星月夜の森へ/番外編

── ReWind

ねむりひめ

 久しぶりにバイトも友人たちとの約束も無く、いつもよりは早い時間に家路をたどっていた。久しぶりに夕焼けを見上げたりして、ほっと息を吐く。
 大学に入ってからの日常は、息つく間も無く忙しい。
 親に宣言した通り国立大学に入学し、その上奨学金枠に入った。それを維持しようと思えば、遊んでばかりは居られない。とはいえ、受験勉強に明け暮れる高校生でもあるまいし、勉強だけに終始するような、味気ない大学生活を送る気になどなれなかった。
 だから、講義を終えた後、こんな風にのんびりと歩いていた事など、ほとんどなかったのだ。
 今日から週末に掛けて、両親が温泉旅行に行く為に、彼は講義以外の予定を全てキャンセルした。妹──正確には遠縁なのだが──に寂しい思いをさせない為に、できるだけ家をあけたくなかった。もうそんな歳でないと分かってはいても、ひとりで留守番をさせていると思うと、自分の方が落ち着かない。
 自宅の最寄り駅を降りると、ちょうど、高校生たちの下校時間にも重なったらしく、覚えのある制服姿をちらほら見かける。彼はその中の一組に、ふと目を留めた。
 さほど親密そうには見えないが、少年の方には、そうなりたいという願望が、そのやや浮ついた表情から見て取れる。一方、彼の話に相槌を打つ少女の方は、無表情に無理矢理貼付けたのが丸分かりな──それは彼だから分かることだが──微笑を浮かべていた。
 時折、少年の手が少女の肩に触れる。
 特に意図はなさそうな、さりげなさを装った仕草。
 おそらくは、クラスメイトかなにかで、偶々帰りが同じになっただけのことなのだろう。それは少年に取って僥倖にあったにせよ。
 彼は少女の名を呼んだ。
 振り返った少女から、ふわりと蕾がほころぶようなやわらかな笑みが返される。
 その表情の変化を間近で見た少年には気の毒な事をしたかもしれない。
 けれど、それは彼の優越感を十二分に満足させた。
 少女は躊躇いも無く駆け寄って来る。
 そうなるまで、彼は少女を甘やかして甘やかして甘やかした。
 どれほど甘やかしても、足りないほどに。
 そうして数年かかって、ようやく少女は彼に、家族に罪悪感を覚えずに甘える事を覚えたのである。


 少女が小学校の五年生の頃だったろうか。
 口べたな事もあって、さほど過激なものでは無かったけれど、少女がクラスメイトたちから苛められたことがある。
 帰宅してから、暗い顔をしてだまりこくる少女は、事情を尋ねても、簡単に話すような子供ではなかった。むしろ心配を掛けまいと、一生懸命に普段通りに振る舞おうとするのだ。だから、無理に聞き出すような事はせず、代わりに、少女の好きなお菓子を作ってやり、一緒に眠った。
 そんな日が数日続き、下校時に少女がクラスメイトたちに囲まれて何か言われている場に出会したのは、彼の方が期末テスト期間に入って部活動が休止になったため、帰宅時間が早くなったからだった。
「あんたなんか呪われてるのよ!」
 子供の口から、なんとも不穏な言葉が投げつけられていた。
 その場で助け出してやる事は容易かったが、彼はじっと耐えている少女を黙って見守っていた。以前、下手に口を出して、後でクラス中から無視されることになってしまった事があったからだ。
「だからお母さんに捨てられたのよ」
 そんな言葉が耳に入った時には、相手が小学生の女の子というのも忘れて殴ってやろうかとも思ったが、ぐっと我慢した。
「そうよ、もともと呪われてる子に、呪われるお姫様役なんてぴったりよ」  やがて言いたいことを言って気が済んだらしいクラスメイトたちから解放されて、とぼとぼと俯いて歩く少女の肩をぽんと叩いてやると、泣きそうな顔が彼を見上げた。それでも直ぐに何事もなかったかのように取り繕う少女と手を繋いで家に帰った。事情を悟られた事にばつの悪い顔を見せる少女に、彼は嘆息する。素直に頼ればいいものを、どうしてこの歳でなにもかも抱え込んでしまうのだろう。
 未だ家族になりきれていないことを、そんなところに感じ取るのは、やはりほろ苦いものがある。
 温かいココアを淹れてやり、少しずつ表情から強張りが取れて行くのを、ほっと安堵の思いで見つめながら、どうしたものかと思う。
 ここしばらく、少女を暗く落ち込ませていた理由の端は掴んだ。
 それが、「呪い」とは。
 そういえば、今度の学芸会で『眠り姫』のお姫様をやることになったんだったな、と思い出した。母親は今から楽しみにしていて、可愛らしいドレスを、せっせと縫っている。
 夕方に見たことを、少女の担任教師に訴えたとして、状況が良くなるわけではないことは、この二年ほどで、彼も学習していた。かといって放っておけるものでもない。
 どうしたものかと思いながら、週末に焼いた、ほんのり塩みをきかせたショートブレッドを齧る少女の顔を見遣り、ふと思いついた。
 ああ、そうか。
 彼は、少女の前髪をかきあげると、白い額にそっと口付けた。
 突然の事に驚いたのだろう、目玉がこぼれ落ちてしまいそうなほど見開いた目を向けた少女に、彼は笑う。
「これで呪いは解けたよ」
 高校生にもなって何を恥ずかしい事を言ってるんだか、という気持ちが無いわけではなかったけれども、それで少女がクラスメイトたちが掛けた言葉の呪いから解放されるなら、何でも良かった。
「……孝にいが王子様?」
 彼は、ゆっくりと頷いてそっと髪を撫でてやった。
 自分が王子様などという柄かどうかはともかくとして。
 お姫様の呪いを解くのは、王子様のキスだと決まっている。

