01, だから彼は現の閂を外す

 それは、澄んだ青空に鱗雲が広がる夏の終わりのこと。
 偶然知人と出くわす、ということはさして珍しいことでもない。
 それが、住み慣れた土地を遠く離れての事でなければ。いや、それでも、ありふれたことなのかも知れないと尚人は思った。
 夕方というにはまだ早い午後の時間、私立の大学が幾つかと大型書店、新旧の古書店、楽器店やスポーツ用品店が所狭しと寄せ集まった街を、雑踏に紛れるように尚人は歩いていた。すぐ近くには最近まで毎日通っていた病院がある。もうそこには用はない。
 JRの駅へ向かう途中、前から振られている手が、自分に向けてのものだとは露ほども思わなかった。だから、そのすぐ脇を通り過ぎようとして、
「寺島君?」
 懐かしい声と、袖を掴む細い指に呼び止められたのだった。
「……寺島君、上京してこっちの大学に進んでたんだ」
 少し咎めるような色があるのは、彼が友人たちには進学先を告げること無く、卒業と同時に連絡を絶ったからだろう。
「……萩野さんはどうしたの? 遊びに?」
「うん、ちょっとね」
 曖昧に萩野花南は笑った。
 ──似合わない笑い方だな。
 彼の知る彼女は、もっと屈託のない、その名の通り花のような笑顔を持つ少女だった。それに魅了された者は少なくなく、尚人もまたそのひとりだった。
 彼女を恋うことがなければ。
 仄暗い気持ちが面に出てくる前に、その場を去ってしまいたかったが、先に
「時間ある? お茶でも飲まない?」
 と言われてしまえば、そうもいかなかった。
 わざわざ彼女が自分を探しにここへ来たと思うほどの妄想力はないが、彼女が何を聞こうとしているか察する程度の想像力はある。
 尚人はその辺のファーストフードでというわけにもいかず、小路を少し入ったところにある行きつけの喫茶店に案内した。
 古びた煉瓦の壁に蔦が這い、地味で小さな看板はほとんどの人が見過ごしているだろう。店内は黒くつややかな木の壁と窓枠にゴブラン織りのカーテンが掛かり、テーブルと椅子も使い込まれた感のあるアンティークを思わせて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「寺島君、こんなとこ入るんだ。なんか意外」
 店主の親しげな笑みに、尚人がこの店の馴染みだと気付いたらしい花南は、そう言ってまじまじと店内を眺めている。
「ファーストフードの方がイメージに合う?」
「なんていうか、スタバとかそういうとこって感じ?」
 取り繕うように花南が言葉を継いだが、あながち間違いでもないと尚人は適当な笑みだけを返しておいた。
「やだ、そういうの、やっぱり寺島君には似合わない。なんか……変わったね」
「それはお互い様でしょ」  
 正面から向かい合うのはそれこそ二年ぶりくらいだ。
 もともときれいな顔立ちではあったが、化粧は更にそれを引き立て、明るい茶に染められた髪はきれいにカールして肩口で弾んでいる。そんないかにも女性らしい姿を萩野花南が好むようになるとは、高校生の頃は想像も出来なかった。
 可愛らしい外見とは裏腹なほど活発で、男勝りな所のあった彼女が、今ではミニスカート、胸元の大きく開いたトップスの上には麻のジャケットを羽織っている。
 時間が、経ったんだ。
 Tシャツにジーンズ、学生の頃よりは長めになっただけの髪、すっかりヘビースモーカーになってしまったこと……変わったような変わらないような自分。
 それそれブレンドとカフェオレを注文した後、尚人はポケットからタバコを取り出して花南に「いい?」と尋ねると、花南は少し驚いたようだったが、苦笑しながらも頷いた。
「あいつ、宏明 は元気?」
 かちりとジッポのゆるい炎で火を付ける。
