつ、まるまる占有していた。主に恋愛小説や、話題になった本、マンガで締められているのだが、そこにミステリがあるのは、友人の影響だった。もともとは血なまぐさい話など苦手だったが、そのバックボーンに広がる人間関係などの面白さを知ってからは、時折、手を伸ばすようになった。翔はミステリが酷くお気に入りで、週に一度は、涼子の許可を得て、新しい本に手を伸ばしている。

 中学二年になって、翔がひたすら不服なのは、自分よりも明らかに下手くそな上級生が試合に出ていることだった。夏の大会が三年生にとっては最後とはいえ、勝つ為には、学年に関係なく選手は選ぶべきだというのに。
 それに、あいつらは先輩面するばっかりで、真面目に練習してないじゃないか。
 くさる気持ちを母にぶつけられるほど、子供ではなくなっていたこともあって、日々、フラストレーションは溜まっていた。
「でもねぇ、そんなものなのよ」
 夕暮れ時、どうしようもなくむしゃくしゃして、何かに八つ当たりしたい衝動が抑えきれずに、並木道の樹木を思い切り蹴っていた翔に、彼女は言った。
「なんだよ」
 思わず、返す言葉が尖る。
 年に一度会うかどうかの、この女性の名を、翔は未だに知らない。母の友人らしいと、幼い頃に認識していて、こうして思いがけない時に遭遇するのも不思議にも感じなくなっていたが。
 でも。
 母の友人にしては、歳が、離れてる。
 そんな疑問がなくもない。
 涼子は、明るく溌剌とした性格もあってか、40歳そこそこにしては若々しく見えるとはいえ、彼女とは10歳以上離れていそうだ。
「蹴られる木も可哀想だけれど、あなたも足、痛めてしまうよ」
「うるさいな」
「目的と、目標と、欲望を間違えちゃだめだよ」
「うるさいなったら!」
「サッカーをしている目的は何? 将来プロのサッカー選手になりたいの?」
「分からないよ、そんな先のこと!」
「そんな分からない事の為に、足を痛めるのはばかげてる。自分の身体なんだから、大切にしなさい」
「自分の身体なんだから、どうでもいいだろ!」
 不意に、彼女の表情がきつくなった。
「違うでしょう」
 だいぶ背が伸びたとはいえ、まだ彼女の視線は翔よりも高い。鋭い視線に射すくめられて、否定の言葉を飲み込んだ。決まり悪げに視線を逸らすと、足がずきずきと痛みだして、高ぶった気持ちが落ち着いてきた。それが見て取れたのか、彼女の表情も柔らぐ。
「大切に育てられたことを忘れちゃいけない。本当は、分かっているでしょう?」
 翔は、かすかに頷いた。
「ま、私の自慢の友人が母親なんだから、大事にされてて当たり前なんだけどね」
 冗談めかしたような、それでいて、何も問わせない空気があった。
「……もちろん、完璧な人間でも完璧な母親でもないだろうけど、でも、あの人を母親に持ったことは、ものすごい幸運なことなのよ」
 彼女は微笑い、軽く手を挙げると、きびすを返した。
 振り返らないことを、翔は既に知っている。

 翔は翔で本を選ぶようになり、自分の部屋の本棚には、涼子の知らぬ本が並んでいる。それでも、親子で趣味を共有できるというのは、やたらと個人化の進んだもろい家族が増えている時代には、珍しいことかも知れない。好みは似ていても、やはり別の人間同士、二人の本棚に同じ本が並ぶことはめったにない。最近、翔の興味は音楽に傾いているようで、本を買う代わりにパソコンに相当数ダウンロードしているようだった。
 軽くノックした後、
「翔、入るわよ」
 返事も待たずに涼子は翔の部屋に入る。
 自分の部屋は自分で掃除するようになってからは、一応、声を掛けないと、翔は嫌な顔をする。もちろん、まだ親のすねをかじっている自覚はあるらしく、あからさまな文句は言わない。その辺は、妙に自覚のある子だと涼子は感心している。
「何?」
 宿題の手を止めて、翔は振り返った。
「これ。やっと読み終わったから返そうと思って忘れてたわ」
「母さんに貸してたんだっけ」
「探してた?」
「そういうわけでもないけど」
 海外ミステリーの文庫を受け取って、それで用事は済んだとばかりに、翔は机に向かった。
 少し、話がしたいなと思うが、テリトリーの中にいる翔は、どこか頑なだ。でも、家にいる時、自室にこもりっぱなしというわけでもなく、ゴールデンタイムのテレビを一緒に楽しんだりもしているから、さほど気にはしていなかった。
「お母さん、もう寝るけど、翔、あんまり夜更かししないようにね」
「分かってる」
 そんなやりとりもいつものことだ。

