星月夜の森へ/番外編

── ReWind

萌芽

 目覚めるとき、何故、浮遊感が伴うのだろうと孝史は朝から埒もないことを考えていた。
 傍らには、もう既に馴染んでさほどの違和感もない温もりがある。
 苦しくないのかと、少しばかり心配になってしまうのだが、如月は布団の中に潜り込み、孝史にぴたりと身を寄せていた。
 おかげで、朝方、急に冷え込みがきつくなっても、爪先が冷えて目が覚めるようなことはない。
 秋津家に引き取られて数ヶ月もすると、歳の割にはまだまだ小さいとはいえ、少しでも乱暴に触れたりしたら、ぱきりと骨が折れてしまうのではないかと、本気で怖くなるほどの細さだったことを思えば、少なくとも気軽に抱き上げてやれるくらいにはなった。頬には子供らしいまろみと健康的な赤みが差し、これでもう少し表情が顕われてさえ来ればといったところか。
 時に情緒の不安定さを見せながらも、概ね如月は聞き分けの良い子供ではあったのだが、ひとりで眠るということが、なかなか出来なかった。
 それは、齢十にしてようやく頼ることが出来る人間と出会ってしまった為かもしれない。
 けれど、ひとりの夜が寂しいということを知らないことも、不幸なことだ。
 ぞもぞと如月が布団から顔を出す。
 まだちゃんと目覚めてはいないようで、虚ろな表情には陰鬱な影がたゆたう。
 幸いにと言うべきか、もとより不在がちだった母親に置き去りにされたこと自体は、さほどの傷を残しはしなかったようなのだが、誰も側にいないことが当たり前だった時間が抉って行った傷は、深く根深いものだった。
 孝史が側にいるのが当たり前という現実を、数年経ってさえも未だ信じきれていないらしく、時折こんな顔をする。
「おはよう」
 額に口付けて、ぎゅーっと抱きしめてやると、孝史の胸に乗り上げるようにして縋り付いてくる。
 そして耳を押し当てて心臓の音を聞き、ようやく晴れやかな朝に相応しい、無防備な寝ぼけ顔を見せるのだ。

 互いに温もりを分かち合い、穏やかな時間を共有するだけの日に終焉が訪れたのは唐突だった。
 それも、孝史の方だけに。

 特に朝方になってから強く冷え込んできたせいだろうか、その日、如月は孝史の肩の付け根辺りに頭を載せ、孝史はそれをしっかり抱きかかえて眠っていた。
 それを、半覚醒状態の孝史が、どうして意識したのかは本人にも分からない。
 ただ、脇のあたりにやわらかなものが押し付けられているのを感じた。そして、それが何であるか思い当たり、一気に目が覚めた。
 いくら動転しているとはいえ、気持ち良さそうに眠っている如月を引きはがすわけにもいかず、孝史は途方に暮れた。
 いったいいつの間に。
 いや、気付くのが、遅過ぎたのだ。

