※社会的にやってはいけない描写がございますので、念の為に社R15とさせて頂きます。
 女はぼんやりと、公園を歩いていた。
 散歩と言えば聞こえはいいが、何をする気にもならず、ただ彷徨っていただけのことだ。
 季節は、ちょうど新緑が深く色付き始める頃。
 霞んだ水色の空が広がる時期を終えて、澄んだ青が満ちていた。
 不意に。
「ママ!」
 甲高い声とともに、足に抱きついていた子供がいた。
 歳は五、六歳だろうか。
 あまりにも有名な名門幼稚園の制服を着ている。
 違うとわざわざ言わなくても、顔を見れば、己の間違いくらいすぐ分かるだろうと、無言のままその子供の顔を見つめた。
 が、子供は「ママ、ママ!」と叫びながら一層強く足にしがみつき、離れようとしない。
 しばらく騒がせておけば気が済むかと思ったが、次第に周囲の目が気になった。
 あんなに必死にしがみついている子に、なんて冷たい態度だろう。
 そんな非難の目がちらちらと向けられる。
 このくらいの子供を持つ母親にしては若過ぎるうえに、この子供が着ているのは、庶民には縁のない私立幼稚園の制服で、女が着ているのは量販店で安売りされているジーンズとシャツだ。とても釣り合わない。
 もしかすると、母親の代わりに甘えられているお手伝いさんに見られているんだろうか。
 そんなことを思いながら、
「あんたのママじゃない。離れて」
 そうは言ったものの、肝心の子供が聞いていない。
 どうしたものかと途方に暮れていると、
「坊ちゃん!」
 スーツ姿の男が二人、現れた。
 イメージ的には、社長を捜している有能な秘書とボディガードだ。
 細いつや消しシルバーのフレームの印象ばかりもあるまい、理知的で怜悧な雰囲気の男と、無表情でスーツの上からでも体格の良さが分かる男の対比は鮮やかで、その割には目を引かないのが不思議だった。
「お探ししました。さ、帰りましょう」
「やだ!」
「智司さま、どうか我が儘はこのくらいになさってください」
「やだやだやだーー!!」
 子供は一層甲高く叫び、女の足を意地でも離すものかとばかりにしがみついた。
「ママ、ママ、ママーっ!!」
 聞き分け悪く騒ぐ子供に、小さな溜め息を零すと、男のひとりが女に向き直った。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
 先にそう言えよ、と女は思う。いや、謝るより先に、この煩いガキをひっぺがしてくれないだろうか。
「少し、お時間をいただけないでしょうか。ひとまず屋敷にお連れする手伝いをお願いしたいのです」
「別に構わないけど、甘やかすと後が大変じゃないの?」
「……それは、わたくしどもの仕事ではございませんし、普段はこのような駄々を捏ねる方ではないのです」
「ふうん。で、どうすればいいの? 子供の扱いなんて知らない」
「一緒に来て頂ければ、それで結構です」
 そういうと、男は子供の脇にかがみ込んだ。
「この方も一緒に来て下さいます。さ、坊ちゃん」
 子供はぴたりと騒ぐのを止め、頷く。
 なんだ、このガキ、ちゃんとわかってるんじゃないか。
 分かっていて、ひととき、自分をママに仕立てるつもりらしいことを悟って、女は、苦笑した。
 こんな狡さを、自分も欲しかったと、女は思う。
 子供の手に引かれて、公園を抜けた先には紺のBMWが止まっていた。
 当然のように男がドアを開ける。
「ママ、早くっ!」
 革張りのシートにスモークガラス。
 一体どこのセレブさまなんだかと、女は肩を竦めて子供に続いて車に乗り込んだ。
 べったりと甘えたな子供そのものになりきって、智司は女に身をすり寄せる。
 いや、実際、子供なのだが。
 けれど、見上げるその目には、既に大人顔負けの狡猾さが潜んでいた。
 変な子供に捕まったな、とは思う。けれど、まあ、成り行きにまかせようと、女は窓の外に流れる風景を見遣った。
 付いた先は、やたらと立派な門構えで、はっきり言えば気後れしてしまうほどの日本家屋だった。
 わざわざ男二人が付き添うくらいだ。
 それなりの家柄だろうとは思っていたが、格式まで伴っているいうのは、女にとっては想定外だった。
 しかも。
 少し嫌な予感がした。

