星月夜の森へ/番外編

── ReWind

ゆめうつつ

 ふと目が覚めて、由井は枕元の時計を見た。
 針は四時前をさしている。
 どうやら風邪を引いてしまったらしく、小学校から帰って来てから咳を繰り返していたら、心配した秋津の家族に促され、昨夜は八時前に床に付いた。だからいつもより早く目覚めてしまったのだろう。
 身体を起こそうとして、ずきんと頭が痛んだ。なんだか全身が怠くて、思うように動けなかった。
 のろのろと立ち上がると目眩がする。
 こん、と咳をしてフリースの上着を羽織った。
 襖を開けるとカーテンを閉切った部屋の外は明るかった。
 秋も深まったこの時期、朝の四時はまだ夜闇に閉ざされているはず。
 それでも何故か、夕方の四時なのだと気付かず、どうして夜が明けているのだろうと不思議に思っていた。
 裸足のまま、ぺたぺたと木の廊下を歩く。足裏の冷たさが心地良い。
 家の中に、人の気配がない。
 ひとりぼっちだ。
 随分と久しい感覚ではあったけれども、それは肌に馴染んだものでもあり、決して忘れ去る事などできないものだった。
 秋津の家で暮らすようになる前は、留守がちで帰って来ない日もしばしばだった母親と、古びたアパートで二人暮らしだった。しんと冷えた部屋で、母親の帰りを待つこともなく、ひとりで眠る事に何の疑問もなくなったのは小学校に上がる前の事だ。
 こんこんと咳をしながら、台所をのぞいても、誰もいない。
 まだ誰も起きていなくてもおかしくない時間。
 でも、こんなに明るいのに。
 熱でぼんやりとした頭で、そんなことを考えていると、そうか、夢を見ているんだ、と思い至った。
 でも、どこからが夢なんだろう?
 そう思ったら、怖くなった。
 この家で三年間も夢だったら。
 目が覚めたら、あの寒い部屋に一人でうずくまっているのだろうか。
 フリースの襟元をかき合わせて、由井はぶるりと身を振るわせる。
 覚束ない足取りで、逃げるように温もりのないベッドに潜り込むと、とても安心できて、高熱に苛まれている身体が求めるままに眠りの底にまで落ちていった。
 それが覚めたのは、額に心地の良い冷たさを感じてのことだ。
「さら?」
 重たい目蓋を開けると、孝史の顔が目の前にあった。
 熱にほてる顔に冷たさをもたらしてくれたその手に、由井は猫の仔のように額をすりつけた。
「ひとりで留守番、寂しかったろ」
 そんなことないよ。
 答えようとして、声が出なかった。炎症を起こしている上に喉が渇いていて、ぱくぱくと陸に揚げられた魚のように開けた口からは、掠れた音が微かに零れただけだった。
「ん、無理して喋んな」
 冷たい手は額から頬に滑り、代わりに孝史の額がくっつけられた。
 自分に与えられた部屋に敷いた布団ではなく、孝史の部屋のベッドの中にいることに気付くと同時に、ゆっくりと現実感が戻って来て、そういえば、今日は熱があるから学校は休みなさいと久美に言われた事を思い出した。それからまた眠って、朦朧とした意識の中で、何か言っていた久美に、大丈夫ですと答えたような気がする。
 その時に、奈美江のところへ行かなくちゃならないのだけれど、具合はどう? と聞かれたのだったが、心配そうなだけでなく辛そうでもあった久美の様子に、そう答えてしまっていたのだった。
「熱が高いな。医者には連れてってもらったか?」
 由井は首を振った。昼前に、久美は由井を病院に連れて行こうとはしたのだが、行きたくないのだと珍しく我が儘を通した。これまでにも、何度か熱を出したり風邪を引いたりしても、頑なに病院に行く事を拒んでいた。
 やっぱりと呟いて、孝史は慣れた手つきで、由井のパジャマの襟元から電子体温計を脇の下に差し入れた。
