迷い子


 いつものように目が覚めたと思って、夕月は布団の中から目覚まし時計に手を伸ばした。
 まだ午前6時。
 傍らに温かなものを感じて、ようやく思い出した。
 安らかな顔をして眠る少年。
 昨晩、拾ったのだ。

 夜中の散歩、雨の日なら尚更、夕月は出かける。古い木造アパートからゆっくり歩くと三十分程かかる雑木林を利用した公園まで、ただ歩く。行って、帰ってくる。ただそれだけ。
 公園の中央に灯る外灯はほの暗い。そのくせ落ちる影は妙に深い。まだ作られてさほど経っていない四阿で、ほんの僅か休息をとる。霧雨が薄い光を乱反射しているさまは粉雪を思わせて、これからますます暑くなる季節を前にして、夕月は深いため息を付いた。
 これから寒くなるのなら良いのに。
 特に厳しかった冬でさえ、夏を前にすると懐かしいくらいだった。
 かたん。
 音ともとれぬ、かすかな気配だった。
 こんな時間にのんきに散歩なんかしていて、変質者に襲われたとしても、だれも同情などしないだろう。そんなことは分かっていた。けれど、自分に備わっている勘を彼女は信じていたし、それが自分を裏切ったこともなかった。
 そぼ降る雨の中に、踏み出して、夕月は四阿の床下を覗いた。
「……どうしたの」
 そう声を掛けるほかなかった。
 身体を丸めて横たわるその肩は、苦しげに震えているように見えた。
「救急車、呼ぼうか」
 ジーンズのポケットに小銭くらいなら入っていた。
「待って」
 かすれた声は、まだ子供のもの。
「待って、少し疲れてるだけだから」
 床下から這い出てきたのは、子供という時の殻を破り掛けた頃の、少年。
 幼さを残した面立ちに、似合わない薄笑いを貼り付けて。
「さっさと家に帰ったら? 風邪引くよ」
 夕月の言葉に、少年はかすかに顔を歪める。
「じゃあ、うち来る? ここよりはマシな寝床くらいは提供できるけど」
 こっくりと少年は頷いた。

 どうして、さっさと交番に連れて行かなかったんだろう。
 少年の寝顔を見ながら夕月は思う。
 公園のすぐそばに交番はあった。
 確かに面倒は御免だったが、連れて帰ってしまったら面倒は更に大きくなるまいか?
 カーテンの隙間からこぼれてくる光に、よく晴れてた一日になりそうだと思う。
 洗濯して掃除をして、それから……

 アパートに戻って一番最初にしたことは、少年を風呂に放り込むことだった。
 湿った土の上で寝ころんでいたせいだろう、頭の先からつま先まで、すっかり汚れていた。
 身体が冷える事を考えて、先に風呂の支度をしておいてよかったと思いながら、少年の着替えを探した。自身が女性にしては背が高めなこともあって、サイズ的には問題はなさそうだ。たださすがに下着まであるはずもなかったから、近くのコンビニまで出かけた。
 風呂から上がった少年が、用意したスエットとTシャツ姿になると、顔や腕に軽いながら傷まで負っているのが分かって、今度は救急箱を引っ張り出す羽目になった。
 ひと通り怪我の消毒を終え、ようやく落ち着いて紅茶を入れて一息ついて。
 マグカップを両の手で挟み込んでミルクティーをすする少年の姿は、すっかりくつろいでいるようだった。野良猫の方がまだ遠慮深そうだな、などと思いながら、別に腹立たしく感じているわけでもなく、何故かそこで少年がそうしていることが酷く当たり前のことのように、夕月は捉えていた。
 弟がいたら、こんな感じなのだろうか。
 夕月にとって、家族というのは想像し難い。
 高校に入学を控えた春休みに事故で両親を亡くし、ついでに思い出というに相応しい部分の記憶を粗方無くしてしまっていた。血縁と言えば、大叔父、父方の祖父の兄という人がいるにはいるのだが、会った事も話した事すらない。ただ、代理人として竹岡という弁護士が、両親を亡くした夕月に生活の援助をするということを告げに来ただけだ。
 そして、本来祖父が受け取るべきだった遺産だと言って、少なからぬ金額の入った預金通帳とアレクサンドライトと思しき石の付いた指輪が贈られた。アレクサンドライトと思しき、というのは、光によって色が変わるからであって、それが一体どういう鉱物なのかは夕月には分からなかったし、持ってきた竹岡も告げなかった。
 それを身に付けているのは、単にその指輪のデザインと石が気に入ったからであって、形見だからだとかではない。大叔父の名前と住所は教えてはくれたが、連絡は竹岡の名刺に記された事務所へするようにと言われ、そんな相手を信用するも何も無いが、夕月にとっては、どうでもいい事だった。