 部活動を引退してしまうと、次にやって来るのは高校受験だ。翔は、上の下くらいの成績は維持しているものの、それから一生懸命勉強に打ち込んだとしても、誰もが本腰を入れて勉強をし始めているわけで、そうそう成績に成果は現れない。現に、九月の実力テストは、自分でも顔をしかめていた。
 父は文系、母は理系。そのせいか、翔は教科による成績のむらはほとんど無かった。好みでいえば、理科と国語だが、暗記物も得意だったから、歴史や英語でもあまり困っていない。
 正月も返上で受験勉強に勤しんだ甲斐もあって、どうにか希望の高校に補欠合格という形で滑り込んだ。滑り止めの高校の受験会場で拾ったらしいインフルエンザの病み明けにしては、上々の結果と言えよう。

「は?」
 彼女のそんなとぼけた言葉と表情を見たのは、初めてだった。
 高校二年の秋。
 気がつけば、彼女の背を追い越していた。
「……うーん」
 いつになく、滑舌が悪く、彼女は黙り込んでしまった。
 難しい質問をしたわけではない。
 好きな人はいますか。
 そんな質問で、正直、そこまで悩まれると、悪いことを聞いてしまったような気がしてくる。
「いた、よ。うん。過去形になるけど」
 並木道の古びたベンチで、こうして話すのは何度目になるだろう。
 少し哀しげにも見える微笑を見ながら、翔はふと思う。
 夕陽に何もかもを赤く染め上げられた景色は、日常からすこし離れていて、未だ正体の知れぬ彼女の存在も、曖昧なままで許されている。そんな気がした。
「……彼女とケンカでもした?」
 わざとらしく意地悪な口調で問われて、翔は顔を顰めた。
「つーか、時々、うざったい」
「おー、いっちょまえに、うざったい、か」
「やたらケイタイにメール入れてくるし、どこにいるんだとか何してるんだとか……」
 翔は、眉間にしわを寄せて、どかりとベンチに背を預け、足を投げ出した。
 友人に話したところで、逆に羨ましがられからかわれるのがオチ、両親に話すには照れくさい。いろんな意味で、彼女はちょうど良い立場だった。
「まあ、独占欲とか猜疑心が強いのは、この歳の女の子の特徴だからねぇ」
「だからって、限度ってものがあると思うんすよ」
「正直に話すしかないかもね。納得するかどうかはともかく」
「……結構、恐いっすよ、それ」
「あはは。何言われるか分かんないもんね」
 告られて、なんとなく付き合ってみた。明るくて積極的な少女との付き合いは、割合に楽しく、親密にもなってきていたのだが、それに比例するかのように、四六時中、翔のことを知っていないと気が済まないかのようになってきて、気持ちが冷めてしまっていた。
「愛情ってねぇ、難しいんだよ。君みたいに、バランスのとれた愛情で育てられていると、意外に分からないのかもね」
「なんですか、それ」
「いつかわかるよ」
 口の端を軽く上げた笑み。それは、それ以上は語らないという無言の合図でもある。
 ぴるるっ、とケイタイにしてはシンプルな呼び出し音が響いた。
「うわ、まただ」
「彼女からメール?」
「……俺、冷たいのかもしんないけど、理解できないんすよ、こういうの。例えばですよ、母が、俺や父の帰りが遅い時に、なにしてたのよ、って怒るとかいうのは理屈でなく分かるんです。でも、なんていうのかなぁ、たかが、っていったらおかしいけど、ちょっと特別な友人みたいな相手に、四六時中監視されてるみたいなのって、なんか、変ですよ」
「変だと思わないのが、女の子の精神構造なんだな」
 澄ましたな口調で彼女は言った。
「……やめてくださいよ、それ。恐すぎる」
「もちろん、女の子全部が、ってことじゃないけど、心配なんでしょ。いろいろと」
「何が?」
「そうだねぇ、君との付き合いそのものより、友達が彼氏とうまくいっていないと、自分もいつそうなるか分からなくて、不安になる、とか、逆に、友達が彼氏とうまくいってると、自分が何となく負けてるような気がしたりね。成績が悪ければ、将来どうしようとか、女の子なら、将来性のある男をつかまえなくちゃとかいう打算とか、ま、いろいろ」
「……わけ、わっかんねぇ」
「17歳の少年ごときに、女の子との事が分かる方がおかしいから、安心しなさい」
「あー、もう、めんどくせぇ」
 翔は頭を抱えて、自分の膝に突っ伏した。