 久しぶりに口に乗せる、かつての親友の名は苦い味がした。
「ごめん、最近会ってないから。ああ、でも電話では元気そうだった」
「何、ケンカでもした?」
 花南は苦笑いをして、お冷やのグラスを揺らした。
 からんと氷が澄んだ音を立てた。
「……ほとんど自然消滅みたいな感じ。高校卒業して、半年もしたくらいからほとんど会ってないの」
「ふうん」
「寺島君は連絡とってないの?」
「貧乏学生だからねー、いろいろ忙しくて帰省もしてないし」
「そっか、親元離れると大変なんだね」
 尚人の両親は共働きで、世間一般からすれば二人とも高収入な方だ。弟がこれから大学受験を控えているとはいえ、経済的な余裕は充分にあるはずなのだが、両親はともに尚人を地元の大学以外に行かせる気が無かった為に、仕送りは一切無い。
 東京の大学へ進学出来たのは、母方の祖父が協力してくれたおかげだった。
「今度ね、同窓会があるの。高校三年の時のクラスで」
 ──ああ、やっぱり。
 予想通りの展開だ。でも、わざわざ察して自分から彼女の求める話をするつもりはなかった。
「へぇ。仲のいいクラスだったんだ。俺んとこなんて一度もないよ」
 実家に連絡が届いている可能性はあるが、それをわざわざ知らせてくれるほど両親との関係は良好ではない。
「……織羽の連絡先、知らない?」
 真っ直ぐに見据える目に、思ったほど変わってもいないのだな、単刀直入で、駆け引きだとか暗黙の了解だとかいうことの苦手なのはと、尚人は目元が緩ませた。
 ──やはり、変わったのは、自分か。
「萩野さんは知らないの?」
「全然。織羽が教えてくれたのは最初の引越先だけ。それからすぐにどこかにいっちゃった」
 両の手のひらを上に向けて、軽く肩をすくめた彼女は、やはりセーラー服を着ていた頃と余り変わっていない感じがする。
「ね、知ってるんでしょ? 教えて」
 教えてもらって当然とばかりにバッグから携帯電話を取り出した花南に、尚人は苦笑する。
 そんなところも、あの頃から変わっていない。
 直裁に苛立ちをぶつける代わりにタバコを灰皿に押しつけ、すぐに次を口にくわえた。
「あいつから連絡ないんだったら、ほっとけば?」
「ほっといたら一生会えないじゃないの。後悔してるの。一年って、あっという間じゃない。入学して、あたふたしてるうちに夏休みが来て、ようやく馴染んだと思ったらお正月で。その頃には携帯電話も繋がらないし手紙だって宛先不明で返って来ちゃった。……もう連絡のとりようがないの」
「それでいいんじゃない?」
 かちり、かちり。
 オイルが切れかけているのか、ジッポの灯がつきにくかった。ようやく付いた火はやはり弱々しい。ちょうど注文したものも運ばれてきたところで、尚人は諦めてタバコを仕舞った。
「なによ、それ。いいわけないでしょ」
 ぷっと片頬を童女のようにふくらませて、花南は尚人を睨み付ける。
「宏明には聞いた?」
「……聞いたわよ。でも寺島君の連絡先だって知らないのに、知らないって言われた。なによ、ケンカでもしてるの?」
「あいつ、なんにも言ってなかった?」
「言うような人じゃないでしょ」
 ぎりっと唇を噛んで、ふいっと花南は横を向いた。
「……だから、ずっと知らなかったの、彼が織羽のこと好きだったなんて」
 少し意外な言葉だった。一生気付かないままだと尚人は彼女を侮っていたからだ。
「いつ知った?」
「つい最近。織羽の連絡先を聞こうとして……何となく」
「成長したんだ」
 花南は剣呑な視線を尚人に向けたが、すぐに逸らせて小さなため息を吐いた。
「……そんなことよりも、織羽、どこにいるの?」
「あいつが宏明のこと好きだったって、知ってた?」