 半年に一度くらいは竹岡が様子を見に現れるが、大学進学と同時に上京してからは、毎月の生活費と毎年学費が振り込まれているという事だけが、互いのつながりのようなものになっている。
 少年が小さなあくびをした。
 既に午前二時を過ぎようとしていた。
「もう寝ようか」
 敷かれた布団が一組であることに、少年は怪訝に思ったようだった。
「いいよ。布団は君に譲るから」
 天袋から毛布を引っ張り出しながらそういった夕月に、少年は
「じゃあ一緒に寝よ?」
 と実に簡単に提案した。

 少年を起こさないようにそっと布団を出て、洗面台の前に立った。
 顔を洗い、髪に櫛を通す。鏡に映った自分の姿はいつもと変わらない。
 いささか不健康な顔色、僅かにクセのある黒髪。何処という特徴のない顔立ち。
 それなのに、見るたびにそれが自分の顔なのかどうか、疑わずにはいられない。
 ジーンズにTシャツという、いつもの格好。
 上着を羽織ってしまうと、線の細さが逆に性別を分からなくする。
 自宅のアルバムに残る姿は、リボンとレースとフリルをふんだんに使ったワンピースの似合う、いわゆるお嬢様というものに近い、少女の見本のような少女だ。
 おとなしくて控えめで繊細な感覚を持っていて、そしていつも優しそうな表情をしていたのだろうと思わせる。おそらくは慈愛に満ちた両親と可愛らしい娘。絵に描いたような幸福な家庭だったのだろう。
 だから、両親と共に自動車に乗って出かける途中事故に遭い、自分だけがほぼ無傷で生き残ってしまった事で生まれた罪悪感から心を護るために、記憶を封じてしまったのだろうともっともらしい理由を医者がつくったのだろうが、夕月自身がそれを信用はしていなかった。
 可愛い女の子のあるべき姿。
 その典型であった自らの姿を過去の写真の中に見る度、酷く嘘くさいものを感じるのだ。そうあって欲しいと願う両親の言葉が、目が、環境が、そうさせていただけではないだろうかと。
 そうでなくて、たかが記憶の何割かが失われたくらいで、アルバムの中に納められている自分とは似てもにつかない自分になりうるだろうか?
 洗濯機の中に無造作に洗濯物を放り込む。
 神経質なタチなら、色々分別して何度かに分けて洗うのだろうが、少なくとも気を遣って洗わねばならないような衣服は持っていなかったし、いちいちそんな手間を掛ける気は毛頭ない。
 ふたをして、スイッチを押しさえすれば三十分余りで勝手に洗い上げてくれるのを待つ間、ベランダに置いてある裏返しのバケツに腰掛けて、気に入りの曲を集めたmp3プレーヤーにつないだヘッドホンを付けて、読み差しの文庫本を開いた。
 
 ゆらゆらと意識が揺れて、ふっとぬるい水から浮かび上がったような感覚に、自分が目覚めた事に気が付いて、冬深はそっと目を開けた。揺れるカーテンの隙間から、気紛れに光が飛び込んでくる。むくりと身体を起こして見回した部屋は、まるでなじみがなかった。そもそも、知識では知っていても、畳の部屋で過ごした時間などほとんどない。そろそろと手を伸ばして触れてみると、意外にすべらかで、ひんやりとしているのに、よそよそしさがないのが意外だった。
 片付いてはいるものの、部屋の中は雑多なもので溢れていた。冬深が個人的な空間として与えられている部屋には、ベッドとサイドテーブルにノートパソコン。作りつけの収納棚には衣料と若干の雑貨があるばかりだ。
 そう言えば、あの人は何処へ行ったのだろう?
 ゆらり、ゆらりとカーテンのすそが翻る度に、冷たい風が頬をなぜる。もそもそと布団から這い出して、カーテンを引っ張った。