 結局、翔は正直に、彼女からのメールを束縛と感じることを話した結果、涙ながらに別れを告げられた。泣かれたことには後味の悪さを感じたものの、それでも、心底ほっとしていた。
 しばらくは、こんな付き合いはこりごりだと思った。
 その年の正月の大掃除は、涼子がやたらと張り切ったので、いつもの窓ガラスの磨き上げから廊下や階段のワックスがけなどの他にも、家具を動かして、その裏までも掃除し、押入の中のほこりまでたたき出した。そんなときにひょっこり段ボールから出てくるのは、大抵アルバムだというのは、お約束だ。
「これって、母さんの高校の卒業アルバムだよね?」
「そんなところに入ってた?」
「見ていい?」
「いいけど、面白くないわよ」
 CD-ROMの添付もなく、大して凝ったところのない、シンプルなアルバムだった。
 すぐに母の顔を見つけて、ちらりと今の彼女と見比べる。
 確かに、二十数年を経てはいたが、そのころの溌剌とした雰囲気はそのままだった。ちょっとはにかんだ笑みを浮かべた写真の下には、もちろん旧姓で「原田涼子」とある。
 そして、ページをめくり、もう一人、彼女の姿も見つけた。
 拗ねているような、むっつりとした表情だった。写真の下には「野村日月」とある。
 彼女を見かけた、どころか、いろんな話をしていることを、翔は涼子に告げていなかった。
 ……本当に、別人、なんだろうか。ただの、他人の空似?
 今の母と、彼女が、同い年には……見えない。
「ほら、そろそろ仕舞いなさいよ。いつまでたっても片づかないでしょ」
 促されて、翔はアルバムを閉じた。

 雪が、降る。
 冬の終わりを名残惜しむかのように、雪が降った。
 黒のロングコートを来て、彼女は並木道に立っていた。
「あなたは、野村日月さん、ですか」
 彼女は、答えない。
「あなたは、誰なんですか?」
 彼女は、わずかに表情をゆがめる。
 微笑っているのに、泣きそうな、そんな顔だ。
「日月さん……?」
 彼女の名を、彼は、呼んだ。
「さよなら」
 彼女は、告げた。
 その姿が揺らぐ。
 季節外れの陽炎のように。
 そして、春の雪のように消えた。

 夢の時間が、終わった。
 自分が誰なのか。
 それを固定さえされなければ、もうしばらくは、時の間を漂っていられたのに。
 まるで、シュレーディンガーのネコ。
 観察され、確定されるまでは、存在は曖昧なまま。
 あの子は、言った。
「あなたは、野村日月さんですか」
 夢の時間は、おしまい。
 せめて、最後に。