 やたら立派な玄関から、磨き上げられた廊下を通って奥の座敷に通されると、女は人知れず溜め息を吐いた。
 床の間には季節の花が生けられ、立派な掛け軸が掛かっている。置き時計も何やら重厚感が漂い、酷く場違いなところに放り込まれた気がする。
 着替えの為に智司は別の部屋へ行った。
 正直、子守りなんか不得手どころか、積極的に嫌いだ。関わり合いたくもなかった。ただ、どうせ何もすることもないし、しょうがないか、という、ちょっとした気紛れだった。
 出されたお茶と柏餅を遠慮なく頂きながら、縁側の向こうを見遣る。
 やたらと立派な庭園。さぞかし手間と金が掛かっていることだろうと、酷く現実的な感想を抱きつつ、女は自分が生まれ育った家を思い出す。
 祖父が丹誠込めて造り上げた庭があった小さな家は、もう失われて久しい。
「ママ!」
 幼稚園の制服から、Tシャツと半ズボンという格好に着替えた智司が、部屋に駆け込んで来た。遅れて、先ほどの男二人も続いた。
 女にべったりとすがる智司は、久しぶりの再会を喜んで、甘えたくる子供そのものだ。勝手に女の膝を枕にしてころりと横になって、ご満悦な顔をしていると、実に無邪気に見える。
「ご挨拶が遅れました。わたくしは森園と申します。こちらは堀江。この度はご面倒をお掛けいたしました」
 丁寧に頭まで下げられて、女はたじろいだ。
「いえ……どうせ、暇でしたし、別に何かしたわけでもないですし」
 現に、まとわりついて来る子供に、愛想の欠片すら見せていない。それどころか、疎ましげな顔はあからさますぎるくらいだ。邪険に振り払わないだけマシにしろ。
「智司さまがこれほど懐かれるのは、本当に珍しいことなのです。これまでも、何度か世話係を雇ったことはあるのですが……」
 ああ、可愛い顔した子供のくせに、すでにえげつない性格してそうだし。
 そんなことを内心思いながら、自分の膝を枕にしている智司を、女はちらと見下ろした。
「大変不躾なお願いではあるのですが、しばらく、智司さまの相手をして頂けないでしょうか?」
「今日一日くらいならかまわないです」
「いえ、そうではなく、ある程度の期間ということで」
 森園の申し出に、女は眉を顰めた。
 ある程度とはまた曖昧な言い方だ。端的に言うならば、智司が飽きるまで、ということなのだろう。
「それなりのものは用意させて頂きますし、出来る限りのフォローもお約束します」
 何も、こんな得体の知れない人間に、そんなことを頼まなくてもいいだろうに。
 教養と専門知識をもった者を雇うべきではと、ありきたりな断り文句を女が口にする前に、
「智司さまたっての願いなのです」
 森園は先んじた。
「まだ母親を亡くして半年ほど、お寂しい気持ちをお察し下さい」
 そんなこと、知ったこっちゃないけど。
 どうせ、何もないし。
 そう、彼女には、何もない。
 少なくとも、彼女自身はそう思っていた。
 膝元で、智司はじっと女を見上げている。
 売れっ子の子役タレントも顔負けな、哀れみを催させるような悲壮な顔をして。
「……子供の扱い方なんて知らないし、教養もない、特技のひとつもないけど、それでいいなら」
「ありがとうございます」
 そう言った森園の安堵した様子は、どうやら振りだけではないようだった。
 堅苦しかった空気が僅かに和らいで、口許には愛想ばかりでない笑みが微かに浮かんでいる。
「で、どうしたらいいの? 幼稚園の送り迎えとかすればいいの?」
「いえ、それは結構です。そうですね、ます、食事のお相手をお願いします」
「はあ」
「あとは、智司さまの望まれる時に、そばいて頂ければ」
「……そばに、って」
「こちらの離れに部屋を用意させて頂きますので、さほど不便はないかと」
「ここに住み込みってこと?」
「はい」
 あっさりと言い切られて、逆に女は諦めた。蜘蛛の巣に掛かった蝶みたいなものだ。足掻いたところで仕方がない。
「……いつまで?」
「智司さまの、お気の済むまでになります。御心配なく。雇用契約は月単位で保障させていただきますので」
 つまり、智司が三日で飽きたとしても、一ヶ月分の給料は支払うということらしい。
 だからといって、並の神経を持っていたら、普通は速攻、断るべきだろう。けれど、森園は断られるとは微塵も思わぬ様子で、また女の方も断るつもりはなかった。
「いつから?」
「今日、ただいまからお願いいたします」
「……少し時間もらえる? ここで寝泊まりするにしても、準備したいし」
「衣食住に関しては、全てこちらで用意いたします」
「それって、ここから出るなってこと?」
 にこりと、それこそ出来のいい生徒を褒める教師のように、森園は微笑った。
 やっぱりな。
 女は、わざとらしい溜め息を吐いて見せた。
 なんとなく、雰囲気で分かってはいたのだ。
 ここは、ある意味、一般人が足を踏み入れて良い場所ではないことを。