 部屋の中で、少年が目覚めた気配を、ヘッドホンから聴こえる音楽越しに感じていた。
 多分、音を聴いているのではないのだろうと夕月は思っている。静かな中で突然耳鳴りのような甲高い音や、モーターの回転音に似た重低音が響いてくる事があっても、周囲の人々にはまるで聞こえていないらしいという事もままある。
 そういう音が聞こえ始めたのはいつからかは覚えていなかったが、おそらくかなり幼い頃からだったのだろう、意識的にシャットアウトする術を夕月は持っていたし、それが聴力の異常やまして脳の腫瘍などの病気でない事も知っていた。
「おはよう」
 本に目を落としたままそう言うと、夕月はヘッドホンを外して首にかけた。
 振り向くと、カーテンの隙間から顔を覗かせた少年が、絶句している。
 気配で他人の動作を察していることをあからさまに知らせて、良い事は何もない。むしろ何が得体知れないと、警戒されるだけだから、滅多にこんな事はしないのだが、まあ、公園の四阿の床下で寝っ転がっているのも充分人を驚かせているのだからお互い様というものかもしれない。
「おはようございます……」
「洗濯が終わったらご飯にしょうか」

 まだすこし時間が掛かるから、眠たかったら寝てるといいよと言われても、既に眠気は去っていて、冬深は布団の上で思い切り伸びをした。
 カーテンを引くと、夕月は再びヘッドホンを付けて、今度は振り返らなかった。
 真南と言うより、やや東寄りに向いてそのアパートは建っていたから、朝陽は洪水のように降り注ぎ、部屋の中からは闇という闇は追い出された。
 着替えようと思ったが、昨晩着ていた服は何処にも見当たらない。
 することもなく、ぼんやりと夕月の背中を見ていると、甲高い電子音が三回鳴って、彼女は立ち上がった。
 洗濯してくれたのか。
 手早くしわを伸ばして干されていく洗濯物の中に、冬深の来ていたシャツとジーンズがあった。
「ああ、ごめん、君の来てた服、勝手に洗っちゃったよ。お昼頃には乾くと思う。ポケットに入っていたものはテーブルの上においてあるよ。ハンカチは洗っちゃったけどね」
部屋の中に上がりなら、夕月は冬深に言う。どうして謝るのだろう。お礼の言うのはこっちではないだろうか。そんな事を思いながら、冬深は曖昧に頷いた。
「朝ご飯って言ってもね、大した物つくれないよ。ご飯とみそ汁と目玉焼き。すぐ出来るから、顔でも洗ってきたら」 
 顔を洗ってくる間に布団は片付けられて、卓袱台の上に朝食の用意が調いつつあった。ポケットに入っていたものは小さめのコップの中に入っていた。可愛い包装紙にくるまれた数個のキャンディと数百円の小銭。
 促されるままに食卓について、冬深は夕月の背中を見ていた。
 見慣れない光景。それでも懐かしさに似た感覚を呼び起こされるのは不思議な気がする。
 匂いに刺激されて、お腹が鳴った。
「ご飯はまだあるからね、おかわりしたかったらどうぞ」
 予告通り、ご飯とみそ汁と、目玉焼きにはウインナーとくし切りのトマトが添えられて、おまけにほうれん草のお浸しが出てきた。
「納豆とか、毎朝食べる方?」
 冬深が軽く首を横に振ると、ほっとしたように夕月は
「よかった、匂いが苦手だから、私は食べないんだけど、毎朝納豆食べないと気が済まない人がいるみたいだから」
 そう言って彼女も冬深の向かい側に座った。