 雪のように、桜が散る。
 自宅からほんの数分歩いただけのところにある川沿いは、見事な桜並木になっている。花粉症が酷くて、休日は外に出たがらない夫を残して、彼女はゆっくりと桜の木の下を歩く。
 高校の近くにも、あったな、こんな桜並木。
 風が吹く度に、はらはらと花びらが舞う。
「涼子さん」
 不意に呼ばれて、彼女は立ち止まった。
 随分長いこと、名前を呼ばれたことなどないのに。奥さん、お母さん、そんな呼び方をされることに、慣れてしまっていた。
 そこに立っていたのは、二十代半ばの女だった。懐かしい、けれど、そこに居るわけが、二度と会えるはずのない、友人の姿だった。
 亡霊かと恐れながらも、その名が口から零れ出た。
「……日月?」
「覚えていて、くれた?」
 嬉しそうに、彼女は微笑った。
「覚えてるも何も……」
 忘れることなど、できない。
「翔くん、立派になったねぇ。さすが、涼子さんの息子だ」
「本当に……、翔が小さい頃、日月に会ったって……本当に……、でも……」
 最後に会った頃と、姿が、まるで変わっていない。
「声が、したんだ。時のはざまで不確定な存在としてなら、まだここにいられるって。だから、それなら、いつでもそばにいるよって言葉、嘘にしないですむかなって」
「よく、わからないよ……」
「うん。私にもよく分からない。でも、私が私って存在として固定されたら、もう、時のはざまにはいられない。だから、会いに来た」
「え?」 
「さよならを、言いに来たの」
「日月?」
「涼子さんに会わなかったのは、消えてしまう時間を少しでも引き延ばしたかったの。翔くんと会うのだって、危なかったけれど、楽しかったよ。涼子さんが素敵なお母さんになってることを知ることが出来て」
「何よ、それ」
「……涼子さんと、同じ時を、歩みたかった。でも、別れはいつか来るんだよ。だから、悲しまないでね」
 日月は、呆然と立ちつくす涼子をふわりと抱きしめると、耳元でささやいた。
「涼子さんが幸せであることを祈ってる。ずっと、祈ってる」
 あの日、交通事故の被害者となった彼女の訃報を聞いても、墓前に手を合わせたときも流れることの無かった涙が、溢れて、視界がゆがむ。
 日月の身体は暖かくて、確かにそこに居た。
 おそるおそる、腕を彼女の身体に回す。確かな体温を感じたのもつかの間、急に感覚が心許なくなる。
 あわてて、腕に力を入れても、そのまま腕の中の空間が縮まってしまうばかり。
 風が、吹き抜ける。
 腕の中には、もう、誰もいない。
 ああ、でも。
 確かに、彼女はそばにいる。

「母さん?」
 翔の声に振り返る。
 母親の泣き顔に驚いたようだ。
「どうしたの」
「……今、友達とお別れを、したの」
 言葉と同時に、さらに涙を溢れさせた涼子の目元を、タオルハンカチで拭いながら、翔は言った。
「日月さんと?」
 本当に、彼女は息子と会っていたのだ。
 ならば、共に彼女を懐かしむことも出来よう。
 涼子は頷く。
 鼻をすすりながら、
「そろそろお父さん、お腹空かしてるかしらね」
 そう言うと、
「昼飯昼飯ってさっきからうるさいよ。ほんっとなんにも出来ない人だよね」
 だから、母さんを捜して来るって、出てきたんだ。
 翔は苦笑して肩を竦めた。
「ほんとにもう、あの人は……。携帯に電話くれれば良いのに」
「その携帯を忘れて散歩に出たの、母さんでしょ」
「そうだっけ」
 一緒に笑いながら最後の涙を拭う。
「お昼、なんにしようか」
「残り物のチャーハンで良いんじゃない? 俺作ろうか」
「あら、いいわね」
 幸せだわ。
 幸せよ、日月。
 息子と肩を並べて並木道を歩く。
 一陣の風に舞う花びらを見上げて、涼子は微笑み。
 そして、家路についた。
 
(了)
2012.08.21


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