 夕飯に、智司がお気に入りだという、きのこがたっぷり入ったデミグラスソースをかけたハンバーグを食べた後、これから寝泊まりするという部屋に案内されて、女はやや、固まっていた。
 そこは、母屋とは渡り廊下で繋がった離れだった。それだけで、四人家族が暮らせるだけの広さと設備が整っている。システムキッチンに、ジャグジーまでついたバスルームと、至れり尽くせりだが、どちらにもさほど関心のない女にとっては、あまり意味もないかと思われた。
 最初の日こそ、客用の布団が用意されたが、翌日には随分と寝心地の良いセミダブルのベッドと、新品の寝具一式が運び込まれた。それから、少なくとも女が普段来ているような量販店のものではなさそうな衣類が、作り付けのクローゼット一杯に詰め込まれた。パソコンや書棚までが設えられて、客間ではなく、女の私室の体裁が整えられたのである。
 しかし、そんな厚遇とは対照的に、女の仕事は、あってなきが如しだ。
 基本的に、朝食と夕食は智司と一緒にとる。
 幼稚園に向かう智司を見送った後、することがないのだ。だから、与えられた離れの掃除を念入りにしたり、気を利かせてくれているのか、森園が薦めてくれるミステリ小説を読んだりして過ごした。昼食も用意してくれるというのは断った。
 料理は嫌いだが、あまりにまともな食事が、かえって落ち着かなかったからだ。
 栄養補助食品のまとめ買いを頼んだ時は、さすがの森園も、何とも言えない、少なくとも有能秘書にしか見えない男には相応しからぬ間の抜けた顔をした。

 夕方になって、幼稚園から帰って来る智司を出迎えて、ようやく仕事らしい仕事を、と思えば、幼稚園児のくせに、習い事だのなんだので、結局女の出る幕などない。
 智司が女を家に連れ帰って来た日は、偶々、英会話の教師が酷い風邪を引いて休みになったのだという。そして、隙を見て、車が信号待ちをしている時に外へ飛び出したらしい。
 あれほど執着を見せた割には、そこに女がいるという事実さえあれば安心するのか、空いた時間に甘えて来ることはあるものの、智司が我が儘を言って周囲を困らせたりすることはなかった。夜も、寝付くまで一緒にいて欲しいと乞われることはあっても、日付が変わるような時間まで振り回されることはない。
 だから、女の仕事は、主に智司の食事時間を挟んだ数時間の、他愛無い話相手だけとなってしまっていた。
 いったいここで何をしているんだろう?
 この屋敷から出る事は、智司のお供でもなければ出来ない。
 それが、一体いつまで続くのだろう?
 たかが歩いて数分のコンビニまですら出られない。
「不自由をお掛けして申し訳ありません」
 森園は度々そう言った。
「もうしばらくのことですので御辛抱下さい」
「もうしばらく?」
「はい」
 森園の微笑は、それ以上の追求を許さない。
「じゃあ、もうしばらくしたら、その辺を散歩したりとか出来るの?」
「はい」
 本当のところ、そこまで外出したいわけではない。
 むしろ、何もかもが用意されている環境は有り難いくらいだ。
 閉塞感に苛まれてもいない。
 いっそ、このまま朽ちてしまえればとさえ思っていた。
 契約書を交わしたわけでもなく、報酬だって結局どのくらいかなんて分からなが、一日にほんの数時間、智司の相手をしただけで、衣食住が満たされているという状況に、女は文句を言う気はなかった。
 どうせ何もかもどうでもいいと思っていた彼女にとっては、極上の牢獄だった。