 躾がいいんだな。
 少年の食べる仕草に、夕月はそう思う。いただきますの挨拶からして、なおざりにせず、きちんとしていた。
 だけど。
 感じる違和感に、自分に通ずるものを見て、夕月は口をつぐむ。
 この穏やかな時間を乱したくはない。
 誰かと一緒に食事をするのは、久しぶりの事だったが、変に緊張していない事が、夕月は自分でも意外だった。学校という空間以外で、誰かと一緒にいるという時間は酷く短いのは友人がほとんどいないせいといってもいいが、そもそも他人と同じ空間を共有する事が苦手だ。多分、家族とでさえもそうだったのではないかと思っている。
 残っている記憶の断片には、暖かな家庭の団欒や仲睦まじい親子関係といったものはなく、自分の記憶だと確信できるものすらない。実際、自分の名前が本当に瀬尾夕月というのかどうかさえも怪しいのだが、ぼんやりと覚えていた友人が、彼女の事を夕月と呼んだし、少なくとも高校の学生証の写真と名前は、彼女の写真でありその名だった。
 尤も、入学式の翌日に事故に遭っている上、その高校には同じ中学からの入学者がいなかったから、あまり信用する気にはならなかったのだが。とはいえ、その後戸籍などを調べてみても、彼女が夕月であると証明こそすれ、否定する材料にはなり得なかった。
「ごちそうさまでした」
 ご飯粒ひとつ残さずきれいに平らげると、少年は決められた事のように食器を流しに運んで洗い始めた。
「ありがと。ついでにお湯、湧かしてくれる?」
「はあい」
 他人の家で気を遣っているのではなく、普段からやっていることなのだろう。ぎこちなさがない。
 だから気楽なのか。
 そんな事を思いながら、夕月もごちそうさまと手を合わせた。

 面白い人だ。
 冬深は思う。
 一体何故、あんな場所で転がっていたかも、それどころか名前さえも尋ねない。最初から知っているかのようでもあり、単に興味がないようにも感じられる。が、よそよそしさというのでもない。
 だから、冬深は名無しの少年でいられたし、いたかった。
 服が乾けば、出て行かなくてはならない。冬深の居場所はここではないし、ここにするわけにも行かない。いくら居心地が良くても。だから、その時間を大切にしてもいいだろうと思うのだ。
 食器の片づけを手伝って、することもなくなる。
「お茶でも淹れようか」
 布団を片づけたあとにちいさな卓袱台を置いて。
 紅茶にしては、少し独特な香りに
「ああ、これはキーマン茶。紅茶だけど、中国の方のお茶だから、少し香りに特徴あるよ」
 その香りからの予想に反して、口当たりは優しかった。
 陽光を遮るカーテンはすっかり引いてしまい、レースのカーテンに織り込まれた模様の淡い影が畳の上に揺れる。
 いささか行儀悪く、片膝を立てて、夕月は新聞を広げた。
 いつの間にか眼鏡を掛けて、面白くもなさそうな顔で、紙面に目を走らせてはめくる。
 ぎっしりと本が詰まった本棚、机の上にはデスクトップパソコンと、数冊の辞書、専門書が積み重なり、レポート用紙が散乱している。
 学生なの?
 問いかけようとして、まだ夕月の名前を知らない事に気付く。
 既に知っているような気がしていた。
 顔に落ちかかる髪を鬱陶しそうにかき上げながら、何か気になる記事でもあったのか、真剣な表情で一点に目を落としている。
 卓袱台の上の白いティーポットに手を伸ばして、空になっている夕月のマグカップと、自分のティーカップに注いだ。
「ありがと」
 口の端だけで軽く笑って、夕月はマグカップを手に取る。
「何を読んでるの?」
「んー、また遠い国で自爆テロがあったってのをね」
「ふうん。また子供だったの?」
「15歳だから、子供とも言えないけど。でも、少し切ないね」
「切ない?」
「……何も変わらないのに」
「変わらないの?」
「その子は死んで、その子の世界は終わって、でも世界の何が変わるんだろうねぇ」
 冬深は軽く首を傾げる。
 その子が死んで、その子の世界が終わって、でも世界の何が変わるんだろうねぇ。
 世界が終わる?
 世界の何が変わる?
 冬深にはよく分からない。
 ふと、自分の手を見る。
 その手で、これまでしてきたこと。
 その人の世界は終わり、そして何が変わったのだろう?
「ああ、少し違うな。少なくとも、その子の家族や友人は悲しんで、その存在を無くして、何かが変わったんだろうね……そうまでして、壊したいものがあるなんて、愚かしいと思うけれど、その情熱だけは羨ましいと思わないでもないね。
 そろそろ洗濯物、乾いたんじゃない?」
 ジーンズに手を伸ばして、すその辺りを掴んでみる。からりとした手触りだが、ポケットの辺りがまだ僅かに湿っていた。
「まだちょっと湿ってる」
 そう言って、冬深はひょい、と新聞をのぞき込んだ。
 夕月が読んでいたのは小さな記事だ。最初の事件は大きく写真付きで扱われていても、さすがに何度も続くと、悲惨さは変わらなくとも、対岸にいる立場の人間にとっての衝撃は小さくなって行く。
 自分さえ安全な場所にいられるなら、いくらでも眺めていようという、それがお化けの正体なんだ。
 そう小説の主人公に言わせたのは、孤高の幻想小説家だったか。
 現実に悲惨な事件はいくらでも起きていて、でもそれはあくまで他人の出来事。
「あ」
「……どうしたの?」
「銀行、行って来なくちゃ。電話とめられるのは御免だし」
 引き落としに使っている口座に残金が無い事を知らせを受け取ったきり、すっかり忘れていたのだ。
 現実なんて、こんなもの。
 夕月は立ち上がった。
「ドアの鍵、勝手に掛かるタイプだから、洗濯物が乾いたら帰るといい」

