星月夜の森へ/番外編

── ReWind

傍観者


 山崎が、如月のことを気に掛けるようになったきっかけは、父親の知人から頼まれたことだ。
「この春に知人の娘さんが入学することになってね」
 何かと世話になっていることもあったし、あまり他人に構うことのないその人からの頼みということもあって、面倒だなと思いながらも了承したのだった。
 文学部人類文化学科。
 それだけでどんな学問なのか想像が付く者は稀だろう。
 到底就職に有利とも思えない上に、そのくせ受験では妙に倍率が高い。そのせいでもあるまいが、集まる人間はなかなか個性的だ。
 山崎はさらに院に進んでいて、渡部研究室で助手もどきなことをしている。予定では院を出た後、そのまま助手として正式採用される予定だ。
 とりあえず、つまらない人間ではないだろう。
 まだ見たこともない後輩に、そんな評価を下して、実はそのまましばらく忘れていた。
 そんな山崎の性格を見越してか、入学式やら説明会やらが終わり、通常に授業が開始される頃、念押しの電話が掛かって来て、ようやく思い出したという体たらくだった。
 如月と実際に言葉を交わしたのは、桜の花が散り、まだ日の光を透かす緑にキャンパスが包まれた頃のことだ。
 人当たりの良さなどに自覚はあるが、だからといって適当にナンパをするようなことをしてきているわけでもない。
 もっとも、実家が資産家で会社経営をしているというバックボーンのせいで、大学に入った頃から下心ありきで近付いてくる人間が増えてから、逆に来るもの拒まずというスタンスを貫いて、じっくりと為人を観察するようになっているのだが。
 それはともかくとして、周囲から思われている程、手練手管に長けているわけでもなかったから、声を掛けるにしてもきっかけが見付けられなかったのだった。もし、如月が渡部研究室を訪ねたときに山崎が居合せなかったら、ゴールデンウイークが明けても接触する機会がなかったかも知れない。