 その晩は、満月だった。
 寝付かれず、寝間着姿で庭に出た。
 何処からか花の薫りがする。
 風にも、もう冷たさはなく、カーディガン一枚はおるだけで、寒さは感じない。
 存分に月光を浴びていた。
 昼間の太陽より、余程優しく、慕わしい光。
 それが、太陽の反射光でしかないことを知ってはいても。
 静寂の中の、心地良い時間は、不意に破られた。
「誰だ、お前」
 声に振り返れば、そこにいたのは、見知らぬ男だった。
 スーツ姿で、森園よりも数センチは身長がありそうな、大柄な男だった。
「まあ、いい」
 男はそういうと、女の腕を掴んだ。
 強い力に抗えず、そのまま和室の方へと引き摺られて行き、畳の上に放られた。
 身を起こす前にのしかかられれば、嫌でもこれから起こることに予測がつくというものだ。
 寝間着の合わせを左右に開かれて、さほど豊かでもない胸が露になった。
 寒さからではない震えが、全身に走る。
「い、……っ」
「黙れ」
 怒鳴ったわけではないが、恫喝というには充分な声音だった。 
 両手首を一つにまとめて頭上で押さえ付けられ、足の間に身体を入れられては、逃れようにも身体の自由はきかない。
 男は嵐のように去っていった。
 どれほど時間が経ったのか、女が我に返った時には、満月は西の空に傾いていた。
 すっかり冷えている身体を起こそうとして、女は思い切り顔をしかめた。
 ぬるりと、内股を汚すものには赤い色も混じっている。
 先刻に比べれば遥かにましだが、下腹部を支配する鈍い痛みは軽くはない。
 誰だという問いに、自分の方が問い返したかったところだが、見当がついていた。
 この屋敷の、こんな奥に来て、傍若無人な振る舞いが許されるのは、この屋敷の主としか思えない。
 適当に身じまいを整えてから、離れに戻ってシャワーを浴びた。
 丁寧に洗い流してしまえば、身体の奥に凝る痛み以外は何も残りはしなかった。

 翌朝、いつものように智司と朝食をとり、見送った後、不意に喉に込み上げるものを感じて、あわてて手洗いに駆け込んで吐いた。
 それなりに昨夜のことはショックだったのかと、気付く。
 自分の鈍さに、昏い笑いが込み上げてきた。
 智司を幼稚園に送り届けて戻って来た森園が、お話がありますと離れを訪れたのは、女が洗濯を終えて、怠さの残る身体をソファに投げ出したところだった。
「こちらの事情は片付きましたので、智司さまのご帰宅までは、自由になさって頂いて結構です。お出かけになりたい時は、一言、おっしゃって下さい。それと、主が帰って参りましたので、今夜、正式に契約書を交わすことになりますが、よろしいですか?」
 いいも悪いもない。
 生殺与奪は握られているようなもので。
 女は、ただ、頷いた。