 そう言い置いて出て行く夕月の背中を見送って、冬深は戸惑っていた。
 どうしようか。
 無論、彼には返る場所があった。望むと望まざるに関わらず。
 あの人は、わざとゆっくり帰ってくるのだろう。
 誰もいない部屋に帰ってくるために。
 そして、まだ他人の気配が残るその部屋をどう感じるのだろう。
 冬深は膝を抱えて、空を見上げた。

 十二時を過ぎた。
 お昼ごはんぐらい食べてから出かければ良かったかな。
 夕月はそんな事を思いながら、書店で時間をつぶしていた。
 銀行での用事なんてものはせいぜい15分並ぶ位のもので、大した時間は掛からない。
 自転車で来ればいいものを、わざと徒歩で、だらだらと歩いて。
 そうしてやっと一時間。これからゆっくりと歩いてアパートに帰るにしても、せいぜい20分くらい。
 何を、怯えているのだろう。
 少年が、去る事? まだ居る事?
 まだ名前も知らない。その方が多分、痛みが少ないだろうから聞こうとも思わない。
 何が痛むというのだろう。
 一体何を期待しているというのだろう。
 誰に、何を。
 そんな事ばかりが、さっきから頭の中をめぐって、叫び出しそうになるのを、夕月は堪えていた。
 寂しいのだろうか。それとも?
 それとも……。
 書店を出た。
 風が強い。
 少し、なま暖かいような、それでいて、さむけを感じさせる風。
 雨、か。
 気配。雷鳴はまだ聞こえないが、その残響のような、音と言えるほどはっきりはしないなにかを感じられる。
 早く帰らないと、洗濯物が濡れてしまうな。
 それも、良いか。
 ぽつり、ぽつりと大粒の雨が、落ちてくる。
 少年は多分、乾いたばかりの服に着替えて、何処かへ帰っていっただろう。
 あっという間に空は真っ黒な雲に覆われて、情け容赦のない雨が降り注ぐ。
 夕月はやたらと遅い足取りで帰り道をたどり、アパートに着く頃には靴の中にまで水がたまり、すっかり濡れそぼっていた。
 かんかんかんかん、と階段の昇る足音が、妙に高く響いて、ますます気分が滅入ってくるのを感じながら、雨のしたたる指先でジーンズのポケット鍵を引っ張り出した。
 いつものように鍵穴に鍵を突っ込もうとして、すっかり冷えた身体が震えている事に気が付く。手のひらからはすっかり血の気が引いて、白さを通り越して青ざめていた。
 ため息と区別の付かない深呼吸をひとつして、改めて鍵を差し込みドアを開く。
 しんとした、無人独特の空気が夕月を迎えた。

 乾いた服に着替えて、窓の外を見る。
 雨は本降りになってきていた。もっと早く出れば良かったと思いながら、玄関先にあった傘を片手にドアを開けた。
 アスファルトを叩く音が空間を支配して、奇妙な閉塞感があった。
 確かにドアはオートロック。一度ドアを閉めると外側からノブを捻っても開かないが、仕組み自体はちゃちで、あまり信用は出来そうにない。
 まあいいか。
 軽い足取りで階段を下りてゆく。雨音にかき消されるほどの微かな足音は、すぐに紛れて姿さえも消えた。