 なんだかんだと世話を焼き面倒を見るのに、如月がその甲斐のある後輩であったのは、山崎にとって嬉しい誤算だった。話をしてみると、こういう進路を選んだ者にありがちな視野の狭さはなく、興味は広範囲に渡っていて、大概のことには打てば響くような返答が返ってくる。
 構いつけているうちに、周囲は勝手な憶測のもと、噂をばらまき始めたが、山崎には特に不都合などなく、むしろ積極的にそれを否定しなかった。
 如月の方も、何やらしつこく絡んでくる男子学生がいて、山崎の存在はそれを牽制するのにちょうど良かったらしい。
 それにしても。
 周囲が簡単に誤解するのは無理もないと思うのは、一緒に歩いたりしているときの違和感、いや、そうではなく、逆に余りにしっくり来る感覚のせいだ。
 ──男の腕に納まり慣れている。
 けれど、どう見たところで、男と付き合い慣れているでもない。いつもシャツにジーンズというシンプル過ぎる格好で、制服から解放されておしゃれに勤しむ女子学生と比べたら地味も良いところなのだが、それが逆に清潔感があっていい、という者も少なくないのだろう。
 手入れが面倒だからという、女子としてそれはどうかという理由で、長かった髪をさっぱり切ってしまっても、あからさまな女性らしさは薄まったのかも知れないが、中性的な雰囲気や、ふと見える項の白さなど、逆に色気を感じさせる要素が増えた感もある。
 昼食は手作りの弁当、一人暮らしを始めたばかりでは、冷凍食品に助けられた拙いものだろうと思えば、煮物から揚げ物まで手作りのものだ。そこには初心者らしい気負いはなく、家事に対しての慣れを感じさせた。
 一体、どういう環境で育ったのだろう?
 簡単に事情を聞いてはいたが、その割には擦れたところはない。もっと世間に対して狡く甘えた性格であるほうが、納得出来るくらいだ。
 その疑問が解消されたのは、秋口のことだ。
 珍しく、如月が酷く不機嫌な様子で、カフェテリアにいた。
 ひとりでいれば、誰か声を掛けそうなものだが、それを許す雰囲気では到底なかった。
「どーした?」
 紙コップのコーヒーを片手に、隣の椅子に腰を降ろした山崎を見る眼は、いつになく剣呑だった。
「そういや、今日、お兄さんと会うんだっけ?」
 夏休みの短い帰省以来、久々に会うのだと嬉しそうに話していたことを山崎は思い出した。夕食をとる店は何処が良いか、美味しい店はどこかなど聞かれて、いくつかピックアップして教えている。
「……取材先の人と食事をすることになったから、また今度、って」
 取材先の人間に誘われたら、先約が仕事に関わるならともかく、家族との夕食というのでは断れないことは分かっているのだろう。おそらくは、物わかりの良い顔をして、その連絡を受けたに違いない。
「では、やさしーい先輩が、かわいそーな後輩に夕飯をごちそうしてあげよう」
 わざと茶化して言うと、むっとしたような顔で上目遣いに睨んで来たが、
「美味しいところ、連れてって下さいね」
 口調こそ何やら刺々しいが、滅多に聞くことのない甘えた言葉に、野良猫が渋々懐いてくる姿を想像してしまった。
 道すがら、
「最終の特急で帰るくらいなら、うちに泊まれば良いのに」
 ぽつりと如月は呟いた。
 どうやら怒りの根幹は、夕飯を一緒にとる約束が反故になったことではなく、そこにあるようだった。
 首都圏までは特急で二時間余り、会社の始業時間に間に合わせるのにはさほど困る距離ではない。最終の特急では、日付が変わる前には自宅に到着出来ないだろうことを考えれば、一泊した方が楽なくらいだろう。着替えを用意していなかったのだとしても、地方都市だが、午後八時には店が閉まって買い物に困るというほど田舎でもないし、コンビニなどもさほど探さずに見付けられる程度には散在している。
「社会人にはいろいろと事情があるんだよ」
 そんなことを言いながら、久しぶりに贅沢してみるか、と山崎は目的の店を変えた。
 生家が資産家というだけでなく、彼自身も生前贈与された会社の株を持っていたし、高校生の頃に趣味で始めた株式投資のおかげでちょっとした小金持ちだ。周囲に悟られたくないから、気前の良い先輩という姿はそのままに、後輩たちにおごる店は大衆的な店だけにしている。如月も、安くて美味しい定食屋にはしょっちゅう連れて行くけれど、デートで使うような小じゃれた店には行ったことがない。
 だから、バスを降りて十分ほど歩いた先にある店に着いたとき、如月は余程驚いたのか、目をまん丸にしていた。
「山崎先輩っ、ここは駄目です、見るからに高そうじゃないですか!」
 小さな声で叫ぶという器用なことをして、如月は足を止めると、山崎の袖を引っ張った。
「思ってるよりリーズナブルだぞ、多分」
「でも、こんな格好で入っていいんですかっ」
 そのあたりは、それなりの育ちの良さなのだろう、きちんとしたレストランにはそれに相応しい服装をすべしと叩き込まれているらしく、如月はジャケット代わりに羽織っているダンガリーシャツを見せつけるように、軽く曲げた腕を広げた。
「ここ、外装で誤解されるんだけど、普通にカジュアルなレストランだから。中にいる客、見てみ?」
 畏まった身なりの客と同じくらいに、どうやら近所の住人らしく、随分とラフな格好をした家族連れの姿もあるのを見て、ようやく如月は山崎に背を押されるまま店内へと足を踏み入れたのだった。
 普通、いかにも高そうな店に連れてきたら、女性は手放しで喜ぶものだ。それに、こういう店に連れて来てもらえたことに、妙な優越感を持ったりされて、面倒なことになることもあるものなのだが、そういう気配は欠片もない。
 むしろ、我が儘を言って申し訳ないと恐縮しきりだ。
  この先、どういう付き合いをしていくにしろ、山崎に取ってそれは非常に好ましいことだった。
「あ」
 庭に面した席に案内されて、ウェイターが引いた椅子に腰掛ける直前、如月の動きが一瞬固まった。
「どうした?」
 尋ねながらも如月の視線の先を見れば、会社帰りと思しきスーツ姿の青年と同年代かやや年上に見える女性が同席していた。
「もしかして、あれがお兄さん?」
 こくりと如月は頷いた。二人の視線に相手方も気付いたようで、女性の方は怪訝な顔をしていたが、青年の方はその女性に二言三言告げると、席を立って山崎たち方へやって来た。
「孝にい、あの、」
「山崎さんですね? はじめまして。さらがお世話になっています」
 すっかり慣れた所作で名刺を取り出し、孝史は山崎にそれを渡した。
「ご丁寧にどうも」
 山崎の方も、名前と連絡先だけを記したシンプルな名刺を渡す。まだ学生とはいえ、フィールドワークに出た時など、何かと入り用なのだ。
 それにしても、『さら』って、誰だ? 渾名か?
 ふと湧いた疑問が解決する間もなく、孝史は慇懃な笑みを浮かべて、
「よければ、ご一緒にどうですか」
 と提案してきた。如月が兄に会えないことをあれほど寂しがっていたことを考えれば、首肯したいところだが、相手が会社関係となると可哀想だが、遠慮すべきだろうと、山崎が答えるより先に、
「孝にい、いいよ、お仕事の人なんでしょう?」
 如月はきっぱりと断った。
 が。
「いや、この店に誘って下さったのは彼女の上司で……まあ、うまく嵌められたと言うか。正直、気詰まりなんで、助けると思って同席していただけたらと」
 孝史の方は、山崎の方に向かってこそりとそう言い、肩をすくめた。
「そういうことでしたら」
 分からないでもない事情に、山崎がやや意地の悪い顔でそう返すと、孝史はすぐにウェイターを呼んで、四人掛けの席に変えてもらったのだった。
「はじめまして、兄がお世話になっています。妹の如月と申します。ご一緒させていただいて……ご迷惑ではありませんか?」
 すっかり取り残され気味の女性は、席についてしまってからご迷惑も何もあったものじゃないだろうと、毒づきたかったに違いなかろうが、
「杉浦と申します。こちらこそ……、妹さんとお会いになる予定があるなんて知らなかったものですから……」
 と、微笑の手本のような顔で如月を安心させた。
 もっとも、彼等から顔を逸らしたその一瞬、実に忌々しげな、般若もかくやという表情だったのは言うまでもない。それを素知らぬ顔で見ていた山崎は、実に人の悪い笑みをこっそりと浮かべたのだった。