 びくりと花南の肩が揺れる。
「……だって、織羽はなにも言わないんだもん。知ってたけど、でも、しょうがないじゃない」
「そうだね」
「寺島君、性格悪くなった」
「かもね」
「どうして織羽の連絡先教えてくれないの? さっきからはぐらかしてばっかりじゃない」
「何となく萩野さんに教えたくない」
「なによそれ」
「宏明に聞くといいよ。俺、あいつに全部話してるから」
「だって、何にも知らないって……」
「まだまだあいつのこと分かってないね。あいつはそういう奴なんだ」
 伝票を持って尚人は立ち上がった。
「悪いけど、もう行くよ。バイトあるんだ」
 呆然としたままの彼女を置き去りにして、尚人は店を出た。
 花南の性格からどうせ追いかけてくることは分かっていたから、わざと別の地下鉄の駅に向かい、さっさと地下へ降りた。尚人に出来る精一杯の嫌がらせだった。

 バイトを終えて携帯電話を見てみると、随分と着信記録が溜まっていた。面倒だから電源を落としておこうかと思ったのを察したかのようなタイミングで、携帯電話が震えた。
 深夜十二時を過ぎて掛けてくる人間には、家族以外ひとりしか心当たりはない。しばらく迷った後、ようやく通話ボタンを押して無言のまま相手の反応を待った。
『……寺島さん、ですか』
 かしこまった声は、よく知った、かつての親友のものだ。携帯電話なのだから、余程の事でもない限り、本人以外であるわけがないのに律儀なものだと、尚人は半ば本気で感心する。
「ああ、俺。何」
『何じゃねぇよ、お前萩野に何吹き込んだ?』
 本人だと知った途端、遠慮も何もない口調になったのが、妙に可笑しかった。
「別に。ただお前に聞けって言っただけだ」
『根ほり葉ほり聞かれたって、知らないから答えようが無いだろうが、バカ野郎!』
「萩野さん、速攻でそっちに電話したんだ。遠恋の彼氏にでも会いに来てるのかと思ったから、こんなに早く連絡が行くとは思ってなかったよ。だから明日にでもお前に連絡入れようかとは思ってたんだけどさ」
『嘘吐け。こんな嫌がらせして何になる』
「俺の気が晴れる」
 街灯の連なる夜道を歩きながら、尚人は嗤った。
 携帯電話の向こうでは、宏明が絶句している。
 どんな表情をしているのだろう。
 痛みに耐えるような、苦渋に満ちた顔が浮かぶ。
 おそらくは本当に痛みを覚えているに違いないと尚人は思った。
「……そろそろ話したいとは思ってたんだ。聞く気、あるか?」
 詰めていた息を一気に吐き出すようなため息の後、
『……話せよ』
 と応えが返って来た。
 彼には聞く権利と同時に、知る義務がある。
 幼稚な恋情に縺れに振り回された当事者のひとりとして。
「あいつね、死んだよ」
 話し声は、住宅街の静けさの中では存外に響いた。
『は?』
 およそ思いも掛けぬひと言だったのだろう、随分の間の抜けた反応だった。
『お前、タチの悪い冗談は』
「あいつが高校卒業と同時に上京したのは、父親の転勤に会わせた進学のためじゃない。入院するためだったんだ」
 古いアパートの階段をそっと上る。それでも軋んだ音を立てるのは避けられないが、遠慮も配慮も無いよりはましだろう。
 鍵を取り出せば、否応無く金属が触れ合う音がする。
 部屋のドアを開けると、むっとする空気が流れ出てきた。夕方にもなれば、薄手の上着が必要になってきたとはいえ、昼間の熱がこもったままの空気は不快で、尚人はすぐに窓を開けた。
『お前、それでそっちの大学行ったのか』
「別にそういうわけじゃないよ。まあ、入院していた病院のすぐ近くの大学だったから見舞いには何度も行ったけど……最期は肺炎だった」
『最期はって……?』
「重度の再生不良性貧血だったんだ。免疫力が落ちてたから、ちょっと咳してるなと思ったら、あっという間に重症化した」