 ずぶぬれになった服を着替えて、いささか乱雑に髪を拭くと、邪魔な卓袱台はさっさと片付けてお茶を淹れ、いつものようにデスクの上を適当に整理してマグカップとビスケットを入れた皿を置いた。そうしていると、まるきりいつもの日常が戻ってくる。
 そう言えば洗濯物……
 窓の外を見ると、何もない。慌てて部屋の中を見回すと、きちんと畳まれて隅の方に置かれていた。無論そこには少年の物はなく、夕月の貸した着替え一式がこれもまた几帳面に畳まれていた。
 だらりと背もたれに体重を掛けて姿勢を崩して、ずずっとお茶をすする。
 さすがに来週あたりからは真面目に講義に出ないとまずいな……。
 成績で不可を取るとは思えないが、出席日数が足りなかったら話にならない。ひとつ単位を落とすと、もう自分を律する事が出来なくなりそうな予感が、なんとか夕月を大学に通わせていたが、気分のふさいで行く気になれないまま、日を過ごしてしまっていた。ノートを貸してくれたり代弁をしてくれるような友人はいない以上、自分で何とかするしかない。
 遥香と同じ大学へ行けば良かったかな。
 高校の時に出来た友人とも、大学が別れてからは、時々思い出したようにメールが来る事もあったが、随分と疎遠になっていた。夕月が携帯電話を嫌って持たない事にも要因はあったようだ。以前は留守番電話にメッセージが残っていたが、やはり機械相手に話す事はい余り気分の良い事ではあるまい。
 雨音は相変わらず激しい。どうせ夕立だろうとたかを括っていたが、まだ当分降り止みそうにも無かった。

 銀行に行くと言っていたから、多分彼女は駅の方にいるに違いない。
 ざっとそのあたりの地図を頭の中から引っ張り出して、アパートからすぐのバス通りを北へ行こうとして、冬深は立ち止まった。今から迎えに行ったとて、見付けられる保証も無い上に、外を歩いていたとしたら既にびしょ濡れになっているに違いないのだ。
 でも、やっぱり行くだけ行こう。
 そう思って歩き出そうとした冬深はつと眉を顰めた。
 肩越しに振り返った冬深の顔からは全ての感情がそぎ落とされて、店頭のマネキンよりも愛嬌がない。
「……何?」
「迎えに来た」
 冬深の後ろ五メートル余りの所に立っていた青年は、差しているグレイの傘をさしかけようともせず、冬深にも負けず劣らずの無感情な口調で言った。ワークパンツにTシャツの重ね着とありきたりな格好といい、大した特徴のない外見といい、一度人混みに紛れたら見つけ出せそうにない地味な印象だが、そうして冬深と対峙している空気には、緊張感が満ちていた。
「何かあったの?」
 青年はほんの僅か、目を細めた。不意に現れたその表情は異様に酷薄に見える。
 冬深は、それ以上問うことなく、
「今日中には確実に帰るから。……僕の痕跡を残しちゃいけないでしょ」
「お前は『存在しない物』だということを忘れるな」
「忘れた事はないよ」
「ならいい」
 青年はそのまま歩き出し、冬深を追い越していった。
 どうせ迎えに来るなら、昨日来ればいいのに。
 冬深は心の中でひとりごちる。糖代謝の異常で、時々身体の力が抜けて動けなくなってしまう事がある。いつもポケットにはキャンディを模した薬が入っているのはそう言う理由だ。昨晩もその発作で動けなくなっていたのだ。キャンディをまとめて三つ口に放り込んだものの、雨で身体が冷えていたせいなのか、なかなか思うように調子が戻らず、仕方なしに人目に付かないところで横たわっていたところを、夕月に拾われた。
 立ちつくしたまま、どれほどの時間が過ぎたのか、気が付けば、叩き付ける雨にすっかり足下は濡れて、視界もすっかり塞がれている。
 アパートに戻って傘を返して、帰ろう。
 不意に引き戻された現実に、冬深はうなだれた。
 アパートの階段を上って、どうやら夕月が帰宅している事に気が付いた。ドアの前まで濡れた足跡が続いていた。