 その晩、夕食時には智司と女以外に、もうひとり加わった。
 昨夜の男だった。
 久しぶりの父親の同席だというのに、智司は特に喜ぶでもなく、いつもの通りにとりとめのない、幼稚園であったことや今日の習い事のことなどを話した。
 女はそれに、適当な相槌を打ちながら、智司がニンジンだのピーマンだのをこっそり残そうとしていることをやんわりと指摘する。
 随分と子供じみた手段で彼女をここへ連れて来たくせに、子供じみた真似を指摘されることを、彼は極端に嫌う。いや、それもまた彼のあそびのひとつだ。
 わざと子供らしいことをしでかして、それを指摘されるのを嫌がる生意気な子供を、彼は楽しんで演じているらしい。
 面倒くさい子供だが、その程度のことにつき合うのはやぶさかでもない。
 食事が終わり、いつもなら居間で智司の話し相手をもう少ししてから、離れに引っ込むのだが、その日は、食後すぐに和室へ移動した。
「さて、こちらが、わたくしどもの作成した契約書になります」
 森園は、A4サイズの用紙を一枚、卓上に滑らせた。
「業務内容は、家事全般ということになっておりますが、建前ということでご了承下さい。それと、給与に関してですが……」
「言い値でいい」
 いきなり、男は口を開いた。
 きちんと向かい合ってみれば、男は端正な顔立ちをしていた。少なくとも、いきなり暴挙に及ばなくても、女には不自由しないだろう。そんな雰囲気も持っている。
「日給一万円あると有り難いかな」
 実質の労働時間はともかく、丸一日拘束されているような状態だし、と、ふっかけるつもりで提示すると、
「ご冗談を。それでは割に合いますまい」
 森園は慌てたようにそう言った。
 要求が高過ぎるという意味ではなかったらしい。
 どうしようか。
 ここにいる間は、衣食住には困らない。それどころか、これまで身につけたこともないブランドの洋服やら高級食材やら寝心地の良い羽布団やら、当たり前のように提供されて、給料をもらうのが申し訳ないくらいだ。
 ──それに、智司とであったあの日は。
 ほんのひと月足らずの過去なのに、不思議と遠い気がした。
 正面にいる男は、真っ直ぐに女を見据え、答えを待っている。
 どんな要求でものんでやろうという傲慢さが垣間見えた。
 ならば。
「じゃあ……、あの子が私に飽きたら、殺して。ついでに遺体を始末してくれると有り難い」
 どうせ、心配して探すような身内などいない。
「待って下さい、そんな要求は」
 予想外の答えだったのだろう、腰を浮かせた森園を、男は片手で制すると、真正面から女を見据えて言いきった。
「いいだろう。智司がお前に飽いたら、殺してやる」
 約束は、確かに交わされた。