 医者嫌いなのは、物心ついた頃から、母親に繰り返し「病院は怖いところだ」と聞かされていたせいであって、根拠のあるものではなかったが、娘を病院に連れて行くのを面倒くさがった母親の虚言はしっかりと根付いてしまっているところはたちが悪い。
「喉乾いてないか?」
 それにはこっくりとうなづくと、そっと身体を起こされた。直ぐに上着が肩に掛けられて、力強い腕に背中を支えられたまま、口許にガラスのコップが宛てがわれる。
 ひとりでも飲めるのに、と思いながらもコップを持つ孝史の手に自分の手を添えて、少し甘い、おそらくは孝史の好きで常備してあるアイソトニック飲料を、こくこくと喉を鳴らして飲み干した。
「ばーちゃんが具合が悪いとかで、母さん、出掛けたみたいだな……」
 言葉に苦さがあるのは、祖母の奈美江がそう言っては娘である久美を呼びつけることが度々あるからだ。おそらく久美は由井が寝込んでいるからと断ったに違いなのだ。が、ただでさえ由井を秋津の家に引き取った事が気に入らないのだ。実の母よりも他人の子の方が大事なのかと嘆いた挙げ句に、聞くに絶えないような由井とその母の悪口を言い始めたのだろう。
 以前、土曜日に由井の授業参観があったときも、そうだった。娘を呼びつける為の口実だと分かっていたから、久美は由井の授業参観に出る方を優先した。そして翌日、秋津家にやってきた奈美恵は、最後には久美の夫であり孝史の父である泰徳を怒らせた。それは、六十を越した大人が、十歳の子供にすることではなかった。母親の悪口を吹き込み、その血を引く娘がまともなはずはないと面罵したのだ。
 それが二度も三度も続けば、もう奈美江の態度が改善されることを望むのは夢想家のすることだろう。
「三十八度八分」
 呆れたような声で、孝史は体温計に示された数字を読み上げた。
「医者行くぞ」
 嫌だとは言えない強さで言われて、由井はもぞもぞとモグラよろしく布団の中に逃げ込んだが、掛け布団をあっさり剥がされて毛布ごと抱きかかえられ、すっかり汗を吸ってしまっている下着とパジャマを着替えるようにと部屋に連れていかれると、どうやら医者にいくのは仕方がないのとだと観念した。
 まだ十にも満たない子供のように、ダッフルコートのボタンを留めてもらい、首元はしっかりとマフラーを巻いてもらうのは、さすがに気恥ずかしかった。この歳にもなって、体温計を差し入れてもらうというのもどうかと思う。高熱にぼんやりしていたとはいえ、ふと我に返ると熱のせいばかりでなく頬に血が上った。
 以前、図書館に連れて行ってもらったときのように、自転車の荷台に乗せられて連れて行かれたのは、孝史も幼い頃からのかかりつけの個人医院だった。一度だけ由井も健康診断の為に連れて来られた事がある。秋津家に引き取られたばかりで、嫌、という意思表示をする事など思いつきもしなかった頃の事だ。
 患者が子供だろうとなんだろうと、機嫌を取るような事もない厳めしい老医師は、的確な診断と助言に加えてさりげない気配りもあって、周囲からの信頼は篤い。重くなりがちな空気は、年配の看護士が持ち前の朗らかさで中和していて、ちょうどいい案配だ。
 まだ風邪が流行るには早い季節で、さほど待つ事もなく診察を終えられた。
 二、三日前から具合が悪かっただろうに、どうしてさっさと診療に来なかったのかと老医師に怒られて、薬を処方された後、帰路に付いた。
 しっかりと孝史の背中にしがみついて、幸せだと思う。
 身体は怠いし頭も喉も痛いけれど、それをひとりで抱え込まなくていいというだけで、全然辛くはないのだ。
 こんな温かさを知ってしまって、母親が帰って来なければ良いのにと願わずにはいられない。
 それが常識的にはあまりに罪深い事だということくらいは分かっているから、決して口にはしないけれど。