 どんどんと、ノックにしては乱暴にドアが叩かれた。
 他人の来訪が夕月は嫌いだ。それが新聞のセールスでも半日くらいは不機嫌でいるくらいに。だから居留守はしょっちゅうだが、さすがにどんどんとドアを叩く音が続いて、仕方なしに夕月は腰を上げた。
「……どちら様?」
 言葉が丁寧な分、機嫌が悪そうなことが更に倍増されて聞こえるような、低い声音に、
「あ、やっぱりいたぁ」
 のんきな少年の声が答えた。
「……何? 帰ったんじゃないの?」
 ドアを開けながら夕月は、さも迷惑そうに言う。それに気が付かないのか、冬深は軽く小首を傾げて
「どこですれ違っちゃったんだろ、バス通りのとこで待ってたのに」
 と、さも不思議そうに言った。
「裏道通ってたから」
「そうなんだ、なんか全然役に立たなかったね」
 申し訳なさそうに俯いた少年の様子に、夕月は思わす苦笑を漏らした。
「服、乾かそうか。軽くアイロン掛ければすぐだから」
 その傘をあげるから、さっさと家に帰りなさいと、どうして言えない?
「どうしたの、あがったら?」
 どうして。
 自問を胸の内に響かせて、夕月はひきつった微笑に似た表情を貼り付けた。

 傘を返して、別れの挨拶をしたらすぐに帰るつもりだったのに。
 冬深が脱いだ服に、手際よくアイロンを掛けて、夕月はハンガーに掛けた。
「雨が上がるまで干して置いた方がいいでしょ」
 また貸してもらった服に着替えて、淹れてもらったミルクティーをすすりながら、冬深は頷く。
 椅子に浅く掛けた夕月は、すっかりくつろいだ様子で、分厚い本を膝に載せた。
「適当にその辺の本、読んでてもいいし、テレビ見たかったらリモコンはそこ。ミニコンポも使っていいけど、あんまり音は大きくしないでね。とりあえず雨が止むまで好きにしてて」
 そう言うと頬杖を付いて本を開いた。
 邪魔をするのもためらわれて、冬深は夕月の本棚をのぞいて、適当に一冊の文庫本を引っ張り出して、ページをめくってみる。
 古いヨーロッパの民話集。
 ひとつ目の悲劇的な結末に、冬深は本を閉じた。
 本と並んで本棚に収まっているCDに目を移して、適当に選んでミニコンポにセットした。
 微かな、ピアノに始まり、ひとつひとつ楽器の音が重なる中に、歌声もあった事に気付くころには、すっかりその音楽に引き込まれていた。
 改めてジャケットを見ると、METEORITE/PUZZLEとあって、果たしてどちらがタイトルなのか判然としない。けれどそんなことはどうでもよい事で、初めて聴く曲に冬深はすっかり夢中になっていた。
 四十分弱の時間が過ぎて、部屋の中に静寂が戻った。

 雨が止むまで、世間話でもしていた方がよかったのだろうか。
 でも、あからさまに訳ありの少年と、一体何を話すというのだろう。
 だからといって、何も突き放すように本なんか読まなくてもいいだろうにと自分でも思いながら、夕月はページを繰る。
 遠慮したのか、何か言いたげだった冬深はおとなしく本棚に興味を向けた。
 やがて、聞き慣れた音楽が、ぎりぎりまで絞られたボリュームで流れ出す。
 楽器と同じように声を扱う歌い方が好きで、夕月はそのアルバムを好んで聴いていた。音の中に言葉は埋もれて、意味をなさない。それでも、言葉であるからその曲になる。
 他にもCDは何枚かあったのに、どうしてそれを選んだのだろう?
 映画のサウンドトラックとクラシックに外国のポップスなど、合わせて15枚にも満たない中で、METEORITE。
 まさにその音楽は隕石のように降ってきた。偶然入った店で掛かっていたラジオから流れていた曲はすっかり夕月を虜にして、その足で夕月はCDショップへ向かい、METEORITEのCDを探しが、まだ随分のマイナーな存在だったためか、大型CDショップをはしごして、ようやく見付ける事が出来た。それがファーストアルバムのPUZZLE。その後FRAGMENTとPIECESが出して、すっかり人気が出てしまっているが、夕月の好みからは徐々に離れてたものになりつつあるのが、少しばかり寂しい気がしている。
 雨音がノイズにならない音楽。
 まるで雨音のような、音楽。
 胸の鼓動のように静かに、そして時折乱れるのも一興。ふっと息をのむように途絶えた音は、やがて吐息のようにやわらかなに再び空気を震わせる。
 気が付けば、最後の曲。
 もう雨も上がっていた。