 初夏の風を通した和室で、木目の美しい桑の針箱を傍らに、女は背筋を伸ばして一心に縫い物をしていた。
 久しぶりに指ぬきをはめて、以前は苦もなく均等に縫えたはずの縫い目が、最初の日は、いっそ面白いくらい不揃いに歪んだ。
 幾度も縫い直しを繰り返し、二日目とも成ると、運指のぎこちなさもようやく抜けた。
 中学生の頃に、浴衣の縫い方は祖母に教えてもらっていた。
 目が揃わねば容赦なく糸を引き抜くという手厳しさがのおかげで、時間は掛かったが、最初にしては見られるものに仕上がった。
 中途半端な田舎だと、浴衣を買う店は限られているから、似たり寄ったりの柄を纏う同級生に羨ましがられたものだ。
 少しでも個性的な物が欲しい。でも、面倒くさいのは嫌。
 そんな同級生たちに頼まれて何枚か縫ったけれども、女の祖母は生地と糸の代金以上の物は決して受け取ってはいけないと戒めた。それをして良いのは、その腕で生計を立てるようになってから。友人たちとの仲が大切なら、今は自分が縫い上げた物を着てもらえることを感謝しなさい、と。もっとも、夜祭りの屋台で、りんご飴をお礼代わりにおごってもらうことくらいは、目こぼししてくれてはいたのだが。
 彼女たちが羨むレトロな柄だったのは、祖母が母の為に買ったという浴衣の反物が残っていたからで、わざわざそんな物を出して来たのは、仕立て上がりの浴衣を買う余裕がなかったから、という思い出も、当時は複雑な気持ちだったが、今となっては懐かしい。
 無心に指を動かしていると、
「何をしている?」
 不意に声がして、うっかり針で指先を刺してしまった。
 赤い玉がぷつりと浮かぶ。
「浴衣を、縫っています」
 仮にも雇用主だ。言葉は丁寧だが、響きには苛立ちが混じった。
 藍色の地とはいえ、汚したくはない。
 ティッシュペーパーに伸ばしたその手を掴まれたかと思うと、指先は男の口に含まれていた。咄嗟に手を引こうにも、がっちりと掴む力は存外に強い。
 血を舐め取るにしては執拗に舌を絡めた後、ようやく男は手を離した。
 呆然としていると、
「なんでそんなもの、わざわざ縫っている?」
 ネクタイを緩めながら、どかりとあぐらをかいて男は疑問を投げかけた。
 ことの発端は、幼稚園の夏祭りには浴衣で参加するのが恒例だと知ったことだった。
 当然保護者もだ。
 森園に連れられていった呉服屋で、女は途方に暮れた。
 智司が身に付けるものは、どれほど高価であろうと構わないが、自分がとなると、一般庶民以下の金銭感覚の持ち主には、袖を通すのも憚られるような値のものばかり。かといって、安物を着て、智司が見くびられるようなことになっては困る。さて、どうしたものかと思ったところで、ふと反物が目に入ったのだった。
 とはいえ、それを正直に言うのもなんとなく憚られて、
「趣味、なので」
 あながち嘘でもないことを口にした。
「ほう」
 面白くもなさそうに、男は気の無い相槌を打つ。その割に、傍らにあるまだ手つかずの反物に視線が向けられている。
「指慣らしにこれが縫い終わったら、甚平を……」
「あれが強請ったか」
「こうして目の前で作られるものが面白いみたいで」
 店で反物を買った時から自分のも、とぐずぐず言っていたのだが、実際に反物に鋏が入れられ、印をつけ……という作業を見ているうちに、自分のも作ってくれなくては嫌だ、幼稚園にも行かない! とまで駄々を捏ねられたのだ。
 そんなことよりも、何故二反あるのかと問われないかと冷や冷やする。
 さっさと行ってくれないかなと思いながらも、男が立ち上がる様子はない。
「お茶でも淹れましょうか」
「いらん」
 返答はにべもない。
 幸いにも、血はもう止まっている。
 素知らぬふりで、女は再び針を手にしたが、側の気配が気になって運指はぎこちないままだ。縫い目も不揃いとなると、溜め息とともに両手が膝の上に落ちた。
「どうした」
「お茶淹れてきます」
 立ち上がりかけたところに、
「ただいまあ!」
 智司の元気な声が響いた。
 ぱたぱたと廊下を掛ける音がする。
「お帰りなさい」
 出迎えに向かうとき、肩越しに振り向くと、もう男の姿はなかった。


 近所の神社で行われる夏祭りに行きたいと智司がせがんだのは、そろそろ夏休みも終わろうかという頃だった。森園を始め、誰もがそれに首肯しかねていた。町内会向けのものにしては規模が大きく、毎年結構な賑わいになるのだ。
 一応、対立抗争は終結しているとはいえ、警戒を怠ることができる状況ではない。
 けれど、鶴の一声でそれは成った。
 周囲の人間の気苦労はいかばかりかといったところだが、それでも手縫いの浴衣を着た三人が、手を繋いで歩く姿は、男の仏頂面にも関わらず、穏やかで楽しげな親子に見えた。

 以来、智司は次から次へと女に強請るようになった。
 幼稚園で使うお道具入れや弁当袋など、それはささいなものではあったけれど、周囲は母親が愛情込めた手作りのものを持ってくる児童が多かった。
 自分の置かれた環境と立場を幼いなりに理解していたから、そういったものを智司は要求しなかっただけのこと、幼心に、羨む気持ちはずっと抑え込んできたのだろう。
 指先の器用さもあって、ハンドタオルやナフキンに刺繍で名前を入れたり、習い事用にキルトのバッグも作った。それらに向けられる同じクラスの児童やその母親の目に、智司は大変に優越感を感じているようだなどと森園から告げられて、胸の深い部分まで満たされたような気持になったことを、女は不思議に思った。
 季節は移ろい、上等なカシミアのマフラーよりも、モヘアの手編みマフラーを智司は好んで身につけた。春になる前に、手の込んだ模様のセーターを三着編んでいた。