 家には、久美の方が先に帰っていた。
 孝史が食卓の上にメモを残しておいたとはいえ、やはり風邪を引いて寝込んでいた由井のことが酷く心配だったのだろう、顔を見るなり、怒っているような泣きそうな、複雑な表情を万華鏡のようにくるくると浮かべた後、安堵の笑みで「おかえりなさい」と言った。
「私がどんなに諭しても、お医者さんに行こうとしてくれなかったのねえ」
 心配してくれる久美には悪いと思っても、病院に行くのは怖いというだけでなく、体調を悪くすると必ず母親の機嫌が悪くなったことなどが思い出されて、素直に頷けなかったのだ。
 でも、孝史が言うのなら、ここを出て行けと言われても頷ける気がする。そういう想像はとてもとても悲しいけれど、いつかその日が来るのだと思っていた。どこかで諦めていなければ、怖くてこんなに幸せな場所にいることなど出来ない。そうでなくても、失う日に怯えて逃げ出したくてたまらなくなる日もあるのだから。
 もちろん、そんな由井の気持ちを久美も孝史も知る由もない。
 引き取ったのは、由井が九歳の誕生日を迎える前で、まだ母親が恋しい頃だろうに、不思議と懐いたのは自分にではなく孝史にだった事は、久美の密やかな落胆だ。予想外だったのは、自分の息子が疎ましがるどころか、周囲も呆れるほどに可愛がっている事だ。その自覚がないところが、何とも可笑しいが、刷り込みされた雛よろしく後ろを付いて来る由井を驚くほどの辛抱強さで待ち、時には手を差し伸べる。
 どういう経緯であれ、共に暮らすこの少女が幸せならいいのだと久美はその微笑ましさを受けとめていた。
「さ、手を洗ってうがいしてらっしゃい。すぐに夕食にしましょう」
 食欲のない由井でもいくらかは食べられるようにと、その日はやわらかく炊けた大根とこんにゃくに鶏肉団子の入った湯豆腐だった。
 医者で処方された薬を飲んだ後、おやすみなさいと自分の部屋に戻ろうとした由井の手を孝史は引いた。
「ひとりだと寒いだろ。俺の部屋で寝てな」
 多分、夕方に間違えてなのか無意識に求めてだったのか孝史のベッドて寝ていたから、ひとりでの留守番が余程寂しかったのだと誤解して、心配しているのだろうと、由井は首を横に振る。
 それに。
「風邪、うつる」
 掠れた声でそう言うと、孝史は面白そうに笑った。
「風邪を人にうつすと早く良くなるって知ってるか?」
 由井は聞いた事はあるけれど、本当かどうかなんて分からないし、孝史にうつしてまで良くなりたいなどと思うわけがない。
 頑固に口を引き結んで俯く由井の頭をそっと撫でて、
「じゃ、隣に布団敷くか。そしたら、なんかあったらすぐ呼べるし」
 と言うと、孝史はそのまま由井の手を引いた。
 部屋の灯りは消され、スタンドの灯りが付けられた部屋の中で、孝史は黙々と二学期末の試験勉強の為に机に向かい、由井はうつらうつらとしていた。
 浅い眠りから覚める度に、孝史の背中がそこに在るのは、嬉しい。
 それは、心細さから来るものなのか、こうして懐に入れて大切にされているのだと感じられるからなのかは曖昧だけれど。
 その夜、最後に目が覚めたのは、ちょうど孝史がスタンドの灯りを消したときだった。
 近くに人の体温を感じて、無意識に身を擦り寄せていた。
 注意深く指先で前髪が払われ、額にぬるい温度を感じると、「少し下がったみたいだな……」と微かな呟きが聞こえた。
 しばらくの間、やさしく髪が撫でられた後、「おやすみ」と、目蓋に落とされたやわらかくて温かな感触は、魔法のように由井を深い眠りへと導いた。

2009.02.01


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