『それって骨髄移植とか……』
「骨髄バンクに登録はしてたよ。でも白血球の型が合うドナーは見付からなかった」
『無駄だったかも知れないけど、言ってくれれば協力できたのに』
 宏明らしい言葉だと尚人は思った。聖人ではないが、彼は間違いなく善人なのだ。
『いつ亡くなったんだ、彼女』
「去年の十二月」
『どうして知らせてくれなかった!?』
「知らせてどうなる? 線香でも上げに来るって? それなら母方の親戚の所に位牌があるよ」
 感情的に荒くなる宏明の声とは対照的に、尚人は淡々と返す。
「そういうことじゃない」
「じゃ、どういうことだよ」
「仕方ないだろう」
 しばらく間が空いた後、無理矢理絞り出ししたような声で宏明 は言った。
『永瀬は、花南が笑っていてくれると嬉しい、としか言わなかったんだから』
 それは宏明 の中で、消そうとしても消せない思い出として刻みつけられている瞬間だった。
 図書準備室で、彼女は天井まで届く本棚に掛けたはしごの上で本を読んでいた。しばらくの静寂の後、意を決して宏明 が口を開こうとしたのを見越したように、織羽は言った。
 ──花南が笑っていてくれると嬉しい。
 その意味が分からぬ愚か者でありたかったと今でも思う。窓から射す光に、長い髪の輪郭は淡く光り、やさしい微笑を向けられて、何も言うことは出来なかった。
「もういいか? 悪いけど明日、早い時間からバイトなんだ」
 宏明 が己の恋情を徹底的に隠し通した理由を知って、尚人は目眩を覚えてた。
 どんな形であれば、このスクエアな関係は正しく在れたのだろう。
「ちょっと待てよ、なんで俺が花南……萩野にこのことを話さなきゃなんないんだ?」
「さあな。とにかく頼んだ。じゃあ」
 返事も聞かずに、尚人は通話を切り電源を落とした。
 再び花南に会うことがあったら、やり場のない怒りを彼女にぶつけてしまいそうだった。
 それでも花南に告げるつもりはない。
 織羽がこれほど短く生を終えたことに、彼女が深く関わっていることを。
 鈍感で、自分勝手で、愛されることしか知らない娘。
 ──だから好きなのよ。
 そう言って織羽は笑っていた。自分がそうなりたかったのかも知れないと尚人は思っている。
 不器用な、少女。
 尚人はじっと目を瞑り、彼女の面差しを目蓋の裏に描いた。
 花南とは対照的に、酷く屈折した笑顔。
 挑発的で、毛を逆立てた猫のような警戒心を隠さなかったのは、尚人にだけだった。それは、彼女にとって精一杯の甘えだったのだろう。
 言葉にしなくても、多分、互いに分かっていたからこその、それは信頼に基づいたものだったと尚人は確信している。
 引き出しから取り出したものを、掌に載せた。
 ──迷惑じゃなかったら、もらってくれる?
 緑の石の付いた古い指輪。
 父親から母親へと渡されたもので、どちらも亡くしている織羽には大切な形見だった。
 ──捨ててしまってもいい。ただ、私にはもう何も返せるものがないから。
 それはヨーロッパの老舗名門ブランドのもので、売ればかなりの値になるものであることを彼は知らない。
 ゆっくりと荒ぶる感情は鎮まってゆく。
 ほんの数年、彼の人生を支配した少女はもういない。
 ぎゅっと指輪を握りしめた後、尚人はそれを引き出しに仕舞った。
 思い残すことが欠片もないといえば嘘になるが、彼女の決めた幕引きに手を貸したことも最期を看取ったことにも後悔は無い。
 だから、この先も歩いていけるのだ。
 多少の揺らぎがあるとしても。
 
2010.11.22


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