 その充足感に、少しずつ、何かを取り戻しているように思えた。
 週の何度かは夕食の席に男がいるのが当たり前になり、智司と三人で過ごす休日さえあった。
 時には他愛ない話をして、下らないことで笑ったり、些細なことで口喧嘩したりと、穏やかな時間を共有し、それは日々の中に織り込まれてゆく。
 
 田舎でのんびりと暮らすことはくだらないと刷り込まれ、好きだったはずの裁縫も編み物も止めてしまっていた理由を思って、なんと馬鹿げていたことかと今更のように後悔した。
 いつまでも祖母の側にいるのは、ただ依存しているだけのことだ、都会に出て自立すべきだと親戚の口車に乗って田舎から出てきたものの、その親戚が経営する会社で、独善的な強権を振りかざされているうちに、いつの間にか自分の考え方も未来も生き方までも支配されてしまっていたのだろう。
 会社に、仕事に全てを捧げなければ、生き残れないのだといわれているうちに、私生活にまで口を出されるようになった。
 興味を持ったものには、必ずケチをつけられ、どれほど下らないものであるかとやり込められた。逆らえば、怒号を浴びせ、完全に萎縮させられ、その親戚に従うことだけが正しいことなのだと思うようになっていた。そんな中で一人暮らしをしていた祖母が倒れたことを、何かと世話になっていた近所の民生委員から連絡を受けたが、駆けつけたときにはもう、僅かな体温が残るばかりだった。
 ぽっくり逝ってくれて、孫孝行なばあさんだったなあとまで言われても、ああそうなのかと思い、大切に育ててくれた祖母に碌な恩返しもしないまま、ひとりで逝かせた罪悪感から逃げ出したことは、頑丈に閉じ込めておきたい過去だ。
 だからこそ、ただの都合のいい使用人のように使われていただけだと気付いた、正確にはやっと自覚して認めたのは、その親戚が破産して夜逃げをしてからのことだったのだ。
 給与は三ヶ月ほど滞っており、支払われていたはずの社会保険や雇用保険なども滞納されていた。
 故郷に帰ろうとして、育った家はその親戚の手によって売り払われていたことを知った。祖母から相続したはずの土地と家の名義が書き換えられていたのだ。法的に訴えることも出来たのだろうが、そんな気力など残ってはいなかった。
 頼れる友人もいなかった。
 自尊心だけはやたら高いその親戚は、女に、お前の友人関係など安っぽく下らないものだと繰り返していた。幼友達とは縁が切れ、上京してからはひとりの友人も出来ないという異常さに疑問が持てなかったのは、日々の忙しさに追われていたせいだ。後になって考えてみれば、親戚は女から搾取しやすいようそういう状況に追い込み、まともな知恵を与えられないように、予防線を張っていたのだろう。
 誰にも相談出来ないように、誰も頼れないように。
 そうして、重荷になった途端、捨て去った。
 自由になったのだと、気持ちを切り替えようと足掻いたものの、空の掌にただひたすら虚しくなってゆくばかりで、あの日、智司に出会わなければ、どうなっていたかは分からない。