 後の三者面談で教師は語ったところによれば、少女が同級生に苛められていた原因は、やはり、と嘆息したくなるようなものだった。
 学芸会での出し物『眠り姫』の姫役をくじ引きにしたところ、少女がアタリを引いた。それを僻んだクラスメイトのひとりが、物語になぞらえて、「呪われている」と言い出したらしい。それは瞬く間にクラス内にひろがって、あんな事になってしまったのだという。
 早急な対処をしなかった事に、両親も彼も酷く憤慨したのだが、当の本人がけろりとしていた。
 そう、彼は知らない。
 彼が解いたのは、
「あんたなんか、今の家族にだってすぐ捨てられるわよ!」
 という、クラスメイトの呪いだけでなかったことを。


 両親が留守にしているからといっても、特に家事で困ることはない。二人で寄せ鍋を作って夕食をとり、その片付けを少女がしている間に、彼は風呂の仕度をする。その作業に澱みは無い。
 居間でヴァラエティ番組を見るともなく見て、一見無為にも感じられる時間でくつろぐのも、両親が居ても居なくても行なわれる儀式のようなものだ。
 ただ、その日は、ゆっくりとお茶を啜る彼の横で、少女は時折、不安げな目を向けた。
「どうした?」
 少女が幼い頃、自分から言うまで放っておいたら、しまいに熱を出したことがある。以来、彼は気付けば自分から水を向ける。以前はそれでも中々口を開かなかったものだが、最近は話し手も良いか許可をもらう感覚になっているようだった。
 けれど、その日は珍しくしばらく口籠ったままだった。
「……あのね、何か、怒ってる?」
「え?」
「孝兄、変な顔してるから」
 ようやく話したかと思えば、変な顔とはご挨拶だなと思うが、ふと思い当たることがあって、ほんの僅かの間をおいて、
「いや、このところのんびりするなんて事もなかったから、なんか、気が抜けてるんだろ」
 それで少女が納得するわけもないことを分かっていながら、答えにもならない事を適当に口にした。
 怒りではない。
 でも、それに似ていない事も、ない。
 案の定、そろそろ眠ろうかという時間になって、自室のドアがノックされた。
「どうぞ」
 ひょいと不安げな顔をのぞかせた少女は、両手でしっかりと枕を抱いている。
 今でこそ、滅多になくなったが、少女が中学に上がってからもしばらくは、しょっちゅう一緒に眠っていた。何か不安な事、怖いこと、心を揺らすような事があったときは、彼の方から招いていた。さすがに少女が高校生になってからは、一度も無いが。
「おいで」
 幼い頃と同じように膝の上に座らせて、ふんわりと抱きしめる。
 それでもまだ不安そうだから、前髪を払って、露になった額にそっと唇を落とした。
 いくら兄妹だとしても、微笑ましく見えるような歳ではなく、どこか歪な事はとうに分かっている。
 少女に指摘されるまで、彼は自分が不機嫌になっている事に気付いていなかった。
 変な顔。
 確かにそうだろう。
 彼は、少女の隣を歩く少年に、奇妙な苛立ちを感じていたのだから。
 何も不思議な光景ではないし、この先も当たり前のように見かけるに違いないのに。
 自分だって高校生の頃から彼女はいたし、年相応に相手に触れて来た。同じように、少女に触れる手があったとして、彼に責める筋合いなど無い。
 父親のような気分であれば良かった。
 彼は、とうに自覚してはいるのだ。
 でも今は、そっと封をしておこう。
 少女の頬に、目蓋に、そして鼻先に軽く口付けて。
「もう眠ろうか」
 その笑みに、少女はようやく愁眉を開いた。

2009.08.11(web拍手掲載物再録)


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