 幸いだったのは、それが如月が旅立つ前夜だったということだろう。
 孝史は、かつて高校生の頃にクラスメイトと交わした会話を、今更のように思い出した。




「ったく、うざいんだよな、ぎゃあぎゃあと」
「分かる、最近は色気付いて、風呂上がりなんかに目が合うと、やらしいだのなんだの、まだ中学生になったばっかのおこちゃまが、何言ってんだって」
「だよなー。ったく、『図々しい』が服来て歩いてるようなもんのくせして」
 高校三年一学期の中間考査の結果が出て、どこか緩い空気の教室は、そんな話題で盛り上がっていた。理系クラスということもあってか、数人しかいない女子生徒の非難の視線など、無いに等しい。
「そう思わね?」
 いきなり話を振られて、孝史は手にしていたものから顔を上げた。
 先刻配られた、中間考査の結果だ。
 総合順位だけでなく、科目ごとの、学年順位、クラス順位、学年平均点、クラス平均点が記載されており、自分の立ち位置を知るのには便利な資料でもある。
 化学の点数がいまひとつだったのだが、平均点の低さに救われてるなあなどとぼんやり考えていたために、すぐに答えられずにいると、
「孝史には聞くだけ無駄!」
「え、でも孝史んとこの妹も今年から中学だろ」
「そうだけど、違うんだよ」
「なに、すごい美少女だとか!?」
 そんな風に、勝手に始まったやりとりが一段落すると、
「うちのは、可愛いぞ」
 面白くもなさそうに、孝史は彼らに向かってあっさりと言ってのけた。
 はたりと周囲に沈黙が落ちること数瞬の後、
「そりゃ、あの子は別格だろ……」
 中学からの友人でもある山室がぼそりと呟く。
 孝史と中学からの友人たちは、如月が孝史の本当の妹ではないことも、苗字すらも違うことを知っている。彼女が秋津家に引き取られてから、どれほど孝史が変わったかもだ。
 そして、彼は何度か秋津家を訪れたことがあり、実際に如月を知っていた。
 びくびくと人の気配に怯える臆病な飼い猫を馴らすように、お菓子や本で釣っては孝史を怒らせていたりとか、ろくでもない思い出付きで。
「えー、山室は知ってんだ?」
「どんなん?」
 興味津々と言った態で詰め寄られて、山室は背中にじわりと嫌な汗を滲ませた。
 なんとなく、孝史の視線が怖いような気がする。
「うー、図々しいの対極にあるみたいな?」
 疑問形でごまかしつつ、なんとか救いを求めようと視線を忙しなく動かしたが、それを受け止めたのは、大変に残念な相手だった。
「そりゃ、遠慮の塊なんじゃねえの? もらわれっこなんだろ? ネグレストの母親が捨ててったんだって?」
 概ね対人関係に問題のない孝史でも、良好な人間ばかりではない。彼も、そんなひとりだった。中学の頃から、同じクラスにいてもなんとなく反りが合わず、意見はことごとく対立し、やがては一方的に敵意を向けられるというのは、ありがちだが、もっとも対処がしにくい。
 周囲は水を打ったように静まり返った。
 知らなかったからではなく、敢えて誰も口にしなかったことだからでもあり、またわざわざ口にするようなことではないのだと知るだけの分別を持っていたからだ。ただし、彼を糾す者がいないのは、この問題の繊細さゆえではなく、あまりの低次元ぶりに開いた口が塞がらない状態だったからである。
 実際、如月が秋津家に引き取られたばかりの、彼らが中学生の 頃にも、このようなやりとりがあった。その時は孝史がキレて、危うく乱闘になりかけたのを山室たち仲の良い友人たちが羽交い締めにして止めたのだ。さすがに高校生ともなれば皆、分別というものを持ち、こんな幼稚な嫌味を言うものもいなかったのだが。
 まさか、あれの再現が……? と山室は先刻とは別の、嫌な汗を背中に感じて孝史の方を見遣ったが、拍子抜けするほど動じた様子のない顔をしていた。それもそうかとあっさり安堵したのは、この手の嫌がらせには散々遭遇していて、とうの昔にもっとも効果的な対処法を会得していることを思い出したからだった。
「全くもってその通りだな」
 平然と受けて答え、
「ま、そこが悩みどころなんだ。もう少し我が儘になって欲しいんだけどな」
 声や表情こそ山室たちと話すのと全く変わらないトーンだが、向ける視線はあからさまに『それ以上何か言いたいことはあるか?』と無言の圧力を掛ける。周囲の同情を引くでもなく、事実と同時に何やら惚気にも聞こえるようなひと言を付け加えられれば、氷点下にまで下がったかと錯覚するほど凍り付いた場の雰囲気は一気に氷解する。
 そうして、無神経な発言をしたクラスメイトは、冷ややかさと侮蔑を合わせた視線の集中砲火を浴びて、黙らざる得なくなるという光景が、随分と久しぶりに繰り広げられたのだった。

 事実そのものは凶器にならないことを孝史は既に知っていたから、その程度のことは家に帰ればすっかり忘れてしまっていた。珍しく思い出したのは、彼らのやりとりに、ふと思うところがあったからだった。
 ……色気?
 如月も中学生になり、いわゆる第二次性徴の時期になっても、孝史には今ひとつぴんと来なかった。その歳になっても、相変わらず如月は孝史と一緒に眠っていたのだが、端的に言って、抱き心地が変わらなかったのだ。
 身長は順調に伸びていたし、きちんとした食生活と生活環境は、健康的な身体を作っていったけれども、いわゆる女性らしい丸みとやわらかさとは無縁のままだった。
 良く言えばスレンダー。悪く言えば鶏ガラ。
 少年と見まがうような、凹凸に乏しい体型は、やはり幼少時の食環境の悪さが起因しているのだろう。
 けれど、それは孝史にとって都合のいい平穏をもたらしているのだと、後に思い知らされることになるとは、当然知る由もない。 




 どうして気付かないでいられたのだろう。
 ──いや、気付かないフリを、し続けていたのかも知れない。

 埒もない自問自答を繰り返しながら、旅立つ如月を見送ったのは、早春。
 様々なものが花開くには、まだ少し早い季節だった。
(了)

2011.10.22(webclap掲載物再録)


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