 とは言うものの、男性陣はどちらも話し上手で、料理のおいしさも相俟って、それなりに楽しい時間となった。杉浦ひとりを居たたまれないような状況にしたところで、益は何もない。
 バス停で彼女を見送った後、
「孝にい、やっぱり帰るの?」
「明日も仕事あるからな」
 そんなやりとりに、山崎は口を挟んだ。
「でも、これから帰ると、ご自宅に着くのは日付変わってからになりますよね。それより一泊して、早い時間の特急で帰られた方が楽だと思いますよ」
 そうだと言わんばかりに見上げる如月の目力に負けたのか、体調などを鑑みての判断なのかはともかく、
「いいのか? 掃除してないとか、拙いものが出しっ放しとか」
「莫迦にい! お布団も干してあるよ!」
 キレた如月など、孝史ですら滅多に見たことがないことを、山崎はまだ知らなかったから、なんとも仲の良い微笑ましい兄妹だなあ、と暢気に眺めていた。
「バスを待っているのも面倒だから、タクシーで帰ります。山崎さん、今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそご馳走さまでした、年上なのに、申し訳ない」
「一応社会人なんで、花持たせて下さい」
 二、三時間の会話の中で、山崎が学生とはいえ既に親元から経済的にも独立していることは察せられていたのだろう、そのあたりを微妙に含ませての返答に、この兄妹共々、長い付き合いになればいいと思う。
「じゃあ」
 と去って行く二人の後ろ姿を見て、ふと気付く。
 ──なるほど、男の腕の中に納まり慣れている理由は、あれか。

 その後、山崎は孝史ともメールをやりとりするようになり、単純で複雑なこの二人の関係を傍観することを、一種のライフワークにしてしまったのだった。
(了)

2011.10.22(webclap掲載物再録)


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