 日々はゆったりと過ぎてゆく。
 智司は小学生になり、陰ながら警護の人間はついていたものの、割合自由な時間を過ごすようになった。
 送迎の者を撒いて友人を遊びに出掛けたときは、後から森園に小一時間こんこんと説教をされて懲りたようだが。
 実のところ、女がその家に連れて来られた当時は、対立する組織と緊張状態にあったのだという。それは最終的には流血を伴う解決を見たのだが、それ故に、家の主はその興奮のまま蛮行に及んだらしい。
 威圧的はところはあれど、平均より十センチほどは高いだろう身長に、鍛えられた体躯、精悍で鋭さが強いが整った顔立ちは、ふとした瞬間、やわらかな表情を見せる。
 経済力も文句のつけようなどないだろうし、限定的ではあるにせよ、嫁の来手などいくらでもありそうなものだ。智司も、あの年でこの計算高さはどうだろうと首をひねりたくはなるが、互いの立場を幼いながらに弁える賢さを持っているのだから、こんな教養もなく得体も知れない女など、さっさと追い出せばいいものを、と女は思う。
 あの男の横に並んでも劣ることなく、智司の母親に相応しい女となると、難しくはあるが、少なくとも、大抵の女は自分よりはマシだろう、と。
 離れの掃除を終えた頃、いつもなら、智司を学校へ送り届けた後、そのまま職場へ直行するはずの森園が戻って来た。
「これから一緒に来ていただきます」
 丁寧だが、有無を言わさぬ様子で、彼は女を連れ出した。
 行き先は、恐らくこんな奇妙な縁でもなければ、一生足を踏み入れることはなかっただろう、いわゆる一流ブランドのブティックだった。
 既に連絡が入っていたらしく、女に合わせたサイズのドレスをずらりと並べられて、着せ替え人形よろしく次々と試着させられた。
 最後に着た、光沢のある黒地にアラベスク模様のレースが重ねられたそれは、スクエアネックのクラシカルなデザインのものだった。
「やはりこれでしょうね」
「あの方のお見立てはいつも確かですわ」
 最後の一着を着た姿に、森園も店長と思しき女性も満足げに頷いた。
 つまり、最初から決まっていたようなものだったのに、とりあえず念の為にいろいろ着せてみただけのことだったらしい。
 あれよあれよという間に、髪は結い上げられ化粧が施された。シックなハイヒールを履かされて、辿り着いた場所は、彼女にしてみればシンデレラの城と大差なかった。海外からのvipが宿泊する定番の五つ星ホテルのバンケットルームだったのだから。
 専用のラウンジで待っていた男は、当たり前のように彼女をエスコートし、会場に入った。
 政財界の大物の喜寿の祝いという名目だが、会場内のあちこちで行われているのは、狐狸の化かし合いと狩りだ。男の傍らにいるだけで、どこからともなく、恨みがましい視線が投げられて、どうやらこの男は極上の獲物として認識されているのだなあという、場違いなほど暢気なものが、女の抱いた感想だった。
「遂に身を固められることにされましたか」
 などと頓珍漢な言葉は訂正されることなく、さりげなく腰に回された手が離れることもなければ、肯定したも同然だった。
 以来、半分眠っているような日常に変化を余儀なくされてしまった。
 定期的にエステサロンと美容院に通わされるようになり、さらにはマナー教室なるものにも放り込まれるに至ると、さすがに女もこんなことは契約にないと森園に訴えたが、当然通るはずもない。週に二度ほど帰ってくる男に直訴すれば、なにやら面白がるような目で一瞥されて、抵抗する気を失うに至ったのだった。



 翌年、智司の母の三回忌の法要が営まれた。
 一周忌は、余りに状況が慌ただしく、女の与り知らぬところでひっそり済まされたらしい。
 仏間に入ったことも無ければ、智司から母親のことを聞いたこともなかった為、想像以上に遠い人という気がした。
 果たして女が、智司の母と似ているのかと言えば、実のところ共通点はストレートの長い髪くらいのものだ。身長もスタイルも違えば顔立ちも似たところは欠片もない。
 見るからに正統な上流階級といった風情と、田舎の小娘という雰囲気の違いは、残された遺影からも一目瞭然だった。
 それなのに、どんな気紛れだか考えだかで、智司が女を「ママ」と呼び、強引にこの家にまで連れて来たのか、その真意は分からないし、尋ねるつもりもない。
 尋ねたところで、曖昧な返事に誤摩化されてしまうだろう。
 その母と、同じように大切な者として見なされているならば、それに応えようと、いつしかそう思っていた。



 そうして、約束が果たされたのは、七年後のこと、智司が小学校を卒業したときだった。
「これで、もうお前は死者だ」
 男は薄く笑い、座卓の上に書類を放った。
 そこにあるのは女の除籍謄本だ。
 同時に、男の戸籍謄本もあった。
 ふと、妻の欄に消去の印が無いことに気付く。
 見れば、入籍がつい最近だ。
「それが、お前の新しい名だ」
 くつくつと男は笑った。

 その時のことを振り返って、父に負けたと口惜しそうに智司が零すのは、それからまだ数年先のことである。 
 
(了)
2010.04.15/2014改


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