 CDを本の場所に仕舞って、冬深は立ち上がった。すっかり乾いた自分の服を身につけて、テーブルの上に置きっぱなしのキャンディも小銭も、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
「一番近い駅って、どこ?」
 聞かなくても、分かっていたけれど。 
「栄生公園駅。ついでの用もあるし、送っていこうか」
「ありがとう」
 あとほんの少しで良いから。
 夕月も手早く身支度と整えた。
「忘れ物、ない?」
「うん、大丈夫」
 外はもう、薄日が差している。雲間から、光の筋が何本も降り注いで。
 殊更急ぎもせず、かといってゆっくりでもなく、並んで歩いた。
「天使のはしごだね」
「天使のはしご? あの光を伝って、天使が降りてくるの?」
「外国ではそう呼ばれてるってだけの話。でも、そういう想像も悪くない」
 口元だけに浮かぶ微かな笑みに、冬深は頷く。
 西の空の赤く染まり始めた雲は、風に流されて、ひたすらに空は青みを失ってゆく。
「うわ、綺麗……」
 ふと見上げて、冬深は思わず言葉をこぼした。東の空に、くっきりと鮮やかな七色の橋が二重に架かっている。
「ほんどだ。こんなに見事なのは久しぶりだ」
 まるで燃え立つように光り輝く様は、確かに昔の人の目には不吉の前触れとも感じたのだろう。それほどまでに妖しい。
 光の屈折の悪戯。
 そうと分かっているから、自然の悪意よりも神秘を素直に感じ取る事が出来るのかも知れない。
「神と人間との間に交わされる約束ってどんなものなんだろう?」
 いつだったか、開いた風景写真の本に、虹が架かるのは、神と人間との間に約束が交わされたときだと書いてあった。
「……え?」
 風に弄ばれる髪を抑えながら夕月が振り返る。
 神と人間の間に交わされる約束。
 それは生まれ、死ぬ事だろうと冬深は思う。人は自分では生まれ出でる事は出来ないし、死を止める事も出来ない。
 なんでもないよという前に、
「何もないんじゃない? 人が生まれて死ぬまでの間に、神と約束しなくてはならない事なんて、何も」
 夕月はそういい、再び虹を見上げる。
 燃え尽きて、既に光は淡くなっていた。夕月は立ち止まる。
「駅はこのまままっすぐ行った所だから。」
「え、駅まで行かないの?」
「うん。図書館に本を返しに行く」
「そう……」
「気を付けて帰んなさい」
「……いろいろ、ありがと」
 何を、話したいのだろう。名残惜しいのは、何故?
 気持ちは焦るのに、何も言葉が出てこない。
「もしまた、あんな所で転がるくらいなら、うちにおいで」
 夕月は、そう言って軽く手を挙げ冬深に背を向ける。
 二度と会えないかもしれない。だったら、今更何を話しても、何を聞いても、仕方がないけれど。
 でも。

 見送るはずの自分の背中を、少年がじっと見つめている事に多少の居心地の悪さを感じながら、夕月は振り返らなかった。
 ちくりと針で軽くつつかれたような痛みに、指輪をはめた手を見た。
 いつもは深紅の奥底に微かな光を湛えているのに、さっきの虹を溶かし込んだような七色に石は輝いていた。
 ぱん、と頭の中で真っ白な光が弾けて。
 記憶の殻が、割れた。

「また、行って良いの? ほんとに?」
 冬深は遠ざかろうとしている背中に、叫んだ。
 立ち止まり、ゆっくりと振り向いた夕月は、何もかもを知っているような顔で笑っていた。
 それだけで、冬深は満足だった。
「じゃあ、またねーっ!」
 そして走り出す。
 もうとりあえずは、心残りは無い。
 キャンディをひとつ、口に放り込んで、帰路に付いた。
(了)
2009.10.24


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